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捨てた国に勇者は還らない

作者: SYO
掲載日:2026/11/02

一 断罪


 グランツ王国の王宮、その大広間には、冬の朝の光が白く差し込んでいた。


「ルーカス・ヴェルトハイム。王太子殿下の御食に毒を盛った罪により、汝の貴族籍を剥奪し、国外追放に処す」


 宰相の声が、高い天井に冷たく響いた。


 広間の中央に立たされた青年は、まっすぐに前を見ていた。ヴェルトハイム侯爵家の嫡男、十九歳。くすんだ金の髪に、灰色の瞳。剣の腕は同年代の騎士見習いの誰より優れ、学院では常に首席だった。


 その彼が、三日前の晩餐会で王太子の杯に毒を盛った――広間に並ぶ誰もが、そう信じて疑わなかった。


 証拠は揃っていた。


 彼の私室の書棚の裏から見つかった、毒の小瓶。毒商人への支払いを記した、ヴェルトハイム家の印章入りの手紙。そして「晩餐会の前、若様が殿下の杯のそばに立っておられるのを見ました」と震える声で証言した、彼の従者。


 王太子は一命を取り留めた。だからこそ、処刑ではなく追放で済んだのだと、誰もが口にした。


「私はやっていません」


 ルーカスは、この三日間で何十回も繰り返した言葉を、もう一度だけ口にした。


「書棚の裏など、私は触れたこともない。印章は父上と私の二つしかなく、私のものは三日前から見当たらなかった。従者のマルクが嘘をついている理由を調べてください。それだけで――」


「見苦しいぞ、ルーカス」


 遮ったのは、宰相ではなかった。


 広間の右手、貴族たちの列の最前に立つ男。ヴェルトハイム侯爵ゲオルク。ルーカスの父だった。


「証拠がここまで揃っていながら、なお言い逃れをするのか。……お前のような者を育てたことを、私は生涯の恥とする」


 侯爵はそう言って、懐から一枚の書状を取り出し、宰相へ差し出した。


「本日をもって、ルーカスをヴェルトハイム家から除籍いたします。家督は次男ディートリヒに継がせる所存です」


 ざわめきが起きた。


 ルーカスは、父の後ろに立つ異母弟を見た。ディートリヒは目を伏せ、悲しげに唇を引き結んでいた。その口元が、ほんの一瞬だけ、緩んだのをルーカスは見た。


 母を探した。


 侯爵夫人エリーゼは、夫の隣で扇を握りしめていた。目が合った。ルーカスが幼い頃、熱を出すたびに枕元で歌ってくれた人だった。


 母は、ゆっくりと顔を背けた。


 それで、終わりだった。


 婚約者のカトリーナ伯爵令嬢は、その日のうちに婚約破棄の書状を送ってきた。家同士の都合ではなく、「毒を盛るような方と添い遂げることはできません」という、彼女自身の言葉が添えられていた。


 学院の友人たちは、誰一人として面会に来なかった。


 国王アルブレヒト三世は、玉座から一度も立ち上がらなかった。裁判は開かれなかった。王太子暗殺未遂という重罪を、長引かせて騒ぎを大きくすることを、王は嫌ったのだ。


 追放の文書に王の署名が入るまで、半刻もかからなかった。


二 国境


 国境までの護送には、近衛騎士が一人ついた。


 ガレスという名の、白髪交じりの騎士だった。ルーカスが八歳の頃から、侯爵家で剣を教えていた男だ。


 馬車の中で、二人はほとんど口をきかなかった。


 三日目の夜、野営の焚き火を挟んで、ガレスがようやく口を開いた。


「……若様。私は、若様がやったとは思っておりません」


 ルーカスは、炎を見つめたまま答えなかった。


「ですが、私には何もできませんでした。侯爵閣下がお決めになり、陛下が署名なさった以上、一介の騎士に――」


「なら、なぜ広間で黙っていた」


 ルーカスの声は、静かだった。


「あなたはあの場にいた。近衛の列の、三番目に立っていた。私は、あなたを見た」


 ガレスは、何も答えられなかった。


 翌朝、二人は国境の石橋に着いた。橋の向こうは、隣国ノルデンの荒れ地だ。


 ガレスは、ルーカスに小さな革袋を渡した。銀貨が十数枚と、干し肉が入っていた。


「せめて、これを」


 ルーカスはそれを受け取り、何も言わずに橋を渡った。


 振り返らなかった。


 橋の向こうで、一人の老人が待っていた。


 ハンス。ヴェルトハイム家に四十年仕えた老従僕だった。ルーカスが生まれた日に、赤子を最初に抱いた使用人でもある。


「……ハンス。なぜ、ここにいる」


「暇をいただいてまいりました」


 老人は、背負った大きな荷を揺すり上げて、笑った。


「若様がお一人で旅をなさるなど、このハンスが許しません。若様は、お茶の一杯もまともにお淹れになれないではありませんか」


「私は罪人だ。父上にも見捨てられた。お前まで、ついて来ることはない」


「若様が毒など盛るものですか」


 ハンスは、きっぱりと言った。


「若様は、厨房の猫に餌をやりすぎて、料理長に叱られていたお方です。そんなお方が、人の杯に毒を入れるはずがございません。……このハンスは、四十年、あの家で人を見てまいりました。誰が嘘をついているかくらい、わかります」


 色褪せた青い襟巻きの奥で、老人は深く目尻の皺を寄せた。幼いルーカスが屋敷の庭で転んだ日も、父の厳しい稽古に唇を噛んでいた日も、変わらず傍らにあった温かい目だった。


 ルーカスは、何かを言おうとした。けれど、喉が詰まって声にならなかった。


 追放されてから、いや、断罪の日から初めて、彼は泣いた。


 老人は何も言わず、主人の背中をさすり続けた。


三 神託


 それから一年が過ぎた。


 グランツ王国の王都、大神殿。その最奥にある祈りの間で、聖女セラフィナが倒れた。


 百年に一度あるかないかの、神託の兆しだった。


 三日三晩、聖女は高熱にうなされ続け、四日目の朝、神官長の前で目を開いた。そして、焦点の合わない瞳で、こう告げた。


「――北の封印が、解ける。魔王が、還る」


 祈りの間が凍りついた。


 魔王。三百年前、初代勇者によって北の大地に封じられた、災厄そのもの。その名を口にすることさえ、王国では長く忌まれてきた。


「神は、勇者を選ばれました」


 聖女は、震える指で宙に紋を描いた。勇者の聖印。三百年前の伝承にだけ残る、剣と星を重ねた紋。


「その手に聖印を宿す者。名は――」


 聖女の唇が、その名を紡いだ。


「ルーカス・ヴェルトハイム」


 神官長の手から、聖典が落ちた。


 その日のうちに、報せは国王アルブレヒト三世のもとへ届けられた。


 王は、しばらく何も言わなかった。


 ルーカス・ヴェルトハイム。一年前、自分が半刻で追放の文書に署名した、侯爵家の嫡男。


「……神託に、誤りはないのか」


「ございません、陛下」


 神官長は、青ざめた顔で答えた。


「聖女様は、勇者の顔立ちまで仰いました。くすんだ金の髪に、灰色の瞳。右の手の甲に、聖印が浮かんでいるはずだと」


 王は、深く息を吐いた。


「神が勇者に選んだ男が、王太子に毒を盛ったというのか」


 その問いに、答えられる者はいなかった。


四 真実


 国王は、一年前の事件の再調査を命じた。


 今度は、半刻では終わらなかった。


 最初に崩れたのは、毒商人だった。王都の裏通りで薬屋を営んでいたその男は、捕らえられて三日で口を割った。毒を買いに来たのは、侯爵家の嫡男ではなかった。若い男ではあったが、髪は黒く、瞳は茶色だったという。


 次に崩れたのは、従者のマルクだった。彼は事件の直後に侯爵家を辞め、王都の外れで小さな酒場を開いていた。従者の給金では到底買えない店だった。


 取り調べの部屋で、マルクは泣きながら全てを話した。


 金を渡したのは、ディートリヒ・ヴェルトハイム。異母兄を廃嫡させ、自分が侯爵家を継ぐために。毒を買ったのは、ディートリヒの学友である宰相家の次男。王太子の側近の座を巡って、ルーカスを疎ましく思っていた男。


 ルーカスの印章は、ディートリヒが盗み出していた。書棚の裏の小瓶は、マルクが置いた。晩餐会の証言は、教えられた通りに口にした。


 王太子の杯に毒を入れたのは、宰相家の次男本人だった。致死量に届かない量を、わざと選んで。王太子が死ねば調べが厳しくなる。生きていれば、罪人を追放するだけで済む。全ては計算されていた。


 ディートリヒと宰相家の次男は、その日のうちに捕らえられた。


 宰相は職を剥奪され、家門は蟄居を命じられた。ヴェルトハイム侯爵ゲオルクは、かつて息子が立たされた同じ床に引き出され、石畳に額を擦りつけた。


「私は……ディートリヒの言葉を鵜呑みにいたしました。あの子は、兄が夜中に部屋を抜け出すのを見たと……私は、実の息子を、調べもせず……」


 侯爵の声は、途中で途切れた。


 侯爵夫人エリーゼは、真相を聞いたその場で倒れ、それから床を離れられなくなった。うわごとのように、息子の名を呼び続けているという。


 カトリーナ伯爵令嬢は、新しい婚約者との結婚式を目前に控えていた。彼女は真相を知った夜、自室で一晩中泣き明かした。翌朝、彼女は自ら髪を切り落とし、新しい婚約者に一瞥もくれないまま修道院の門を叩いた。


 ガレスは、騎士の位を返上した。


 だが、誰が何を悔いようと、どれほど涙を流そうと、一つの問題だけは解決しなかった。


 ルーカス・ヴェルトハイムが、どこにもいなかったのだ。


五 灰嶺


 国王は、国を挙げての捜索を命じた。


 騎士団が隣国ノルデンへ派遣され、国境の石橋から先の足取りが調べられた。各国の王家へ親書が送られ、冒険者ギルドには前代未聞の額の懸賞金がかけられた。


 手がかりは、なかなか見つからなかった。


 ノルデンの国境の村で、老人と若者の二人連れを見たという証言が出たのは、捜索を始めて二か月後のことだった。二人は村で冬の装備を買い込み、北へ向かったという。


 北。ノルデンのさらに北には、大陸を東西に断ち切る巨大な山脈がある。


 灰嶺。人々は、そう呼んでいた。


 一年中、灰色の雪が降る山だった。山頂付近では魔力の嵐が吹き荒れ、方位磁石は狂い、魔法は霧散する。三百年前に魔王が封じられた北の大地と、人の世界とを隔てる壁。かつて何度も探検隊が送り込まれたが、帰ってきた者はほとんどいない。


 人の踏み入れることのできない場所だった。


「そんなところに、人が住めるはずがない」


 騎士団長は、そう報告した。


 だが、王都の大神殿で、聖女セラフィナは静かに首を振った。


「勇者様は、そこにいらっしゃいます。聖印の光が、灰嶺の奥から見えるのです」


 国王は、使者を送ることを決めた。


 国王の名代として選ばれたのは、王弟フェリクス大公だった。王族が自ら頭を下げに行かなければ、何も始まらない。それが、国王と重臣たちの一致した考えだった。


 大公の護衛には、精鋭の騎士二十名と、宮廷魔術師五名、そして案内役として、灰嶺の麓の村から集めた猟師たちがついた。


 自ら志願して、もう一人が加わった。騎士の位を返上した、ガレスだった。


 一行は、ひと月をかけて灰嶺を登った。


 最初の十日で、猟師の半分が引き返した。


 二十日目、魔力の嵐に巻き込まれ、宮廷魔術師が三人、跡形もなく消えた。


 二十五日目、氷の裂け目に騎士が四人落ちた。救い出す手段は、誰にもなかった。


 灰色の雪は、絶え間なく降り続けた。息をするたびに肺が凍りつき、指先の感覚はとうになくなっていた。大公は何度も膝をついた。そのたびに、ガレスが肩を貸して立たせた。


 そして、出発から三十一日目。


 灰色の雪に閉ざされた、山の奥深く。風の止んだ窪地に、一軒の石の小屋が建っていた。


 煙突から、細い煙が上がっていた。


六 沈黙


 小屋の前で、一人の男が薪を割っていた。


 くすんだ金の髪は伸び放題で、無造作に後ろで束ねられている。頬はこけ、体つきは一年前よりずっと引き締まっていた。粗末な毛皮をまとったその姿は、とても侯爵家の嫡男には見えなかった。


 けれど、ガレスにはすぐにわかった。


「……若様」


 声は、雪に吸い込まれた。


 男は、振り向かなかった。斧を振り上げ、薪を割る。割れた薪を脇に積み、次の丸太を台に置く。その動きは、一度も乱れなかった。


 生き残った騎士は九名、魔術師は一名。満身創痍の一行が、小屋の前に並んだ。フェリクス大公は、ガレスの肩を借りて、男の前に進み出た。


「ルーカス・ヴェルトハイム殿とお見受けする」


 大公は、凍えた手で王家の紋章入りの書状を広げた。


「私は、グランツ王国国王アルブレヒト三世の名代、フェリクスである。陛下のお言葉を、お伝えする」


 斧が振り下ろされる。薪が割れる。


 大公は、構わずに読み上げた。


「一年前の王太子毒殺未遂の件について、再調査の結果、汝の無実が明らかとなった。真犯人ディートリヒ・ヴェルトハイムならびに共謀者は捕縛し、既に刑に服している。汝の名誉を回復し、貴族籍およびヴェルトハイム侯爵家の家督を汝に戻す。そして――」


 大公の声が、わずかに震えた。


「調べを尽くさず、汝を追放したことを、王として、心より詫びる」


 斧が振り下ろされる。薪が割れる。


 ルーカスは、一度も顔を上げなかった。


 大公は書状を下ろし、膝をついた。雪の上に、王族が膝をついた。後ろに並んだ騎士たちが、息を呑んだ。


「ルーカス殿。大神殿に神託が下った。魔王が復活する。北の封印は、もう半年ももたないだろうと聖女は言っている。そして神は、あなたを勇者に選ばれた」


 ルーカスの右手が、斧の柄を握り直した。


 その手の甲に、粗末な布が巻かれているのを、ガレスは見た。布の隙間から、淡い光が漏れていた。剣と星を重ねた紋の、その端が。


「あなたの手にある聖印こそが、その証だ。どうか、山を下りてほしい。魔王を討てるのは、あなたしかいないのだ」


 斧が振り下ろされる。薪が割れる。


 沈黙。


 灰色の雪が、音もなく降っていた。


「……若様」


 ガレスが、一歩前に出た。


「侯爵閣下は、毎日のように陛下に頭を下げておられます。奥方様は、若様の名を呼びながら床に伏せっておられます。カトリーナ様は修道院に入られました。皆、悔いているのです。若様が戻ってくださるなら、何でもすると――」


 ルーカスは、割った薪を拾い上げ、積み上げた山の上に置いた。


 それから、斧を台に立てかけ、小屋の裏手へと歩き出した。


 一行のことなど、最初からそこにいないかのように。


 ガレスは、その背中を追った。


 小屋の裏手には、小さな墓があった。


 灰色の雪をきれいに払われた、平たい石。その前には、山で摘んだのであろう小さな青い花が、一輪だけ供えられている。


 石には、ナイフで刻まれた文字があった。


 ――ハンス。


 ガレスは、その場に立ち尽くした。


 あの国境の石橋の向こうで、主人を待っていた老従僕。四十年仕えた家に暇を乞い、追放された若様のあとを追った、ただ一人の男。


 ルーカスは墓の前に膝をつき、石の上に積もった雪を、素手で丁寧に払った。


 ガレスは、ようやく理解した。


 この極寒の山で、誰が彼と共に石を積み、凍える夜に火を絶やさなかったのか。そして、最初の冬を越せずに逝った老人の手を、ルーカスがどんな思いで握りしめていたのか。


 老人が命を削って主人を守り抜いていたその一年間、王国は何をしていたか。父は、母は、婚約者は、友人たちは、そして自分は。


 神託が下るまで、誰一人として彼を思い出そうとさえしなかった。


 無実だから探したのではない。都合よく利用するために、這いずり回って見つけ出しただけだ。


「……ルーカス殿」


 追いついた大公が、掠れた声で言った。


「民が、死ぬのだ。あなたを追放したのは、我々だ。だが、民には何の罪もない。どうか、民のために――」


 ルーカスは、墓の前から立ち上がった。


 そして、大公の横を通り過ぎた。目を向けることさえしなかった。小屋の扉を開け、中に入り、扉を閉めた。


 閂の下りる、小さな音がした。


 それきり、扉は二度と開かなかった。


 一行は、三日間、小屋の前に留まった。


 大公は、扉の前で何度も呼びかけた。王の謝罪を繰り返し、ヴェルトハイム家の領地と財産を挙げ、望むものは何でも与えると約束した。騎士たちは雪の上に膝をつき、頭を下げ続けた。


 小屋の中からは、何の声も返ってこなかった。


 ただ、毎朝、煙突から細い煙が上がった。夜が明けるたび、扉の前の雪には、裏手の墓へと往復する足跡が一筋だけ新しく刻まれ、墓石の上には新しい青い花が供えられていた。凍える騎士たちが焚き火の前でうずくまっているすぐ脇を、彼は一瞥もくれずに通り過ぎているのだった。


 四日目の朝、食料が尽きた。


 大公は、扉の前に王の書状を置き、その上に石を載せた。


 一行は、山を下り始めた。


 ガレスは最後に一度だけ、小屋を振り返った。


 窓の向こうに、人影が見えた気がした。けれど、それはただ、灰色の雪が窓を流れていただけだったのかもしれない。


 帰り道で、さらに五人が死んだ。


七 終わりの国


 フェリクス大公が王都へ戻ったのは、出発から三か月後のことだった。


 二十人の騎士のうち、生きて戻ったのは四人。宮廷魔術師は、一人も戻らなかった。大公自身も、凍傷で左手の指を三本失っていた。


 謁見の間で、大公は兄王の前に膝をつき、全てを報告した。


 小屋のこと。一度も止まらなかった斧のこと。ハンスという名の墓のこと。閉ざされたまま、二度と開かなかった扉のこと。


「彼は、一言も発しませんでした。拒絶の言葉さえ、ありませんでした」


 大公は、目を伏せた。


「我々は、彼にとって、もう存在していないのです。兄上」


 国王アルブレヒト三世は、長い間、黙っていた。


 謁見の間には、重臣たちが居並んでいた。誰も、口を開こうとはしなかった。


 やがて、王は、ぽつりと言った。


「拒んでくれたなら、まだ、よかった」


 かすれた声だった。


「怒りをぶつけてくれたなら。我らを罵り、恨み言を並べてくれたなら。そこには、まだ何かが残っている。謝ることも、償うことも、できたかもしれぬ」


 王は、玉座の肘掛けを握りしめた。


「だが、何もない。あの男の中に、もはや我らはおらぬのだ」


 一年前、半刻で署名した文書。開かなかった裁判。玉座から一度も立ち上がらなかった、自分。


「余は、一人の若者を国から追ったつもりでいた。……違ったな」


 王は、窓の外へ目を向けた。


 北の空が、かすかに赤く染まり始めていた。


「あの日、この国の方が、あの男に捨てられたのだ」


 ヴェルトハイム侯爵ゲオルクは、大公の帰還を知ったその夜、ただ一人で北へ向かった。息子に会って自分の口で詫びるのだと、誰の制止も聞かずに屋敷を飛び出した。


 彼が灰嶺から戻ることはなかった。秋の入り口、麓の猟師が、氷の裂け目の底で侯爵家の紋章が入った外套を見つけたという。


 そしてその年の晩秋、北の封印は破れた。


 魔王の軍勢は、灰嶺を避け、東の峠を越えて南下した。最初にノルデンの北部が呑み込まれ、ひと月後には、その王都が陥ちた。


 グランツ王国は、全ての騎士団を北の国境へ送った。各国の王家に援軍を求め、大神殿は昼夜を問わず祈りを捧げた。聖女セラフィナは、神に別の勇者を選んでくれるよう願い続けた。


 神は、答えなかった。


 勇者の聖印は、この世にただ一つ。その持ち主が剣を取らない限り、魔王を討つ術はない。


 北の砦が陥ち、国境の石橋が陥ちた。


 王都の空は、日に日に赤くなっていった。


 国王アルブレヒト三世は、毎夜、王宮の露台に立ち、北の空を見上げていた。赤い空の下で、灰嶺の稜線だけが黒く浮かび上がっている。


 あの山の奥で、あの男は今も薪を割っているのだろうか。


 墓の雪を払い、花を替え、扉を閉ざして、ただ静かに暮らしているのだろうか。


 王は、それを確かめる術を持たなかった。確かめる資格も、とうに失っていた。


 遠くで、鐘が鳴った。


 王都の北門が破られたことを告げる、鐘の音だった。


 王は、目を閉じた。


 ――灰嶺には、今日も灰色の雪が降っている。


 石の小屋の裏手、小さな墓の前に、一人の男が座っていた。


 空は、山の向こう側まで赤く焼けていた。風に乗って、かすかに焦げた匂いが届く。遠い南の大地で、何かが燃えているのだろう。


 男は、墓の石に積もった雪を、素手で払った。


 右手に巻いた布の隙間から、淡い光が漏れていた。剣と星を重ねた紋。三百年に一人の、世界を救うための光。


 男は、その光に目を落とすこともなく、新しい花を石の前に供えた。


 山で摘んだ、小さな青い花だった。


 老人が好きだった色だった。


 世界が終わる音は、ここまでは届かなかった。


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― 新着の感想 ―
聞く耳を一切持たず追い出したのだから、聞く耳を一切持たず拒絶されて当然ですね。よくある話だと民のためとか言われて罪悪感煽られて渋々応じるじゃないですか。あれがすごく嫌だったので行かなくてほっとしました…
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