(3)
ティンパニが激しく打たれ、金管が高らかに鳴って、閉じた。拍手と歓声のあと、劇場をあとにした私たちは、高揚した気分を落ち着けながら、人の波の中を家路についていた。
「私たちは勝つんだ。大丈夫、街はきっと大丈夫だ。あの曲がこの街の勝利の象徴となる。レニングラードは……」
お父さんが熱を込めて語る。街の外には兵士がいるのだろう。正義の赤い軍隊を威嚇するように街の周囲に掲げられた旗は、偽物の赤で染められた中央に悪魔のような黒いマークがついている。その様子を思い浮かべて、私は奮い立った。
「お父さんとお母さん、そしてこの街を守ってくれるように、私、お祈りする」
「そうね、お願いね」
左手を曳くお母さんの顔が、宵闇の中でぽっと明るく光って見えた。それが、私の希望の象徴なのです。
「私たちだって、頑張るんだからな、お前には負けないぞ」
お父さんも大きく笑った。私の安息の標。
きっといつまでも、私はそれに導かれていくのです。
目が開いた。ああ、夢だったのだと、カーテンから漏れてくるスズメの声をだんだんはっきりと捉えながら、思う。
今日のおじいちゃんとおばあちゃんは、いつもよりずっと近くで、私の心に触れてくれたような気がした。一緒に暮らしていた父方のちょっと呆けてしまったおじいちゃんも、お母さんには厳しかったおばあちゃんも、私にはとっても優しかった。おじいちゃんが先に逝ってしまって、凜としていたおばあちゃんは急に通っていた芯が折れてしまったようにしおれてしまい、間もなく後を追うように亡くなった。悲しくて、心が押しつぶされそうで、泣き続けていたお葬式のあとの夜に、母方のおじいちゃんとおばあちゃんははじめて現れ、それ以降、私の枕元に寄り添ってくれている。私はお母さんの方のおじいちゃんとおばあちゃんのことをそれまで考えていなかった。確かに存在したからお母さんはここにいて、そして、いなくなってしまったからお母さんは結婚して以来、一度もアメリカの土を踏んでいないのだと思う。
お母さんにもお父さんとお母さん、いるの、とばかなことを聞いた私にその時ばかりは目を伏せて、「死んでしまったわ、でも、ちゃんといたのよ」と答えたお母さんの悲しそうな雰囲気に、子どもの頃の私は聞いてはいけないことだったのだと後悔した。当たり前だ。
いつかお母さんとアメリカ旅行をして、お母さんの足跡を見せて貰いたいと思う。
私は布団の外から染みこむ冷えに首を縮込ませながら振って、おじいちゃんとおばあちゃんの温かさを思い出した。あの街はどうしてあんなに不穏だったのだろう、おじいちゃんとおばあちゃんの向こうに、私たちを押しつぶそうとしていたかのように覆い被さった闇を見ていた。
ダイニングに入ると、朝の光は変わらずお母さんをほんわりと照らしていた。今日もショスタコの七番が流れている。ああ、そう言えばこの曲は「レニングラード」と呼ばれているのだった。夢の中のおじいちゃんが言った言葉を思い出して、私は納得した。
「今日もいい顔色ね、おはよう」
テーブルについてお茶を飲むお母さんが今日もまたほほえんだ。希望の象徴と言えばそうだな、お母さんにとってのおばあちゃんと、私にとってのお母さんとが連続したものなんだと何となく感じた。
「おじいちゃんとおばあちゃんに会うの、夢の中で」
席につきながら言った。
「亡くなったお父さんと、お母さん?」
「違うの、お母さんの方のおじいちゃんとおばあちゃん」
お母さんは珍しく驚いた顔になった。
「私の? 早苗になにか話したり見せたりしたかしら」
私はお母さんの驚き顔に驚かされてしまって、お箸を持ったままお母さんの顔をぽかんと見つめて言った。
「え、ううん。ただ、そう思っただけだよ」
お母さんは何も無かったように、そう、とつぶやいてお茶をすすった。
「たくさんの人が夜の劇場をあとにするところまではいつも一緒なんだけれど」
私も食事を再開しながら言った。
「今日はおじいちゃんもおばあちゃんも近かったよ。私たちは勝つって言ってた。街は大丈夫だって。最後はあまり聞こえなかったけれど、レニングラードは大丈夫ってことだったのかな。あれ、レニングラードってソ連? おじいちゃんたちの血筋って、ロシア系なの?」
顔を上げると横に流れたお母さんの目がこちらに戻るところだった。
「そうね、レニングラードはソ連第二の都市よ。日本で言ったら大阪になるのかしら。おじいちゃんたちがロシア系なのもそう。……そう、早苗のところに出てくるのね。それ、きっとおじいちゃんとおばあちゃんよ。私のところには出て来てくれないの。今度会ったら、よろしく伝えてくれる?」
そう言ってお母さんはきれいに笑った。朝日を負って影になった顔が、青白く、あせて見えた。