【2】通勤
申し訳ございませんが、3話から本来の展開にはいります。
ただ、1、2話も少し重要ですのでご辛抱お願いいたします。
五階建てのマンションは一世帯の作りは比較的大柄で、ワンフロアーに三世帯ずつしか入っていないので、全部合わせても15世帯しかいない。
菅沼家は五階の南西角側に位置する場所にあった。3LDKに意外と広いバルコニーも付いているし、家族三人で暮らすには充分だ。
ここの物件を見に来た時に、妻の裕美子がたまたま夕陽が沈む姿を見て酷く気に入り、彼女の要望で決めたのを覚えている。
確かに夕刻家にいる彼女が見る景色は、考慮するべきなのかも知れないと菅沼なりに思ったからだ。
決して彼女の尻に敷かれて決定権を全て持っていかれているわけではないのだろう……おそらく。
菅沼がマンションのエレベーターを降りると、管理人が玄関先を掃除していた。
何時もより一時間早い出勤なので、普段は出くわさない光景にも会う。
「おや、今日は早いんですね」
「ええ、ちょっと会議があって」
こうして早出の時ぐらいしか会わない管理人だが、人は良さそうだし何時もこの建物が綺麗なのも、この管理人のお陰だと言う事は彼も何となく判っている。
「さっき、まど香ちゃんが出て行ったよ」
「ええ、寝坊するところを娘に叩き起こされまして」
菅沼はそう言って苦笑した。
「カワイイ娘さんで、いろいろ心配なんじゃないですか?」
もう五十は越えていると思われる深いシワが、笑顔に刻まれている。確か、このマンションの物件オーナーだと以前聞いた事がある。
「いやぁ、もう、ほったらかしですよ。ボクよりよほどしっかりしてますから」
彼は少し照れながら髪に手を当てると、小さく会釈をしてバス停へ向う。
マンションから出ると住宅街の通りが百メートルほど続いて大通りへ出る。大通りを右に曲がると直ぐにバス停だ。
菅沼は数人の先客の後ろに並ぶと腕時計に目を配る。
八時十五分。本当は一本前のバスに乗るのがベストだったが、会議の始まりは何時も多少遅れるから、何とか大丈夫だろうと空を見上げる。
晴れ渡る青い空は、朝の気温の低下と共にそのコントラストを鮮明にさせてゆく。
行き交う車の騒音に混じって、明らかなバスの走行ノイズが近づいてくる。
女子高生が二人と小さなオバサンが一人。気付くと菅沼の後ろにもサラリーマン風の男が二人立っていた。
コンプレッサーの音を響かせて開いたバスのドアから次々に客が乗り込むと、彼もそれに続く。バス特有の事務的で殺伐とした匂いがこれから仕事場へ向かう意識へと気持ちを切り替えさせた。
現在三十五歳の菅沼明久は二十歳の頃に結婚した。
その時裕美子はまだ狭山の短大に通う19歳だったが、もうお腹の中にはまど香がいた。
何がキッカケで裕美子と知り合ったのか、菅沼はもう覚えていない。それだけ些細な事で知り合ったのだ。
特技が在るわけでも無く、容姿がカッコイイ訳でもない自分の何処に彼女は惚れたのか。菅沼自身も実は判らない。
それでもわざわざそれを訊こうとも思わずに、気付けば彼女は妊娠。それじゃあという、意外と軽い気持ちで結婚に至った気がする。
特に秀でた才能が在るわけではない彼は、IT企業の先駆けとなる会社へ就職し、時代の背景と共にその会社は大きくなった。
しかし二年前に株取引の問題で会社は大きく傾き、彼も辞めざるおえなかった。
大きな会社にいたとはいえ、プログラムが組めるわけでもない菅沼にとって再びIT関連の企業に就職する事はどうにも気の進まないものだった。
それでも、友人の知人が独立した会社で人手が足りないので手伝ってくれないかと誘われ、妻子を食わせなければという使命感に促されて今の会社へ入る。
六本木の会社へ通っていた頃に比べれば、家からも近い。当然手取りは下がったがそれほど生活に困るわけではなかった。
菅沼自身は特に何かの趣味で金が出てゆく事はなく、時折付き合いで会社帰りに飲み歩く程度なのが幸いしていたのだろう。
それでも裕美子は元々働くのを苦にしない性格で、以前からやっていたスーパーのパート時間を増やして家計を手助けするようになった。
以前は全てを自分で使っていたのだ。もちろん、まど香の衣服なども買ってあげていたことだろうが、基本的には菅沼が渡すお金で家計をやりくりしていた。
菅沼が再就職して間も無く、今の会社は業績を伸ばし始め、皮肉にも以前いた会社から枝分かれして不調になった企業を吸収して利益をさらに伸ばした。
去年の暮れには成功者の城である六本木への会社移転も囁かれたが、結局それは流れた。
その代わり、通り向かいの新しく改装したビルに移り、十階建ての上半分を占領している。
今年に入って給料も大幅に上がり、何の心配もなく生活しているが、裕美子は相変わらずパートで働き、それなりの自由を楽しんでいる。
お陰で彼女の貯金は今年になって大分増えたようで、最近自動車教習所にも通い始めた。どうやら自分専用の車を買うつもりらしい。
母親には服やバックを買ってもらっているまど香も、携帯電話やパソコンなどは父親に強請って来たりする。
彼女なりに時と場合によって強請る相手を考慮しているようだ。
それでも少し大きな瞳で笑いかけられると、つい買ってしまうのが彼の悪い癖で、先週も最新型の携帯電話をこっそり買ってあげたばかりだ。
「お父さんのは短縮一番だからね」
ほとんど電話などはかけて来た試しは無いが、娘にそう言われると嬉しいものだ。
再就職した年にはさすがに何も強請って来た事が無いから、その割り増し分でもある。
それに、何だかんだと裕美子がいない時には料理も洗濯もするまど香は、今時の娘にしては出来た娘だなどと、少々親バカな思いも当然ある。
会社の五十メートルほど手前のバス停でバスを降りた菅沼は、少し小走りで会社のビルへ向った。
広い歩道に連なる広葉樹林の並木は最近大分葉の色を変えて、殺伐とした風景で唯一秋の到来を実感できたりする。
菅沼が足早に向う先で、目の前の横断歩道を渡って来る部下の中島麻美に出くわす。
大通りと交差する通り向こうの商店街を抜けると、駅へ続いているのだ。
「ああ、チーフも遅刻ですか?」
横断歩道を渡りきった麻美が、息を切らせながら笑った。
「バカ言うな。まだ一分あるぞ」
コツコツというヒールの音に促されるように、菅沼は麻美と一緒に会社のビルへ駆け込んだ。
通常会議は月曜日が多いが、時折臨時会議が開かれる事も多く、早出の手当ては付かない役職の彼には少々損な役回りだ。
たいした能力も無いのに何故か業績はそれなりで、中途採用にも関わらず直ぐに役職に就けたのは、合併吸収した会社の社員がほとんど自分の下に位置した事と、社員の公募を増やして新人が多く入って来たからだ。
もちろん、人並みの人望も得てはいるが。
菅沼はオフィスには行かずに、直接会議室へ急いだ。
ドアを開けると、会議前のコーヒーを飲む連中が、和気藹々《わきあいあい》とまだ雑談をしている所だった。




