第12話:僕自身が決めただけ
僕は久しぶりに眠れなかった。
夜更かししてリンカネイトの練習をしていたらたちまち夜が明け、太陽が顔を出してしまった。しかも、今更になって眠いとは、まったく人間とは不安定な生き物だ。
少し早めに登校して向こうで仮眠を取ろうかと思ったら、宿題をしてない。参ったな。
自業自得な不機嫌を理由に、僕は学校を休もうかと思った。
「それじゃただの現実逃避だ。なにも格好良くない」
半分の意識と半分に理性で、僕は無理矢理制服に着替えた。学校に行ってするべきことが山ほどあるのだ。
昨日の、今までの僕の言動を謝らなければならない。久々野久邦の事も調べなければならない。僕の決意をみんなに告白しなければならない。宿題を提出しなければならない。授業で分からないところを質問しなければならない。弁当を食べなければならない。廊下の掃除をしなければならない。
するべきことは山ほどあった。指折り数えて足りないほどに、次から次へと浮かぶ。
「行ってきます」
「いってらっしゃーい」
家を出た途端に火曜日が窮屈になった。
空は窮屈な広さで、雲は窮屈な形で、歩むほどに圧迫される。まだ僕の中の新鮮な朝食が胃袋ごと締め付けられる。まだ決断の糸が断ち切れていないのか。
校門にさえ圧迫されながらも、僕は学校に踏み入った。校舎も、窓も、タイルも、すべてが窮屈で、心が押しつぶされそうになりながら教室のドアをくぐる。
「おっはよーヤマトくん!」
「よおヤマト。今日は早いのな」
「らしくないぞ」
「ギリギリ登校がアンタの日課でしょ」
「関ケ原君、恋でもしてるのかなー?」
僕は圧迫感から、さっきまで堪えてきた窮屈な日常からとうとう抜け出した。
不安、誤解、緊張、恐怖、抵抗、鬱憤、拒絶、揺らぎ、傾き、背き、綻び、欠陥、矛盾、崩壊、隔たり、責任、反発、蟠り、空虚、寂寥、嫌悪、不快、焦燥、煩悶、後悔、逃避、攻撃、畏怖、弛緩、負い目、慟哭、暗鬱、陰鬱、憂鬱、辛抱、絶望、怠惰、倦怠、物憂いさ、翻弄、失意、断念、儚さ、怒り、嘆き、悲観、罪悪感、その全てから解放された。
たった一言ずつ、みんなから一言ずつもらったそれだけで。僕は自責の念の鎖の束縛から解放されたのだ。
「もう僕は謝らないからな…」
僕は深く重く頭を下げた。自分の冷たい背中が見えてしまいそうなくらいに。
「その代わり、感謝はするよ。本当にありがとう」
相変わらずとげとげしい言葉だとは思ったが、感謝が伝わればそれで良かった。
「いきなりどうした? もしやお前は蔑まれるのが好きなのかヤマト?」
「いや、好きじゃねえよ」
「そうだよー、関ケ原君は踏まれるのが好きなんだよねー?」
「もっと過激に変態じゃないか」
「そ、そうなの!?」
「いちいち真に受けんな」
「え? ヨーグルトが食べたい?」
「言ってねえだろそんなこと!」
僕はもう既にこの居場所にすっぽりと収まっていた。なんだかんだで僕の居場所は決まっていた。それを今度は僕自身が決めただけ。ただそれだけだ。
「あ! 宿題忘れてた!」
「結局お前はギリギリだな」
「がんばれー!」
僕は時間ギリギリで宿題を終わらせた。もはや解いた数学の問題をひとつとして覚えていない。いつも通り教卓の上に提出すると先生が教室に入ってきた。
「ホームルーム始めるぞー」と言いながら先生は教卓のプリントを整える。
「ふう、なんとか間に合った…」
「お、珍しく関ヶ原の声が……え…! え…!?」動揺した様子で先生は僕の方を二度見した。
「せ、関ケ原がこの時間に教室にいるだと…!?」人を幽霊みたいな扱いしないでください。
「ふ、ふん! きっと見間違いだ!」
そう言って先生は目をこすり始めた。まだ信じてないなこの人。僕はそのうち学校の七不思議にでも登録されるのか?
「さあ広がれ、我が視界!」
先生は両目を、目尻からはち切れんばかりに、かっと見開いた。
「い、いる…! ぐすっ、いるんだっ…!」
先生は教卓を殴りつけながら涙を流す。そこまで驚きますか。
「やっと関ケ原が真面目に登校してくれるようになった! 私は嬉しいぞ関ケ原!」
…そうか、先生まで僕の心配をしてくれていたんだ。
「ありがとう先生」
「これも私の教育の仕方が良かったからだな!」それはどうかな。
******
先生が歓喜して朝のホームルームは終わった。あんなにテンションの高い先生を見たのは初めてかもしれない。それほど僕が問題児だという解釈をすれば笑える話ではないわけだが。
そんな事を考えて悩んでいると前の茶髪がくるりをこちらを向いた。茶髪曰く、
「確か、お前が時間に余裕をもって登校してきたのは144日ぶりだったよな」いや、数えてねえよそんなの。
「高校に入ってからは初めてだけどな、ははははは!」
そんなどうでもいいことカウントしてる暇があったら彼女でも作れよ、って言おうとしたが、理屈抜きに殴られそうだから本能的に飲み込んだ。
そういえば何か忘れているような気がする。なんだろう。
「なあヤマト、お前、久々野久邦ってヤツ知ってるか?」
「それだ!」
「お、知ってるのかよ」
「あ、いや…」
「そいつ、革新軍に絡んでるらしいな」
えっ…? なんで佐世保がこの話を?
茜から漏れたか? いや、安曇野に口止めされているはずだし、関係ない人間に教えるリスクは茜も知っているはずだ。
でも、だとすると何故だ?
そもそも革新軍なんて言葉、僕らしか使わないのに。
「なに変な顔してんだよ。具合でも悪いのか?」
「なんで知ってるんだ…」
「は? なにが?」
「なんで革新軍のこと知ってるんだお前」
今度は佐世保がレモンをかじったような変な顔をした。
「…なんでって、俺もお前と同じ転生者だぜ」
「はあ!?」
「知ってて当然だろ。なあ両哉?」
「そうだな」
また知らないうちに安曇野が僕の左隣をタイムシフト予約していたようだ。
「そろそろ久々野久邦について調べるぞ。この件に関しては未だに全然進展してないからな」
「…第8話から」
佐世保くん、危険なコト言わないで。
「とにかくボクシング部に行ってみよう」
「ちょっと待てって。もう授業始まるぞ」
「いいってそんなの。一緒にサボろうぜヤマト」
「おい、そんな…」
僕の両手は佐世保と安曇野で満席になった。1限目の始業の鐘が鳴り響く中庭。それを反射するようにそびえ立つ校舎。共鳴する木々。震える窓。そよぐ風。振りほどくことも出来ずに僕はボクシング部の部室に連れて行かれた。




