【8】キッカケ
会社に着いてからも、菅沼は仕事が手に付かなかった。
今日の打ち合わせの内容は、麻美がプランニングしているので問題はないが、夕方の会議に使う資料をまとめなければならない。
それでも何とか休憩ロビーを行ったり来たりしてタバコを何度も吸って気分転換しながら資料はまとめた。
時刻はもう直ぐ5時になるところだった。
窓から見る外の景色は次第にほの暗くなって、遠くの空に陽が沈んでいくのが見える。
……昨日の、いや一度目の今日も、俺はこの景色を見ていたのだろうか……
今日の胸騒ぎはいったいなんだったのか……
「チーフ、お茶の葉を買ってくるんですけど、ついでに買ってくるものありますか」
麻美が休憩ロビーに顔を出した。夕方の会議で使うのにお茶の葉が切れたのだろう。
コーヒーを好む者とお茶を好む者がいる為、両方用意するのが常なのだ。
本来はもっと下っ端の娘がやるべき事なのだが、彼女はいろいろと世話係が好きらしく、余計な雑用も進んでやるのだ。
「ああ、タバコ買って来てくれ」
菅沼は、そう言ってポケットから小銭を取り出す。
「マルボロメンソールですよね。吸い過ぎには注意ですよ」
麻美はそう言って小銭を受け取ると、笑顔のままエレベーターへ向った。
菅沼はオフィスへ戻ろうとして、手持ちのタブレットも無くなっている事を思い出した。
習慣なのでタバコ同様無いと淋しい。
彼は麻美を追いかけてエレベータを待たずに階段を駆け下りた。
一階のロビーを抜けると、入り口に麻美の後姿が見える。
「中島」
菅沼の声に彼女が振り返った。
「どうしたんですか?」
「タブレットも買って来てくれ。ミントのやつな」
「わざわざ走って来たんですか?」
「ああ、何だか無いと落ち着かないならね」
菅沼はそう言って、再びポケットを探るがもう小銭は無かった。
「いいですよ。あたしが出して起きますから」
そう言って笑うと「携帯に掛けてくれればよかったのに」
「ああ、そうだ。そうだったな」
彼女の言葉に、菅沼も思わず苦笑して肩を落とす。
菅沼はどうも普段から何でも携帯電話で済まそうという気が働かない性格だった。直接会って言える事は、極力そうするのが習慣になっている。
その時、表通りで急ブレーキの音がして、二人は振り返った。
横断歩道を渡ろうとした歩行者が、右折車にぶつかりそうになっていた。
もちろん、歩行者をよく見ていなかった車に非がある。
しかし、その危うい光景を見た菅沼の脳裏に一瞬で何かの映像が飛び交った。
背筋がゾクゾクと疼いて悪寒が這い回り、思わず身震いした。
一瞬脳理を飛び交った映像は、包帯でぐるぐる巻きになった愛娘や泣き崩れる妻の映像だった。
それが本当に一度目の水曜日の光景という確信はない。しかし、彼にはじっとしている事など出来なかった。
「まど香……」
「えっ?」
麻美には菅沼の呟いた意味は判らなかった。
「悪い、中島。会議はお前が俺の代理で出てくれ」
「はあ?」
菅沼はそれだけ言うと、そのまま走り出そうとするが、直ぐに踵を返し
「中島、金貸してくれ」
「えっ? どうしたんですか」
「わけは後だ。いくら在る?」
麻美が財布から一万円札を出すと、菅沼はそれを掴んで
「すぐ返すからな。借りるぞ」
そう言って、歩道を走り出した。
まど香が事故に遭うんだ。そうだったのか。俺はそれが救いたい一身で事在るごとに何か引っ掛かりを感じていたんだ。
まど香は何処で事故に遭うんだっけ……
菅沼はさっき見た一瞬の映像を元に、一度目の水曜日を次々に思い出す。
……塾だ。塾へ行く途中と言っていた。
陽はもうすぐ沈みきる所で、あたりはだいぶほの暗くなって電飾看板の明かりがやたらと目立っていた。
そして、菅沼は突然立ち止まる。
……まど香の塾は何処にあるんだ。自分は娘が何処の塾へ行っているかも判らない。
菅沼はジャケットの内ポケットから携帯を取り出すと、裕美子の携帯に電話した。
「もしもし、どうしたの?」
電話に出た裕美子は相手が自分の亭主だと言うことに気付いていた。着信の表示を見たのだろう。
電話の後ろはやけに賑やかで、全員主婦にも関わらず女同士だとこんなにも騒がしいのかと菅沼は多少あきれ果てた。
「お前、今何処だ?」
「まだバスよ。首都高に入ったから、そんなには掛からないけど。何かあったの」
「いや、まだ」
「まだ?」
「あ、いや……それより、まど香の塾は何処にあるんだ?」
「どうしたの急に。……そう言えば今日あの娘塾だけど行ってないとか」
「もう塾は始まってるのか?」
「ああ、そう言えばまだ五時だわ」
「何時もは何時からだ?」
「六時からよ。ねえ、どうしたの?」
「後で話す。塾は何処だ?」
「隣駅から少し行ったビルの所」
「隣駅って、ウチから近い駅の隣か?」
「当たり前じゃない」
「少しって、どっちへ」
「はあ?」
「あそこの駅前は三差路に別れてるだろ」
「そうだっけ? どっちだろ。真っ直ぐじゃない」
「真っ直ぐはないぞ。右に二本と、左に一本通りが出てるんだ。真ん中って事か?」
「そんなの忘れたわよ」
……なんて奴だ。娘の身が掛かっているというのに。しかし、そんな事を言えるわけも無い。
「もういい」
菅沼は電話を切るとタクシーを拾って、とりあえず目的の駅へ急いだ。




