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【10】事故

 菅沼は塾の階段を下りると直ぐに、まど香の携帯電話にコールした。

 繋がらない。話中だった。

 ……くそっ、こんな時にまど香の奴なにやってるんだ。

 そう思いながら時計を見るともう五時四十分を過ぎている。

 駅から見て左に向っている道路は、20メートルほど行くと直ぐに、大きなレンガ調の外壁のビルから入る路地があった。しかもそれは思いの外道幅は外広い。対向一車線だがセンターラインもあるし、歩道も備えている。

 角を曲がって三軒隣のビルには、確かに学習塾の看板が出ていた。

そして、その道路の向こう、200メートルほど先には大通りを行き交う車のヘッドライトが見える。

 何故ヘッドライトの光を見ただけで大通りと判断できたのか。

 それは、走るライトの数が以上に多かったのだ。それが一車線道路ではないと、菅沼は直ぐに気付いた。

 そうしていると、何人かの子供がビルへ入って行くのが見えた。

「あ、キミちょっと」

 まど香と同じくらいの男の子に声をかけると、相手は子供ながらに怪訝な顔で振り返る。

「この塾に、菅沼まど香って女の子はいないかな」

「さあ」

 彼は異常に素っ気無い態度でビルへ入って行った。

 ……なんだあれは?

 再びビルの入り口へ来た、今度は女の子に声をかける。

「あ、ちょっとキミ」

 彼女はとりあえず立ち止まったが、やはり怪訝そうに、そして不安げに菅沼を見上げた。

 彼は、自分がまど香の父である事を告げてから、娘の事を訪ねた。

「あたし、高校なんだけど」

「あ、ごめん」

 大人しそうな身なりのわりに、少し乱暴な答え方の少女に彼は一瞬ギョッとした。

「まど香に何か用ですか?」

 その時、菅沼のすぐ後ろで声がした。

 振り返ると、背丈はあるがやせ細って何処か華奢なイメージの男の子が立っている。

「ああ、まど香はボクの娘でね。ちょっと急用なんだ」

「まど香……まど香さんなら、他の友達と寄るところが在るって言ってましたよ」

「キミは?」

「同じクラスの安藤って言います」

「まど香はここの塾なんだね」

 思わず菅沼が確認すると、途端に安藤の顔が曇る。

「え、ええ。そうですけど。お父さんなのに知らないんですか?」

「あ、いや……とにかく有難う」

 菅沼は、そのまま塾を後にして大通りを目指して歩き出すと、直ぐに足早になった。

 小走りになって再びまど香の携帯にコールする。

 まだ話し中だ。

 ……くそっ、誰と話してるんだ。こんな時に。

 時計を見ると、もう五時五十分になるところだ。

 菅沼はとにかく走った。

 大通りまでは200メートル在るか無いか。そう遠い距離ではない。しかし、間に合うだろうか。まど香が事故に遭うまではもう何分も無いだろう。

 再びまど香にコールを入れる。

 しかし、まだ話中だ。

 その時、突然細い路地から大型のスクーターが飛び出して来た。

 キキッとギリギリで停まったものの、菅沼は軽くそれと接触して歩道に倒れた。受身をとろうとわざと一回転したのがよくなかった。

 何かが割れたガラス片に膝を着いてしまったのだ。

「うっ……」

 今時はほとんどペットボトルが使用されているのに、いったい何が割れたものなのか判らなかったが、日本酒の空きビンのような感じはした。

「大丈夫ですか?」

 バイクの男が慌てて、バイクを降り菅沼に駆け寄る。

「あ、ああ」

 彼は男の行動には目もくれずに曖昧な返事だけを返して、大通りへ向おうと足を踏み出した。

「うっ……」

 右脚に痛みが走った。

 思いの外傷が深いのか、生ぬるい血液の感触が脛を伝うのが判った。

「くそっ」

 構わず駆け出すが、踏み出す度に切れたであろう右膝がズキズキと痛んだ。

 時計を見ると五十五分になる。

 まど香は何処だ。ここを通るんじゃないのか。さっきの塾に来るんじゃないのか。

 再びまど香の携帯電話にコールするがまだ話中だ。

 ……おかしいぞ。こんなに長電話をするなんておかしい……いったい誰と話しているんだ。それとも、もう、事故に遭って壊れた携帯電話が通話中になってしまっているのか?

 菅沼は痛む足でとにかく前に進んだ。あの大通りまではどうしても行かなくてはならない気がしたのだ。

 それがもう目の前だと言う時、突然大通りから激しいブレーキ音と何かのぶつかる音が、完全に暮れた夜気を震わせて響き渡る。

 金属が擦れる音、ぶつかる音。そしてガラスが割れる音が確かに確認できた。オイルの焼けたような、焦げ臭いような臭いが風に乗って菅沼の鼻孔にも届いて来た。

「まど香……」

 菅沼は足の痛みも忘れて走っていた。

 夕方に見たフラッシュバックが再び脳裏に蘇える。

 全身包帯のまど香の顔は腫れ上がって、瞼の開く気配など全く無い。

 人工呼吸器の定期的な音が鼓膜の奥に響き渡る。

 ……俺はいったい何をしていたんだ。こんな足の痛みくらいでいったい……娘が植物状態になるのを防がなければいけなかったのに。こんな膝、どうだっていじゃないか。

 俺は何て情けない奴だ。自分の娘一人守れないなんて……

 大通りに出た瞬間、菅沼はわが目を疑った。

 粉塵か煙か、とにかくその通りは微かに煙っていて、オイルとガソリンの臭いが鼻を突いた。

 信号機の支柱がグニャリと曲がって、一台の車はボンネットから煙を上げて止まっている。

 しかし、支柱を曲げたにしては、止まっている車は向きが大分ずれている。

 ……そうだ、事故を起こした車は逃げたんだ。

 広い歩道には数人の野次馬が既にまばらに立ち止まっていて、菅沼はそれを掻き分けるように現場の前に出た。

 歩道と車道を仕切る柵もグニャリと曲がっている。

「怪我人は?」

 直ぐ横にいた男の肩を掴んだ。

「いや……怪我人っていうか、あの車の運転手くらいじゃないの。ぶつかった奴はサッサと逃げちゃったし……」

 男は路上で止まっている車を指差す。

 ……そんなバカな。この事故は違うのか? これは、まど香に関係ない事故なのか……

「通行人は誰も怪我しなかったのか?」

「たぶん。俺が見てた限りでは……」

 菅沼は訳が判らずに、グニャリと曲がった歩道の柵を見つめた。確かに周囲に血痕などは見当たらないし、誰も倒れていない。

 事故はここだけじゃないのか……他でも起きるのだろうか。

 菅沼が焦りを露に思考を巡らせていたその時

「お父さん?」

 後から聞き覚えのある声が聞こえた。

 鼓膜に染み渡るそれは、何ともいえない懐かしいものに思えて、一瞬空耳にさえ感じた。

 菅沼は肩で息をしながらゆっくりと振り返る。

 そこにはまど香の姿があった。

何処も怪我などしていない。昼間会ったままの元気な姿で、愛くるしい瞳を見開いている。

「ど、どうしたの? そんなカッコウで」

 まど香はそう言いながら父親に歩み寄る。

 菅沼はバイクと接触して転げた為に、背広もズボンも砂と誇りまみれだった。しかも、ガラス片で切った右膝は小さく破れ、血が流れてズボンの裾口までを黒く染めていた。

「ま、まど香……」

 菅沼は思わず娘を抱きしめた。

「な、なに? どうしたの。なんでこんなにボロボロなの?」

 まど香は事情が判らずただ父親に抱きしめられて、窮屈な思いをしながら周囲に対して恥ずかしさだけが込み上げていた。




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