第08話:トリックオアトリート
鋭い西日が窓ガラス越しに突き刺さる午後6時の香焼書店。そんなこと関係無いとばかりに立ち読み客で溢れている店内は、18℃に設定されているはずのクーラーの存在を否定させる。部活帰りの高校生から会社帰りのサラリーマン、毎日見かける常連さんも、汗を流しながら本を手にとっては、自分が買うべきものなのかを見定めている。
「すいません、これください」
「あ、ハイ」
実はこの時間帯が一番忙しいというのは働き始めてから知った事実で、このことを知っていたならばここでは働いていなかったであろうと思うくらいには厳しい時間帯だ。特にこの夏場、書店いっぱいに人が詰め込まれているさまは、まるで暑さから逃れるための避難所と化している。この予期せぬサウナ環境においては、本を袋に入れて渡すという単純な作業でさえ重労働なのだ。
「1260円になります」
「じゃあ2000円から」
「2000円お預かりします」
と言って受け取った千円札と千円札の間に紙が挿んである。
「あの、これ…」
「あなた宛てです。家に帰ってから読んでくださいね、それ」
女性はそう言ってにこりと笑っただけで、この紙がなんなのか教えてはくれなかった。
「…740円のお返しとレシートですね」
「じゃあね、関ケ原君」
「え…?」知り合いだったのか?
******
午後8時、薄明るい空に描かれた飛行機雲がかすかに見える。壮絶な2時間の戦いに歩く気力すら持って行かれていた僕は、書店の前のベンチに腰を下ろして元気な僕の帰りを待っていた。
「そういえば…」
さっきの紙、家に帰ってからと言われたが、それじゃ何時になるか分からない。
「ちょっと見てみるか」
僕は右のポケットから四つ折りの紙切れを取り出して広げてみた。
「ヤマトくんへ ヤマトくんの学校にボクシング部があるよね。そこの部長がイノベイターの一員らしいの。名前は久々野久邦。そこでお願いなんだけど、その久々野くんをちょっと調べて欲しいんだよね。どんなことでもいいから。よろしくね! 茜より」
よろしくね! じゃねーよ。なんなんだよいきなり。茜のやつ、わざわざ別の人を使って渡すとは。ちょっとドキドキしてた僕が馬鹿みたいじゃないか。
「あれ、ヤマトくん。何してんのこんなところで」
「うわ店長、なんでもないですよ別に」
「怪しいなあ……別に隠すことないじゃないか。僕ってそんなに気が置けるかい?」うん、とても。
「いや、その、そういうことじゃないっていうか…」
「鬼畜シフト」
「物は相談なんですけど、店長は『革新軍』って知ってますか?」って知ってるわけないよな。
「うん、知らない」
少しは考えろよっ! なぜこうもキッパリなんだこの人は。
「ヤマトくんは知ってるの? その『ひらめいたー』ってのは」
「イノベイターですよ、香焼店長」
「ああ、ごめんごめん」
そう言って店長は頭をかく。ひらめいたーってなんだよ。
「実は僕もよく分からないんですけど、世界を変える集団だとか言って世界を荒らしてるらしいです」
「ふーん。それでヤマトくんとはどういう関係が?」
「えっとそれは」
「ピロロロロロロロ!」
僕の携帯電話がけたたましくシャウトする。
「すみません電話が…」
「ああ、いいよいいよ」店長がピースサインを見せつける。
「すぐ終わらせますんで」
画面には関ケ原飛鳥と書かれていた。トリックオアトリート!
「も、もしもし…」
『遅い! 遅い遅い遅い! 遅過ぎよ馬鹿! 早く帰ってこい! このバイト男!』
何か言う暇もなく電話は切れた。バイト男ってどういう悪口ですか。
「すみません、世界じゃなくて妹が荒れてました。早く帰らないと」
「そうだね。女の子を待たせる男は最低だよ」この人にだけは言われたくなかったのに。
「じゃ、お疲れです」
「お疲れ…」
******
今夜も門限破りの罰で蹴りを食らったり皿洗いをさせられたりした。洗剤まみれのスポンジを僕に突き付けて飛鳥が言う。
「ヤマト、あんた宿題とか終わらせたの?」
「あっ、そういえばやってねえ!」
「さっさとやってきなさいよ」
「いや、まだ皿残ってるから…」
「いいって。あとは私がやるから」
「…そうか、ごめんな飛鳥」
「謝罪じゃなくて感謝しなさい!」
「…ありがとう飛鳥」
「ん、どういたしましてー」
******
すべてのMPを消費してなんとか宿題を終わらせると、0時を過ぎていた。この土日に色々あったおかげで学校に行くのが久しぶりのような気がしていた。
「久々野久邦か…」
革新軍がそれほど身近にいるものなのか。もしそうだとして、僕は何をすればよいのか。分からないことだらけの月曜日が近づくのを尻目に、何も考えないまま掲げた右手を見つめているといつの間にか眠ってしまった。
この世がもし偶然ではなく、誰かの意図によって台本通りに進められていたとしたら、そこに僕達人間の存在価値は、役者という概念に縛られたまま舞台を飛び出すことはできないのだろう。しかし、他の役者が持っていない特別な何かを持っている役者がいたとしたら、それは舞台の破綻を意味し、世界の崩壊を意味する。変化し始めた世界が役者を集め、台本は新たに書き換えられ、物語は交差し、分岐する。
僕が望んでいないままに月曜日は当たり前のようにやってきたのだ。




