(5)
なだらかに滑っていく午後を、私はひとり、過ごしていた。英一くんのいない、寒さの緩んだ、クリスマス明けの金曜だった。ベンチに座って笑顔で会話しながら通り過ぎていく、スーツ姿の男女の背を追うと、鼻がつんとした。不安がしみ通った。
風は穏やかで、水は滑らかだった。それなのに鼻腔を通り抜けていく寒さが涙を誘った。泣いてしまうなんて情けないけれど、目の端にどうしても涙が浮かんだ。一人前にならなくてはいけないのに、もうぜんぜん、形からなってない。中身もきっと、なってない。
私は英一くんと一緒にいつまでもいられるのだろうか。私がすべきなのは英一くんにふさわしい女性になることで、今のこんな自分を消し去ることなんだろうけれど、淡色の高校一年生は透き通って簡単に侵されるのだった。
私の心のさざめきに全く動じない水面が恨めしくて、手近な小石を放り込んで川をなぶろうとしたのだけれど、滑らかな水はささやかな波をあっという間に飲み込んで、すぐに静かになってしまう。小さな私は、この環境にあっては本当につまらないものなのだと分かった。周りは強い。私は弱い。その場にしゃがみ込んで、膝に顔を埋めて泣いた。
「早苗?」
しばらくしてそんな私の背中に声がかかった。お母さんだった。
「泣いているの? 悩むのは仕方ないけれど、ひとり考えていてもどうにもならないことは多いわ。話せる?」
お母さんは、さすがに親だった。優しくて、強かった。でも、私の話を聞いてこういった。
「人間なんて、たいていつまらないわ、この世界からしたらね」
お父さんだけを頼りにしてこの国で暮らすお母さんには、すごく当たり前のことのようだった。
「英一くんはすっごく頼れるの。私、全然釣り合ってない。お母さんは、英一くんのうちが立派なの、知ってるでしょう?」
お母さんは私から目をそらして、そばの木立を見上げた。
「たくさんの人々を一言で殺し尽くすような、とてつもない権力を持つ人も、確かに出てくるわ。でも、そういう人だって病気なんかにかかってあっけなく死んでしまって、世界にとってはつまらない一時代を終えるの。すごい学者の研究は後生の考え方に影響を及ぼしたりするけれど、その人は別に理屈をねじ曲げたりしたわけじゃないわ。評価されて偉人とされる人だって、どちらにしろ人間の範疇を出ないしね。だいたいみんな、恋愛して、寂しくなって、誰かに助けられて、そして助けて、そうやって一生を過ごすの。大事なところは、みんな、そういうところなの。すごい力を持っても、いい頭を持っても、人間は世界の隅っこで、幸福になろうと生きるわ。人がひとり増えても、ひとり死んでも、たいていどうでもいいことよ。でも、早苗にとっての英一さんはかけがえのないひとりだし、きっと英一さんにとっての早苗もそう。もちろん、私にとっての早苗も。そうやって世界にとってはつまらないことを大事にして、みんな存在してるのよ」
私はその時、今まで以上にお母さんって、すごい、と思った。なんだろう、私とはできが違う。考えてみれば今から十年以上前に、かつての敵国へ嫁いでしまうなんて先進的だし、日本で暮らすようになってからすぐに日本語を覚えてしまったらしい。おじいちゃんたちがロシア系だからかも知れないけれど、ロシア語もできるみたいだし、料理も得意だ。
「どうしたの? 大丈夫?」
不思議そうに私を覗くお母さんの顔に気づいて、私はぽかんと開け広げた口に力を込めて言った。
「お母さん、すごいね。さすがだよ」
お母さんはますます不思議な顔をして、
「よく分からないけれど、さすがって、何を根拠にさすがなの?」と言った。
「ほら、アメリカ人でこんな日本語上手な人、滅多にいないよ。家事も得意だし、頭もいいし、芸術にも理解がある。すごい」
少し笑って、お母さんは私の頭に手を置いた。
「そう、じゃ、早苗も私の血が半分は入っているから大丈夫ね。後の半分も心配いらないわよ。重弘さんのだもの」
私はそう言われて、後から考えるとバカみたい、と思ったのだけれど、この時、そうか、そうだった、と思った。私は素直に「そうだね、お母さんとお父さんが恥ずかしくないようにする」と答えた。お母さんは、そう願うわ、と言った。
「それとね」
視線を川にやって、お母さんは言葉を継ぐ。
「先入観は難しいけれども、それを覆すのも先入観をもたれた人であることは間違いないわ。ひとつ、あなたが立派であることより、あなたが相手に対して誠実であることの方が、閉ざされた心をこじ開けるには役に立つわよ」
私は笑った。きっと立派にはなれないけれど、相手のことを考えるのは努力次第だ。
「戦略だね。ありがとう、どうすればいいのか分かったよ」
「それはよかった。そう、これは戦略なのだけれどね……英一さんの御家族に限るなら、それは戦略としてではなく、真心として受けとめなければならないわ」
光る水面を眺めながら、私は復唱した。
「真心」
「あなたがどこへ行こうと、幸せならいいわ。でもね、ひとり幸せなんて、きっとそんなもの偽物よ。あなたの幸せは周りの幸せ。家族って、そういうものよ。その歴史が浅かろうと深かろうと」
川の流れを見つめるお母さんに、私は「愛情だね」と言った。お母さんは静かに頷いた。頷いて見せてお母さんは不思議なことを言った。
「私のは、愛情なのかしら」
私は、え、と漏らしてしまった。私にとっては疑う余地のないことだった。
「私はお母さん、愛に溢れた人だと思うけれど」
お母さんはほほえんだ。美しい顔なのに、なぜか変だった。
「なんで、愛が深い人じゃなきゃ、私にも声をかけなかったし、お父さんや周りのために日本に溶け込もうともしなかったでしょう?」
お母さんは、そうね、と言うように頷く。浅い首の動きがあきらめを表しているかのようだった。お母さんはすごくて、私をいつも助けてくれる。今もそうだったのに、突然見せた悩める姿を、私は癒やすことができない。
私は悲しくなった。私には愛はあるだろう。でも、やっぱりもっと立派じゃなきゃいけないのではないか。
風が吹いて私は首をすくめた。
「帰ろうか」
差し出された手を私は必死に握った。幼子みたいだけれど、今は繋がなければならないと思った。
「お母さん」
振り返らず、お母さんは、うん、と答えた。
「風が吹いて、寒さを気遣う。愛じゃない。私にだけじゃなく、お父さんにだって、近所の人にだって、そうしてるでしょう? それって、愛だよ」
「うん」
「よく分からないけれど、それは疑う必要ないよ」
「そうかしら」
そうかしら、と淡泊な言葉を返したけれど、お母さんの横顔は美しかった。欧米顔の白く薄い笑いが、夕景の温かさにとても美しかった。今は変ではない。お母さんの心と言葉の証明だった。