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プロローグ〜【1】朝の風景

 初めてそれに気がついたのは何時の事なのか、もう忘れてしまった。

 今更それを思い出しても意味が無い事は判っている。判っていても、やはり記憶を辿ってみては深い霧の中にはまり込んで身動き出来なくなり、結局後戻りの繰り返しだ。

 結婚した後だと言う事は確かなのだが、一人娘のまど香が生まれた後か、それとも以前に気付いていたのかは記憶が定かでない。

 ほら、この感覚。これだ。コーヒーに入れる砂糖をほんの少しテーブルに溢しただけなのに……

 水曜日には、何故か不思議な感覚に囚われる事が多い。

 何が不思議かと言うと、何だか以前に同じ事をしたような気持ちになるのだ。

 一般にそれはデジャヴと言うそうだが、科学的検証では初めて行った行為や目にした風景、事柄が昔の記憶と混同して脳が認識してしまう為に起こるのだそうだ。

 しかし……本当にそうなのだろうか。

 もしも、今日と同じ日を以前にも経験しているとしたら……いや、それはありえ無い事だが……もしもそうなら、頑張ればもっと色んな記憶が蘇えってもおかしくは無いだろう。

 その奇妙な感覚は、毎週では無いものの水曜日に限って起こる。自分でも気のせいだと思い、ある時期記録を付けてみた。

 何か以前行ったような、前にも見たような気がしたら手帳にその日付と時間を書き込むのだ。

 ……間違いなかった。自分は水曜日に限り、デジャヴを感じ取るのだ。

 何かこの曜日に特別な理由があるのだろうか。

 ひたすら科学的に検証するならば、水曜日が何らかの心理的要因を引き起こし、自分の記憶、又は脳そのものを刺激して履き違いを起こさせているのだろう。

 今こうして朝のコーヒーに砂糖を入れる行動も以前に経験したような気がする。いや、もちろん毎朝コーヒーは飲むしその度に砂糖とミルクも入れる。

 しかし、今テーブルにほんの少しだけスプーンから落ちてしまったグラニュー糖の姿を、何故か最近見た記憶があるのだ。

 経験したと言うのが正しいだろう。

 だからそれがデジャヴと言われればそうなのかもしれない……

 それでも自分の中ではどうにも納得が出来ずに、認める事は出来ないようだ。

 もしも自分自身が考えている通りの事が起こっているならば……いや、これはあまりにも非科学的な考えなのだが、それでもどちらかと言えばそれが自分的にはシックリ来る。

 理由や原理なんてものはとうてい想像もつかないが、この考えは全てを納得させるものなのだ。

 俺は水曜日を少なくとも二度繰り返している。

 先に言った様に毎週ではないのだろう。何も感じない水曜日もあるのは事実だ。

 しかし、もし本当に水曜日を二度繰り返しているとすれば、その鮮明な記憶さえ自分に刻み込めたとしたら……

 刻み込めたとしたなら……競馬へ行こう。

 水曜の朝目覚めると、何から何まで意識的に行うようになった。二度目に記憶をつなげる為に。

 今のこの水曜日が一度目なのか二度目なのかは何かを感じるまでは判らない。だから、できるだけ何をして、何を考えたか記憶の中央に刻むようにしている。

 それでも気がつくとデジャヴに襲われることも多く、この水曜日はもう一度目ではないのだと落胆せざるおえなくなる事が多い。

 しかし、もし三度目が在るとしたら……

 俺はいったい、水曜日をどれだけ繰り返してから翌日へ移行するのだろうか……

 木曜日は確実に訪れ、金曜日も週末もちゃんとやって来て次の週を迎えているのだから、永遠に水曜日に囚われる心配はないものの、実際に何度同じ日を繰り返しているのかは、実感がないので全く判らない。

 解っている事は、自分の非科学的推測に基づくと、最低二度以上は水曜日を繰り返していると言う事だ。もちろん毎週ではないのだろうが。

 そしてそれは、在る意味周りもそうなのだろう。

 それに気付くか気付かないかの違いなのだ。

 もしかしたら、自分は水曜日だが、妻の祐美子は月曜日なのかもしれない。娘のまど香は土曜日という事もありうる。

 とすると、なにも繰り返しているのは水曜日ばかりではない事になる。

 誰かが繰り返せば、この繋がった日常の空間と時間は結局自分も繰り返しているのだから。

 それぞれがそれぞれに違う曜日を繰り返して、七日以上在る本当の一週間が過ぎていくのかもしれない。

 しかし、それに気付かないものにとっての一週間は、確実に七日なのだろう。

 それでも、それに気付いたつもりでいる自分ですら記憶が無いのだから、一週間を七日以上で数える事はできない。






【1】朝の風景


「……さん。お父さんってば」

 声が聞こえて菅沼明久すがぬまあきひさはまどろみの中で薄っすらとひらける視界を見つめた。

「お父さん。早く起きないと会社遅れるよ。今日会議って言ってなかった?」

 目の前で声を立てながら身体をしきりに揺すっているのは、娘のまど香だった。

 今年中3になったまど香は、たいした反抗期も無くこうして度々父親を起こしに来たりもする。

 身体はまだまだ子供だが、何処かしっかり者な所は母親似のようだ。

「ああ、そうだった。今日は一時間早く起きなくちゃいけなかったんだ」

 菅沼はそう言いながら、まど香に布団を剥ぎ取られて寝癖の髪の毛を撫でながら起き上がった。

「やだ、お父さんったら目覚まし時計、何時もの時間のままじゃん」

「えっ、そうだったか? そりゃ、やばかったなぁ」

「もう、ひと事みたいに」

 まど香はそう言いながら大きな瞳を細めて明るく笑った。

 生まれつき長い睫毛は、マスカラでも着けているのではと時折教師に捕まってジロジロ見られるほど鮮明に彼女の瞳を縁取っている。

 笑うと半分閉じた睫毛が、より一層黒々とするのだ。

「ご飯できてるからね。早く食べちゃってよ」

 彼女は剥いだ布団をさっとベッドの上に直してから、部屋を出て行った。

 肩口に掛かった黒い髪を揺らしながら部屋を出るまど香の後姿を眺めて彼は、何時の間にかウエストの括れが大分ハッキリとして来た事に気付いて、勝手に頬を赤くした。



「なんだよ、わかめの味噌汁か」

 菅沼はちょっぴり不満げにダイニングのテーブルに着いた。

 ベーコンエッグとウインナーの皿にはキャベツの千切りが添えてあり、その横にはわかめの味噌汁が置いてある。

「俺、わかめ嫌いなの知ってるだろ」

「海草類も食べなきゃダメよ」

 まど香はそう言いながら、父親にご飯を差し出す。

「あたし、もう行くからね」

「もう行くのか?」

「何言ってんの、あたしは何時もこの時間に行くんだから」

「ああ、そうか」

 菅沼の会社は始業が九時半なので、普段は八時頃起床する。会社まではバスで十五分ほどなので、朝はかなり楽だ。

 娘のまど香は、何時も七時五十分には家を出るので彼女が出かける姿を彼は何時も見ていないのだ。

 もちろん、早出の時には今日のように起こしに来てくれる事も多い。

 つまり、娘の登校時間に対して菅沼が無頓着なだけなのだが……

「お母さんは今日帰ってくるんだろ」

「そうよ。夕方着くって言ってた」

 菅沼明久の妻裕美子は、町内会の二泊三日の慰安旅行で箱根へ出かけている。

 あまり出かけたがらない彼とは正反対の裕美子はあちこち出かけるのが好きで、パートで稼いだ給料の半分は自分の旅行などに当てている。

 それでも主婦のストレスを理解してやりたい気持ちのある菅沼は、家庭さえ円満ならばそれでいいと割り切っている。

 もともと三人が食っていける給料は自分が稼いでいるし、賃貸マンションながら貸し駐車場にはマイカーも所有している。

 それに、裕美子がいない日の夕飯は、朝食同様まど香が作ってくれるので、女としての些細な成長が見えたりして、ちょっとした楽しみでも在るのだ。

「行ってきまぁす」

 一端自室へ戻ったまど香は鞄を手にすると、ダイニングへ顔だけ出して玄関に向った。

「おう、気をつけてな」

 彼はダイニングで朝食を頬張りながら声だけで娘を送り出し、玄関ドアの開閉音を聞く。

 朝食は和食が多いが、菅沼は何時も食後にコーヒーを飲む。

 今朝もまど香が気を利かせてしっかりとコーヒーをドリップしてくれたようだが、もうあまり時間が無い。

「しょうがない……今日は会社の自販機で我慢するか」

 そう呟いて、コーヒーメーカーの保温をOFFにすると、彼は部屋に戻ってスーツに着替えた。







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