【11】水曜日の夜は初めてのコーヒーを【最終話】
「お前、塾は?」
固く抱擁した後で、菅沼はまど香に訊いた。
「こ、これからよ」
「六時からだろ」
「友達とアイス食べてたら、ちょっと遅くなってさ。途中でお母さんからも電話が来たし」
まど香が長電話をしていたのは母親の裕美子だったのだ。考えてみれば、家族間通話はいくら話しても通話料金が無料なのだ。
「お父さんこそ、あたしの塾に何の用? お母さんが言ってたよ」
「いや、塾じゃなくて、お前に用事だったんだ」
「だったら携帯に掛ければいいのに」
「いや……そうなんだが」
慌てるあまり、直ぐに気の回らなかった自分を思わず自嘲する。
「あっ、お父さん、脚どうしたの? 血が出てるよ」
まど香がしゃがんで、ズボンの裾を指の先で触って、父親を見上げる。
「どうしたの?」
「いや、ちょっとな」
苦笑するしかなかった。
何だか慌てまくった自分が、ちょっとバカみたいに思った。結局まど香は事故の危機には直面していないのだ。
「それより、お前。早く塾に行きなさい」
「でも、血が……」
菅沼は膝のキズの痛みを堪えてしゃがみ込んでまど香と視線を合わせると
「だいじょうぶだ、こんなキズ。早く塾へ行きなさい」
そう言って微笑んで見せた。
まど香は少し怪訝な笑みを返すと「うん」と頷き、自分の鞄から絆創膏を取り出して父親に渡した。
「じゃあハイ、とりあえずこれ貼っといて。帰ったらお母さんに手当てしてもらってね」
「ああ」
彼女は立ち上がると、塾へ向う路地へ向って歩き出す。
「あ、今晩はすき焼きだってさ」
再び振り返ったまど香の笑みは、横のタバコ屋の明かりに照らされて輝いて見えた。
「ああ、うまそうだ」
菅沼は立ち上がりながら少し大きな声で返すと、まど香が小走りに駆けて行く姿をしばらくの間見つめていた。娘にもらった絆創膏を握り締めて。
……それにしても、どうしてまど香は事故に巻き込まれなかったんだ。
自分が助けなければならないとばかり思っていたのに……それとも、やっぱり一度目の水曜日なんてものは無くて、全ては俺の妄想か夢の出来事だったのか?
少し前に耳にしたゴッドスポットという言葉を思い出した。
脳内の側頭葉で起きる現象で、視覚で見えていないものが見えてしまう症状らしい。
それは、ある意味本人にとっては現実で、他者から見れば幻覚なのだ。
今まで感じていたものは、結局自分の中での勝手な幻想でしかなかったのか。
そして俺は、これからも意味の無いデジャヴに遭遇するのか……
菅沼は途端に果てしなく空虚な思いに包まれ、自分の存在意義さえも見失いそうになる。
その時だ。
「あなた、水曜日なんですか?」
見知らぬ男に突然声を掛けられて、菅沼は振り返った。
「はぁ?」思わず眉を潜める。
「私、火曜日なんですよ。気付くと面白いですよね」
男はそう言って、不気味な笑みを浮かべる。
黒いスーツに青いネクタイをして、シルクハットを被っている。身長は170センチちょっとの菅沼と大差はないが、不健康なほどに身体は痩せ細っていた。
黒ずんだ顔には無数のシワが刻まれて、その割りには眼光が輝かしいので、年齢はまるで読み取れない。
「でもね、二度目を変える場合は、何も直接関わらなくても、ちょっと軌道を変えてやれば、それで周囲の未来は変わるもんなんですよ」
男は瞳をギラつかせて笑う。
「二度目って……やっぱり今日は二度目の水曜日なのか?」
菅沼は男の虹彩の中心でブラックホールのように漆黒の渦を巻く闇を見つめた。
「でも、この世界中でそれに気づく人間て、どれだけいるんでしょうね」
それだけ言うと、怪しげな笑みの残像だけを残して男は菅沼の前から立ち去っていった。
陽炎のように揺れながら大通りの歩道を歩く男の背中は、途中で闇に紛れて見えなくなった。
……軌道を変える?
そう、菅沼は一度目の水曜日には裕美子に電話を掛けていない。彼女に電話を掛けた時点で、既に二度目の水曜日は一度目と違うものになっていたのだ。
そして菅沼の電話を受けた裕美子はまど香の携帯に電話を入れた。
それが事故に巻き込まれるはずのまど香の行動に、僅かなズレを生じさせたのだろう。
もちろん、これはあのアヤシイ男の言葉から、菅沼が勝手に推測したに過ぎないのだが。
彼は、右脚を少し引きずりながら近くに在った自販機に歩み寄ると、冷たい缶コーヒーを買った。
プルタブを開けてそれを一気に喉へ流し込むと、息をついて紺青の空を見上げる。
まったく星の無い夜空だ。
このコーヒーを飲むのも、この空を見上げるのも、おそらくこれが初めてだろう。
菅沼は足の痛みも忘れて、見上げた夜空に向って思わず笑みを零した。
了…
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