【3】電話
定時の帰宅時間はとうに過ぎていたが、菅沼は夕方からの会議の後、今日会った新しいクライアントの為の書類をチェックする為に会社に残っていた。
だいたい一〜二時間ほどの残業はもはや定時のうちだ。
ちょうど残業が終わった八時頃、オフィスの電話が鳴った。
菅沼は机のパソコンの電源を落とすと、自分の内線ボタンを押して、目の前の電話に出る。
社名を言い終わらないうちに、耳にあてた受話器からは聞き慣れた、しかし聞き慣れない震えた声が聞こえてきた。
「あなた……仕事、終わる?」
「あ、ああ。今終わったところだ」
裕美子の震える声に、彼は困惑した。
仕事場に電話をかけて来たことなど今までに無い事だ。何か今までには無い出来事が何か起こっているという事だろうか。
「おまえ、もう帰ってたのか」
何だか悪い予感を振るリ払うように、関係の無い言葉をだす。本当は「どうした?」と言わなければいけない事は察していた。
「まど香が……」
「まど香がどうかしたのか?」
心臓の鼓動が急に高鳴るのを感じた。どうもしないはずは無い。この震えた声は尋常じゃない。
「まど香が事故に……」
「事故だって?」
一瞬頭が半分以上空白になって、菅沼は妙に落ち着いた声を出した。一種の職業病なのかもしれない。緊張したり、焦った時ほど冷静な言葉が出る。
「それで、どんな事故だ。身体は無事なのか? 怪我は?」
直ぐに訊きたい事が頭の中を埋め尽くして次々に質問を投げかける。
「意識が……」
裕美子の声はそこで途切れるように嗚咽が聞こえた。
「……早く来て……」
精一杯の言葉だった。
しかし、それだけで娘の容態が酷い事は充分に伝わり、彼は敢えて静かな声で病院の場所などを訊き出す。
菅沼は急いで会社を駆け出すと、タクシーを拾って病院へ向った。
病院へ入る際に、携帯電話の電源を切ろうと取り出し、既に電源が切られている事を知る。
夕方の会議の際に電源を切って、そのまま忘れていたらしい。だから、裕美子は会社の電話にかけて来たのだ。
電源を入れ忘れていなければ、もっと早く知らせを受けられただろう。そう思うと、些細な失態がやたらと悔やまれる。
正面玄関はもう閉まっていて、菅沼は急患用の通用口に回った。ほの暗い入り口に、思わず足を止めて一端息をつく。
夜の病院は閑散として奇妙なもので、常夜灯の明かりが薄っすらとリノリウムの床に映りこんで彼を導いていた。
「まど香はどうなんだ?」
二階の手術室の前にある廊下の長椅子に腰掛けていた裕美子を見つけて、菅沼は足早に歩み寄る。
「今、緊急手術を」
「何処を怪我したんだ?」
「腕も足も……いっぱい骨折してるわ」
「そんなにか? 何があったんだ?」
しかし裕美子の口から出たのはその答えではなかった。
「まど香の携帯電話は、短縮一番があなただったそうじゃないの。どうして今日に限って携帯が通じないの?」
まど香は本当に父親の携帯番号を短縮一番に入れていたのだ。しかしそれが今日に限って役にはたたず、ちょうど旅行から帰宅途中の裕美子に連絡が入ったのだ。
「すまない……会議で電源を切ったきり、忘れて……」
菅沼は思わず俯いたが、裕美子もそれ以上彼を責めるつもりはなく、先ほどの問いに答えた。
「ひき逃げよ。塾へ行く途中に車がひき逃げして」
「ひき逃げだって?」
裕美子は菅沼から視線を外すと、俯いたまま頷く。
「それで、まど香の容態はどうなんだ?」
彼の言葉に裕美子は顔を上げたが、一瞬言葉に詰る。
「まだ判らないわ……でも、頭蓋骨が陥没して……」
彼女は泣き崩れるように、長椅子に手を着くと「脳の一部にダメージがあるって……」
一瞬で菅沼の思考がぐるぐると渦を描いた。
振り返って手術中の赤いランプを見つめると、それはぼやけて滲んで、赤い炎が溶け出すようにグニャグニャと変形した。
幼い頃のまど香の元気な姿が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、最後は今日見たばかりの笑顔に変わる。
それはあまりにも無邪気で、きらめく瞳の虹彩だけが残像となって彼の脳裏に何時までも残った。
菅沼は裕美子の隣にゆっくりと腰を下ろすと、彼女が知る限りの事故の状況を聞いた。
少しして、コツコツと言う足音が廊下の向こうに響いた。
それが近づいて来ると、通常エレベーターへ続く廊下の角から二人の背広の男が現れて、黒い人影はほの暗い廊下にも同じ色の影をゆらゆらと落としていた。
地味な安っぽいスーツを纏った二人組みは、菅沼と裕美子の二人に近づいて歩く速度を落とした。
「菅沼まど香さんのご両親ですか?」
声を出したのは四十代くらいだろうか。明らかに菅沼は自分よりも年上だと感じ取った。
怪訝な表情を見せる彼に、男は黒皮の小さなケースを取り出して開いて見せた。
警察のIDカードだ。
菅沼はそれを見ながら椅子から立ち上がって「ええ、そうですが」
「娘さんを轢いた犯人が出頭してきました」
「自首……ですか?」
菅沼は思わず、それほど離れていない刑事との距離を詰める。
「ええ、一応」
刑事の男は、背広の内ポケットにIDカードをゆっくりとしまう。
「念のため、飲酒検査をしたのですが、ごく微量のアルコールしか検知できませんでした」
「でも、それって飲酒ってことでしょ」
「いえ、酒気帯びになる数値でもないんです」
「それは今だからでしょ。車を運転していた時には飲酒だったんじゃないんですか?」
菅沼は思わず声を荒げた。
その声で、思わず裕美子はビクリと肩を震わせる。
こんな大声を出す彼を見たのは久しぶりだったからだ。
「だいたい、大通りの直線で、信号を無視したあげく歩道に突っ込むなんて普通じゃないでしょう。他の車も一台接触しているそうじゃないですか」
「それが、その場から逃げてしまった者の、その時の飲酒状態は立件が難しいんです。もちろん、私達も全力は尽くします」
「そんな……それじゃあ逃げ得って事ですか?」
椅子に腰掛けたままだった裕美子も思わず立ち上がる。
「いや、それは何とも……ただ、ひき逃げの罪も法改正で重くなってますから」
「そう言う問題じゃないでしょ」
菅沼は、淡々とした刑事の態度が無性に腹立たしく思えた。いかにもひと事として話しているようにしか見えない。
二人の刑事は、一端署へ戻るがまた直ぐ来ると言って引き返して行った。まど香の生死の状態が、犯人の罪状に直接関わるからだろう。
それからどのくらい経ったのか、菅沼にも裕美子にもわからない。
ただ、何となく腹が減ったと思った事は確かで、こんな時に腹が減るなんて自分はなんて情けない奴なのだと、菅沼は無言のまま自嘲した。
裕美子は目の焦点が合わないまま、ずっと正面の壁を見つめている。
まるで、まど香の治療風景がそこに映っているかのように……




