捨てた国に勇者は還らない
一 断罪
グランツ王国の王宮、その大広間には、冬の朝の光が白く差し込んでいた。
「ルーカス・ヴェルトハイム。王太子殿下の御食に毒を盛った罪により、汝の貴族籍を剥奪し、国外追放に処す」
宰相の声が、高い天井に冷たく響いた。
広間の中央に立たされた青年は、まっすぐに前を見ていた。ヴェルトハイム侯爵家の嫡男、十九歳。くすんだ金の髪に、灰色の瞳。剣の腕は同年代の騎士見習いの誰より優れ、学院では常に首席だった。
その彼が、三日前の晩餐会で王太子の杯に毒を盛った――広間に並ぶ誰もが、そう信じて疑わなかった。
証拠は揃っていた。
彼の私室の書棚の裏から見つかった、毒の小瓶。毒商人への支払いを記した、ヴェルトハイム家の印章入りの手紙。そして「晩餐会の前、若様が殿下の杯のそばに立っておられるのを見ました」と震える声で証言した、彼の従者。
王太子は一命を取り留めた。だからこそ、処刑ではなく追放で済んだのだと、誰もが口にした。
「私はやっていません」
ルーカスは、この三日間で何十回も繰り返した言葉を、もう一度だけ口にした。
「書棚の裏など、私は触れたこともない。印章は父上と私の二つしかなく、私のものは三日前から見当たらなかった。従者のマルクが嘘をついている理由を調べてください。それだけで――」
「見苦しいぞ、ルーカス」
遮ったのは、宰相ではなかった。
広間の右手、貴族たちの列の最前に立つ男。ヴェルトハイム侯爵ゲオルク。ルーカスの父だった。
「証拠がここまで揃っていながら、なお言い逃れをするのか。……お前のような者を育てたことを、私は生涯の恥とする」
侯爵はそう言って、懐から一枚の書状を取り出し、宰相へ差し出した。
「本日をもって、ルーカスをヴェルトハイム家から除籍いたします。家督は次男ディートリヒに継がせる所存です」
ざわめきが起きた。
ルーカスは、父の後ろに立つ異母弟を見た。ディートリヒは目を伏せ、悲しげに唇を引き結んでいた。その口元が、ほんの一瞬だけ、緩んだのをルーカスは見た。
母を探した。
侯爵夫人エリーゼは、夫の隣で扇を握りしめていた。目が合った。ルーカスが幼い頃、熱を出すたびに枕元で歌ってくれた人だった。
母は、ゆっくりと顔を背けた。
それで、終わりだった。
婚約者のカトリーナ伯爵令嬢は、その日のうちに婚約破棄の書状を送ってきた。家同士の都合ではなく、「毒を盛るような方と添い遂げることはできません」という、彼女自身の言葉が添えられていた。
学院の友人たちは、誰一人として面会に来なかった。
国王アルブレヒト三世は、玉座から一度も立ち上がらなかった。裁判は開かれなかった。王太子暗殺未遂という重罪を、長引かせて騒ぎを大きくすることを、王は嫌ったのだ。
追放の文書に王の署名が入るまで、半刻もかからなかった。
二 国境
国境までの護送には、近衛騎士が一人ついた。
ガレスという名の、白髪交じりの騎士だった。ルーカスが八歳の頃から、侯爵家で剣を教えていた男だ。
馬車の中で、二人はほとんど口をきかなかった。
三日目の夜、野営の焚き火を挟んで、ガレスがようやく口を開いた。
「……若様。私は、若様がやったとは思っておりません」
ルーカスは、炎を見つめたまま答えなかった。
「ですが、私には何もできませんでした。侯爵閣下がお決めになり、陛下が署名なさった以上、一介の騎士に――」
「なら、なぜ広間で黙っていた」
ルーカスの声は、静かだった。
「あなたはあの場にいた。近衛の列の、三番目に立っていた。私は、あなたを見た」
ガレスは、何も答えられなかった。
翌朝、二人は国境の石橋に着いた。橋の向こうは、隣国ノルデンの荒れ地だ。
ガレスは、ルーカスに小さな革袋を渡した。銀貨が十数枚と、干し肉が入っていた。
「せめて、これを」
ルーカスはそれを受け取り、何も言わずに橋を渡った。
振り返らなかった。
橋の向こうで、一人の老人が待っていた。
ハンス。ヴェルトハイム家に四十年仕えた老従僕だった。ルーカスが生まれた日に、赤子を最初に抱いた使用人でもある。
「……ハンス。なぜ、ここにいる」
「暇をいただいてまいりました」
老人は、背負った大きな荷を揺すり上げて、笑った。
「若様がお一人で旅をなさるなど、このハンスが許しません。若様は、お茶の一杯もまともにお淹れになれないではありませんか」
「私は罪人だ。父上にも見捨てられた。お前まで、ついて来ることはない」
「若様が毒など盛るものですか」
ハンスは、きっぱりと言った。
「若様は、厨房の猫に餌をやりすぎて、料理長に叱られていたお方です。そんなお方が、人の杯に毒を入れるはずがございません。……このハンスは、四十年、あの家で人を見てまいりました。誰が嘘をついているかくらい、わかります」
色褪せた青い襟巻きの奥で、老人は深く目尻の皺を寄せた。幼いルーカスが屋敷の庭で転んだ日も、父の厳しい稽古に唇を噛んでいた日も、変わらず傍らにあった温かい目だった。
ルーカスは、何かを言おうとした。けれど、喉が詰まって声にならなかった。
追放されてから、いや、断罪の日から初めて、彼は泣いた。
老人は何も言わず、主人の背中をさすり続けた。
三 神託
それから一年が過ぎた。
グランツ王国の王都、大神殿。その最奥にある祈りの間で、聖女セラフィナが倒れた。
百年に一度あるかないかの、神託の兆しだった。
三日三晩、聖女は高熱にうなされ続け、四日目の朝、神官長の前で目を開いた。そして、焦点の合わない瞳で、こう告げた。
「――北の封印が、解ける。魔王が、還る」
祈りの間が凍りついた。
魔王。三百年前、初代勇者によって北の大地に封じられた、災厄そのもの。その名を口にすることさえ、王国では長く忌まれてきた。
「神は、勇者を選ばれました」
聖女は、震える指で宙に紋を描いた。勇者の聖印。三百年前の伝承にだけ残る、剣と星を重ねた紋。
「その手に聖印を宿す者。名は――」
聖女の唇が、その名を紡いだ。
「ルーカス・ヴェルトハイム」
神官長の手から、聖典が落ちた。
その日のうちに、報せは国王アルブレヒト三世のもとへ届けられた。
王は、しばらく何も言わなかった。
ルーカス・ヴェルトハイム。一年前、自分が半刻で追放の文書に署名した、侯爵家の嫡男。
「……神託に、誤りはないのか」
「ございません、陛下」
神官長は、青ざめた顔で答えた。
「聖女様は、勇者の顔立ちまで仰いました。くすんだ金の髪に、灰色の瞳。右の手の甲に、聖印が浮かんでいるはずだと」
王は、深く息を吐いた。
「神が勇者に選んだ男が、王太子に毒を盛ったというのか」
その問いに、答えられる者はいなかった。
四 真実
国王は、一年前の事件の再調査を命じた。
今度は、半刻では終わらなかった。
最初に崩れたのは、毒商人だった。王都の裏通りで薬屋を営んでいたその男は、捕らえられて三日で口を割った。毒を買いに来たのは、侯爵家の嫡男ではなかった。若い男ではあったが、髪は黒く、瞳は茶色だったという。
次に崩れたのは、従者のマルクだった。彼は事件の直後に侯爵家を辞め、王都の外れで小さな酒場を開いていた。従者の給金では到底買えない店だった。
取り調べの部屋で、マルクは泣きながら全てを話した。
金を渡したのは、ディートリヒ・ヴェルトハイム。異母兄を廃嫡させ、自分が侯爵家を継ぐために。毒を買ったのは、ディートリヒの学友である宰相家の次男。王太子の側近の座を巡って、ルーカスを疎ましく思っていた男。
ルーカスの印章は、ディートリヒが盗み出していた。書棚の裏の小瓶は、マルクが置いた。晩餐会の証言は、教えられた通りに口にした。
王太子の杯に毒を入れたのは、宰相家の次男本人だった。致死量に届かない量を、わざと選んで。王太子が死ねば調べが厳しくなる。生きていれば、罪人を追放するだけで済む。全ては計算されていた。
ディートリヒと宰相家の次男は、その日のうちに捕らえられた。
宰相は職を剥奪され、家門は蟄居を命じられた。ヴェルトハイム侯爵ゲオルクは、かつて息子が立たされた同じ床に引き出され、石畳に額を擦りつけた。
「私は……ディートリヒの言葉を鵜呑みにいたしました。あの子は、兄が夜中に部屋を抜け出すのを見たと……私は、実の息子を、調べもせず……」
侯爵の声は、途中で途切れた。
侯爵夫人エリーゼは、真相を聞いたその場で倒れ、それから床を離れられなくなった。うわごとのように、息子の名を呼び続けているという。
カトリーナ伯爵令嬢は、新しい婚約者との結婚式を目前に控えていた。彼女は真相を知った夜、自室で一晩中泣き明かした。翌朝、彼女は自ら髪を切り落とし、新しい婚約者に一瞥もくれないまま修道院の門を叩いた。
ガレスは、騎士の位を返上した。
だが、誰が何を悔いようと、どれほど涙を流そうと、一つの問題だけは解決しなかった。
ルーカス・ヴェルトハイムが、どこにもいなかったのだ。
五 灰嶺
国王は、国を挙げての捜索を命じた。
騎士団が隣国ノルデンへ派遣され、国境の石橋から先の足取りが調べられた。各国の王家へ親書が送られ、冒険者ギルドには前代未聞の額の懸賞金がかけられた。
手がかりは、なかなか見つからなかった。
ノルデンの国境の村で、老人と若者の二人連れを見たという証言が出たのは、捜索を始めて二か月後のことだった。二人は村で冬の装備を買い込み、北へ向かったという。
北。ノルデンのさらに北には、大陸を東西に断ち切る巨大な山脈がある。
灰嶺。人々は、そう呼んでいた。
一年中、灰色の雪が降る山だった。山頂付近では魔力の嵐が吹き荒れ、方位磁石は狂い、魔法は霧散する。三百年前に魔王が封じられた北の大地と、人の世界とを隔てる壁。かつて何度も探検隊が送り込まれたが、帰ってきた者はほとんどいない。
人の踏み入れることのできない場所だった。
「そんなところに、人が住めるはずがない」
騎士団長は、そう報告した。
だが、王都の大神殿で、聖女セラフィナは静かに首を振った。
「勇者様は、そこにいらっしゃいます。聖印の光が、灰嶺の奥から見えるのです」
国王は、使者を送ることを決めた。
国王の名代として選ばれたのは、王弟フェリクス大公だった。王族が自ら頭を下げに行かなければ、何も始まらない。それが、国王と重臣たちの一致した考えだった。
大公の護衛には、精鋭の騎士二十名と、宮廷魔術師五名、そして案内役として、灰嶺の麓の村から集めた猟師たちがついた。
自ら志願して、もう一人が加わった。騎士の位を返上した、ガレスだった。
一行は、ひと月をかけて灰嶺を登った。
最初の十日で、猟師の半分が引き返した。
二十日目、魔力の嵐に巻き込まれ、宮廷魔術師が三人、跡形もなく消えた。
二十五日目、氷の裂け目に騎士が四人落ちた。救い出す手段は、誰にもなかった。
灰色の雪は、絶え間なく降り続けた。息をするたびに肺が凍りつき、指先の感覚はとうになくなっていた。大公は何度も膝をついた。そのたびに、ガレスが肩を貸して立たせた。
そして、出発から三十一日目。
灰色の雪に閉ざされた、山の奥深く。風の止んだ窪地に、一軒の石の小屋が建っていた。
煙突から、細い煙が上がっていた。
六 沈黙
小屋の前で、一人の男が薪を割っていた。
くすんだ金の髪は伸び放題で、無造作に後ろで束ねられている。頬はこけ、体つきは一年前よりずっと引き締まっていた。粗末な毛皮をまとったその姿は、とても侯爵家の嫡男には見えなかった。
けれど、ガレスにはすぐにわかった。
「……若様」
声は、雪に吸い込まれた。
男は、振り向かなかった。斧を振り上げ、薪を割る。割れた薪を脇に積み、次の丸太を台に置く。その動きは、一度も乱れなかった。
生き残った騎士は九名、魔術師は一名。満身創痍の一行が、小屋の前に並んだ。フェリクス大公は、ガレスの肩を借りて、男の前に進み出た。
「ルーカス・ヴェルトハイム殿とお見受けする」
大公は、凍えた手で王家の紋章入りの書状を広げた。
「私は、グランツ王国国王アルブレヒト三世の名代、フェリクスである。陛下のお言葉を、お伝えする」
斧が振り下ろされる。薪が割れる。
大公は、構わずに読み上げた。
「一年前の王太子毒殺未遂の件について、再調査の結果、汝の無実が明らかとなった。真犯人ディートリヒ・ヴェルトハイムならびに共謀者は捕縛し、既に刑に服している。汝の名誉を回復し、貴族籍およびヴェルトハイム侯爵家の家督を汝に戻す。そして――」
大公の声が、わずかに震えた。
「調べを尽くさず、汝を追放したことを、王として、心より詫びる」
斧が振り下ろされる。薪が割れる。
ルーカスは、一度も顔を上げなかった。
大公は書状を下ろし、膝をついた。雪の上に、王族が膝をついた。後ろに並んだ騎士たちが、息を呑んだ。
「ルーカス殿。大神殿に神託が下った。魔王が復活する。北の封印は、もう半年ももたないだろうと聖女は言っている。そして神は、あなたを勇者に選ばれた」
ルーカスの右手が、斧の柄を握り直した。
その手の甲に、粗末な布が巻かれているのを、ガレスは見た。布の隙間から、淡い光が漏れていた。剣と星を重ねた紋の、その端が。
「あなたの手にある聖印こそが、その証だ。どうか、山を下りてほしい。魔王を討てるのは、あなたしかいないのだ」
斧が振り下ろされる。薪が割れる。
沈黙。
灰色の雪が、音もなく降っていた。
「……若様」
ガレスが、一歩前に出た。
「侯爵閣下は、毎日のように陛下に頭を下げておられます。奥方様は、若様の名を呼びながら床に伏せっておられます。カトリーナ様は修道院に入られました。皆、悔いているのです。若様が戻ってくださるなら、何でもすると――」
ルーカスは、割った薪を拾い上げ、積み上げた山の上に置いた。
それから、斧を台に立てかけ、小屋の裏手へと歩き出した。
一行のことなど、最初からそこにいないかのように。
ガレスは、その背中を追った。
小屋の裏手には、小さな墓があった。
灰色の雪をきれいに払われた、平たい石。その前には、山で摘んだのであろう小さな青い花が、一輪だけ供えられている。
石には、ナイフで刻まれた文字があった。
――ハンス。
ガレスは、その場に立ち尽くした。
あの国境の石橋の向こうで、主人を待っていた老従僕。四十年仕えた家に暇を乞い、追放された若様のあとを追った、ただ一人の男。
ルーカスは墓の前に膝をつき、石の上に積もった雪を、素手で丁寧に払った。
ガレスは、ようやく理解した。
この極寒の山で、誰が彼と共に石を積み、凍える夜に火を絶やさなかったのか。そして、最初の冬を越せずに逝った老人の手を、ルーカスがどんな思いで握りしめていたのか。
老人が命を削って主人を守り抜いていたその一年間、王国は何をしていたか。父は、母は、婚約者は、友人たちは、そして自分は。
神託が下るまで、誰一人として彼を思い出そうとさえしなかった。
無実だから探したのではない。都合よく利用するために、這いずり回って見つけ出しただけだ。
「……ルーカス殿」
追いついた大公が、掠れた声で言った。
「民が、死ぬのだ。あなたを追放したのは、我々だ。だが、民には何の罪もない。どうか、民のために――」
ルーカスは、墓の前から立ち上がった。
そして、大公の横を通り過ぎた。目を向けることさえしなかった。小屋の扉を開け、中に入り、扉を閉めた。
閂の下りる、小さな音がした。
それきり、扉は二度と開かなかった。
一行は、三日間、小屋の前に留まった。
大公は、扉の前で何度も呼びかけた。王の謝罪を繰り返し、ヴェルトハイム家の領地と財産を挙げ、望むものは何でも与えると約束した。騎士たちは雪の上に膝をつき、頭を下げ続けた。
小屋の中からは、何の声も返ってこなかった。
ただ、毎朝、煙突から細い煙が上がった。夜が明けるたび、扉の前の雪には、裏手の墓へと往復する足跡が一筋だけ新しく刻まれ、墓石の上には新しい青い花が供えられていた。凍える騎士たちが焚き火の前でうずくまっているすぐ脇を、彼は一瞥もくれずに通り過ぎているのだった。
四日目の朝、食料が尽きた。
大公は、扉の前に王の書状を置き、その上に石を載せた。
一行は、山を下り始めた。
ガレスは最後に一度だけ、小屋を振り返った。
窓の向こうに、人影が見えた気がした。けれど、それはただ、灰色の雪が窓を流れていただけだったのかもしれない。
帰り道で、さらに五人が死んだ。
七 終わりの国
フェリクス大公が王都へ戻ったのは、出発から三か月後のことだった。
二十人の騎士のうち、生きて戻ったのは四人。宮廷魔術師は、一人も戻らなかった。大公自身も、凍傷で左手の指を三本失っていた。
謁見の間で、大公は兄王の前に膝をつき、全てを報告した。
小屋のこと。一度も止まらなかった斧のこと。ハンスという名の墓のこと。閉ざされたまま、二度と開かなかった扉のこと。
「彼は、一言も発しませんでした。拒絶の言葉さえ、ありませんでした」
大公は、目を伏せた。
「我々は、彼にとって、もう存在していないのです。兄上」
国王アルブレヒト三世は、長い間、黙っていた。
謁見の間には、重臣たちが居並んでいた。誰も、口を開こうとはしなかった。
やがて、王は、ぽつりと言った。
「拒んでくれたなら、まだ、よかった」
かすれた声だった。
「怒りをぶつけてくれたなら。我らを罵り、恨み言を並べてくれたなら。そこには、まだ何かが残っている。謝ることも、償うことも、できたかもしれぬ」
王は、玉座の肘掛けを握りしめた。
「だが、何もない。あの男の中に、もはや我らはおらぬのだ」
一年前、半刻で署名した文書。開かなかった裁判。玉座から一度も立ち上がらなかった、自分。
「余は、一人の若者を国から追ったつもりでいた。……違ったな」
王は、窓の外へ目を向けた。
北の空が、かすかに赤く染まり始めていた。
「あの日、この国の方が、あの男に捨てられたのだ」
ヴェルトハイム侯爵ゲオルクは、大公の帰還を知ったその夜、ただ一人で北へ向かった。息子に会って自分の口で詫びるのだと、誰の制止も聞かずに屋敷を飛び出した。
彼が灰嶺から戻ることはなかった。秋の入り口、麓の猟師が、氷の裂け目の底で侯爵家の紋章が入った外套を見つけたという。
そしてその年の晩秋、北の封印は破れた。
魔王の軍勢は、灰嶺を避け、東の峠を越えて南下した。最初にノルデンの北部が呑み込まれ、ひと月後には、その王都が陥ちた。
グランツ王国は、全ての騎士団を北の国境へ送った。各国の王家に援軍を求め、大神殿は昼夜を問わず祈りを捧げた。聖女セラフィナは、神に別の勇者を選んでくれるよう願い続けた。
神は、答えなかった。
勇者の聖印は、この世にただ一つ。その持ち主が剣を取らない限り、魔王を討つ術はない。
北の砦が陥ち、国境の石橋が陥ちた。
王都の空は、日に日に赤くなっていった。
国王アルブレヒト三世は、毎夜、王宮の露台に立ち、北の空を見上げていた。赤い空の下で、灰嶺の稜線だけが黒く浮かび上がっている。
あの山の奥で、あの男は今も薪を割っているのだろうか。
墓の雪を払い、花を替え、扉を閉ざして、ただ静かに暮らしているのだろうか。
王は、それを確かめる術を持たなかった。確かめる資格も、とうに失っていた。
遠くで、鐘が鳴った。
王都の北門が破られたことを告げる、鐘の音だった。
王は、目を閉じた。
――灰嶺には、今日も灰色の雪が降っている。
石の小屋の裏手、小さな墓の前に、一人の男が座っていた。
空は、山の向こう側まで赤く焼けていた。風に乗って、かすかに焦げた匂いが届く。遠い南の大地で、何かが燃えているのだろう。
男は、墓の石に積もった雪を、素手で払った。
右手に巻いた布の隙間から、淡い光が漏れていた。剣と星を重ねた紋。三百年に一人の、世界を救うための光。
男は、その光に目を落とすこともなく、新しい花を石の前に供えた。
山で摘んだ、小さな青い花だった。
老人が好きだった色だった。
世界が終わる音は、ここまでは届かなかった。




