第一話「掲示板の神様」
四月、始業式の朝というのは、どうしてこんなに空気が薄いのだろう。
桐島奏は昇降口で靴を履き替えながら、去年と変わらない校舎の匂いを肺に吸い込んだ。埃と、ワックスと、誰かの柔軟剤。進級しても、においだけは同じだ。
三年二組。新しいクラス名を頭の中で繰り返す。去年と同じメンバーが半分以上残ったと聞いていた。それが良いことなのか悪いことなのか、奏にはまだわからない。
廊下を歩いていると、前方に人だかりができているのが見えた。
掲示板の前だった。
黒板消しのカスが落ちた床に、数人が立ちすくんでいる。声を上げる者はいない。みんな同じ方向を見て、固まっていた。
嫌な予感がした。
奏は人をかき分けて前に出た。
掲示板の中央、新学期のお知らせやクラス分けの紙に混じって、一枚だけ異質な白い紙があった。手書きではなく、プリントアウトされた文字。フォントはゴシック体。飾り気がない分、かえって目に刺さる。
そこにはたった二行だけ、書かれていた。
朝倉雫の転落事故は、3年2組の誰かが起こした。
あなたたちは知っているはずだ。
奏は息を止めた。
隣に立っていた宮瀬陸が、小声で笑った。笑うしかなかったのだと、後になって奏は思う。
「……悪趣味な冗談じゃん」
誰も、同意しなかった。
*
朝倉雫が屋上から転落したのは、去年の十月のことだった。
放課後の出来事で、目撃者はいなかった。校舎の裏手にある中庭に倒れているのを、部活帰りの一年生が見つけたという。救急車が来て、警察が来て、学校中が一日で凍りついた。奏が覚えているのは、そんな断片ばかりだ。
警察の調査は二週間も続かなかった。柵の老朽化による転落事故、という結論で処理された。自殺の可能性も検討されたが、遺書はなく、家族は否定した。事故。その一言で、すべてに蓋がされた。
雫は今も入院している。意識は戻っていない。
三年二組の生徒たちは、進級してもその事実を胸の奥に抱えたまま、新しい教室に集まっていた。
*
ホームルームが始まる前に、担任の田端先生が掲示板の紙を剥がした。生徒たちに「見た人は忘れなさい」とだけ言い、それ以上は触れなかった。学校側の対応としては、まあ妥当だろうと奏は思った。
でも、忘れられるわけがない。
自分の席に座りながら、奏は教室を見回した。
窓際の席で宮瀬陸がスマホをいじっている。笑っているが、目が笑っていない。前の席の氷室静香は教科書を開いているが、ページが十分以上めくられていない。後ろの方で、転校生だという東颯太が誰とも話さず窓の外を見ている。浅井ことりは——雫の親友だった浅井ことりは、今日まだ登校していなかった。
全員の顔を知っている。全員の名前を知っている。
でも、全員のことを知っているかと言えば、全然そんなことはなかった。
「桐島さ」
隣の席から声をかけられた。宮瀬陸だった。
「あの紙、マジだと思う?」
奏は少し考えてから答えた。
「わからない」
「だよなあ」陸は背もたれに体重を預けて、天井を見上げた。「でも誰かが書いたわけじゃん。何がしたいんだろうな」
奏は何も言わなかった。
何がしたいのか、なんて。
考え始めたら、止まれなくなる気がした。
*
放課後、奏は一人で掲示板の前に戻った。
紙はもうない。跡形もなく剥がされている。でも奏の目には、まだあの二行が焼きついていた。
朝倉雫の転落事故は、3年2組の誰かが起こした。
あなたたちは知っているはずだ。
「知っているはずだ、か」
呟いてみると、それはひどく個人的な言葉に聞こえた。不特定多数に向けた告発文にしては、どこか——誰か一人に向けて書かれたような気がする。
奏はふと、去年の十月のことを思い出した。
放課後。屋上。
風の強い日だった。
奏は、あの日のことを誰にも話していない。話す必要はないと思っていた。警察にも、親にも、友達にも。事故として処理されたのだから、余計なことを蒸し返す必要はない、と。
でも。
もし、あの紙を書いた人間が——知っているとしたら。
「桐島さん」
背後から声がして、奏は振り返った。
氷室静香が立っていた。委員長らしい真っ直ぐな姿勢で、奏を見ている。その目に、いつもの涼しさはなかった。
「少し、話せますか」
奏は頷いた。
静香は周囲を確認してから、一歩近づいた。声を落として、言った。
「あの紙の筆跡……というか、レイアウト。見覚えがあったんです」
「誰の?」
静香は一瞬だけ視線を落とした。
「雫ちゃんの」
廊下に、沈黙が落ちた。
奏は掲示板を見た。何もない白い板。剥がされた跡さえ残っていない。
意識不明のまま入院している少女が、どうやって——。
「それだけじゃないんです」静香は続けた。「レイアウトだけじゃなくて、使っているフォントとか、余白の取り方とか。雫ちゃん、去年の文化祭でクラスの冊子を作ったの、覚えてますか。あの時の配布物と、ほぼ同じ書式で」
「……誰かが真似たってことは?」
「可能性はあります。でも」
静香は奏の目を見た。
「雫ちゃんには、あのデータを持っている人間が他にいます。私と、もう一人」
奏は静かに息を吸った。
「誰?」
静香は答えなかった。
ただ、もう一度だけ周囲を見回して——それから、まっすぐ前を向いて歩き去った。
奏は一人、掲示板の前に残された。
頭の中で、あの二行が繰り返される。
あなたたちは知っているはずだ。
知っている。
知っているとしたら——これは始まりに過ぎない。
(第一話・終)




