辞令は突然に、異世界でも
この物語は、派手な戦闘や魔法のある世界の話ではありません。
扱うのは、「記録」「手続き」「制度」。
一見地味で、目立たないものばかりです。
ですが現実において、人を守るのはいつもこうした仕組みでした。
もしそれが何も存在しない場所に放り込まれたら、
一人の人間はどこまで制度を作れるのか。
そんな仮定から、この物語は始まっています。
少し変わった異世界ものですが、
静かな戦いを楽しんでいただければ幸いです。
死ぬ瞬間というのは、もっと劇的なものだと思っていた。
神代恒一が最後に見たのは、横断歩道の白線と、急ブレーキの音と、眩しすぎるヘッドライトだった。痛みはなかった。ただ、脳裏を横切ったのが「明日の窓口業務、誰がやるんだろう」という、どこまでも職業病じみた懸念だったのは、我ながら笑えない話だと思う。
そして次の瞬間、彼は光の中にいた。
光が引いていくと、石畳があった。
ごつごつとした、不均一な石畳だ。恒一は反射的にその継ぎ目の幅を測るような目つきで眺め、「これはバリアフリー基準を満たさないな」と思った。やはり職業病だった。
「目が覚めたか」
声がして、恒一は顔を上げた。
老人が一人、立っていた。白いローブ。長い髭。ステレオタイプすぎる賢者の風貌に、恒一は内心「ああ、そういう感じか」と妙な納得をした。
「あなたは……神、ですか」
「神に近い者、とでも言っておこう。この世界の観測者だ」
「観測者」
「そして、君に頼みたいことがある」
老人は恒一をまっすぐに見た。
「この世界を、救ってほしい」
恒一は少しの間、沈黙した。
「……救い方を、具体的に教えてもらえますか」
老人が面食らった顔をしたのを、恒一は見逃さなかった。おそらく英雄志望の若者か、感激して泣き崩れる人間を期待していたのだろう。三十二歳、元市役所職員には、そういうリアクションはできなかった。
「魔王を倒す、とか、そういう話ではないんですよね」
「……ああ。この世界に必要なのは剣ではない。制度だ」
「制度」
「人々を繋ぎ止めるルール、記録、秩序。それを打ち立てられる者が必要だ」
恒一はゆっくりと息を吸った。
「つまり、行政です」
「……そう言ってもいい」
「わかりました」
今度は老人が沈黙する番だった。
「承諾が、早いな」
「やることが明確なら話は早い。ただし確認させてください」恒一は指を一本立てた。「私の権限の範囲はどこまでか。予算に相当するリソースはあるか。既存の権力構造との調整窓口は誰か。以上三点、教えてもらえますか」
老人は長い沈黙の後、どこか楽しそうに笑った。
「君は、本当に変わった人間だな」
「市役所では普通です」
老人が語ったことを、恒一は手帳に書き留めた。権限は「リーデン特別行政区」の範囲内に限定される。予算はない。ただし、制度として公布・周知したものは「認識層」に干渉し、一定の強制力を持つ。調整窓口は存在しない。完全にゼロからの立ち上げだった。
予算なし、人員なし、前例なし。
恒一は手帳を閉じた。
「……要するに、一人でやれということですか」
「最初は、な」
「任期は」
「君が死ぬか、制度が世界を覆うまで」
「終身雇用ですか。それはそれで問題がありますが、まあいいでしょう」
老人は何も言わなかった。ただ静かに微笑んでいた。その表情には、選択を誤ったとは思っていない確信のようなものが宿っていた。それだけが、わずかな安心材料だった。
気づけば恒一は、石造りの小屋の前に立っていた。
都市の外れ、という雰囲気だった。遠くに城壁が見える。瓦礫混じりの路地、洗濯物を干す窓、路上で眠る子どもの姿。リーデン、と老人は言っていた。王国の首都にして、この大陸で最も人口の多い都市。そして最も、制度の恩恵から遠い場所。
小屋の扉には、朽ちかけた木の板がかかっていた。
恒一はそれを見つめ、懐から何かを取り出した。老人が去り際に渡していったものだ。木でできた小さな印章と、羊皮紙が一枚。
羊皮紙にはこう書かれていた。
『アストラルディア大陸・リーデン特別行政区 行政長官 任命状』
辞令だった。
異世界に来て最初に受け取ったのが辞令というのは、どういう因果なのか。恒一は苦笑しながら、それを折りたたんで胸ポケットにしまった。
そして扉を開けた。
ほこりと黴の匂い。崩れかけた棚、割れた窓。床は砂だらけで、隅には鳩が巣を作っている。建物の奥には石造りのカウンターらしき台があったが、天板が割れて使い物にならない。窓の外から差し込む夕陽だけが、妙に美しかった。
「……まず、環境整備から始めますか」
誰に言うでもなく、恒一は呟いた。カウンターの破片を手で退かし、棚の倒れているものを立て直す。砂は箒がなければどうしようもないが、それは後回しにする。まず空間を「使える状態」に近づけることが先だ。
一時間ほど作業をして、恒一は一度外に出た。水が必要だった。体を動かすと、この世界の空気が思ったより乾いていることに気づく。喉が渇いていた。
路地を歩いていると、井戸があった。近隣住民らしき人々が数人、順番待ちをしている。恒一が列の端に立つと、周囲からちらちらと視線が飛んできた。見慣れない服装のせいだろう。
順番が来て、恒一が桶を井戸に下ろしたとき、背後で小さな声がした。
「いた……!」
振り返ると、少女が転んでいた。七、八歳くらい。擦り傷だらけの膝。泥まみれの服。石畳の段差に躓いたらしい。恒一が手を差し伸べると、少女は怯えたように身を縮めた。
「大丈夫ですよ。立てますか」
少女はしばらく恒一を見つめていた。警戒心と、それでも助けを求めたい気持ちが、子どもらしい顔に透けて見えた。やがて、おずおずと手を伸ばしてきた。
「……おにーさん、だれ?」
「神代恒一といいます」
「かみしろこーいち?」
「難しければ、恒一さんでいいです」
「こーいちさん、ここで何してるの? あそこ、ずっと空き家だよ」恒一が作業をしていた小屋を指差す。
「市役所を開こうと思って」
「いちやくしょ?」
恒一はしゃがんで、少女と目線を合わせた。
「困ったことを、解決する場所です。誰でも来ていい。お金もいらない」
少女は首を傾げた。
「ほんとに?」
「本当に」
「……3日、食べてないの」
恒一は息を止めた。
「お母さんが、税を払えなくて……領主の人に連れていかれた。弟たちと三人で、ずっと」
少女の声は静かだった。泣いてもいない。ただ、乾いた事実として、そこにあった。それがかえって、重かった。
恒一の胸の中で、何かが静かに決まった音がした。制度設計の前に、まず実態把握。現場の声を聞くことが先だ。それは元の世界でも変わらない、行政の基本だった。
「それも含めて、考えましょう」
その瞬間だった。
恒一の手帳に書いた文字が、わずかに光った。
――第一条 当該区域において、住民の申出は行政が受理するものとする。
紙の上の文字が、淡く発光し、そして消えた。
ミーナが目を瞬かせる。
「……いま、光った?」
恒一は手帳を見つめたまま、静かに言った。
「どうやら……制度は、機能するらしい」
頭の中で、何かが繋がった感覚があった。老人の言葉。制度は認識を変える。認識が現実を変える。それは理屈ではなく、今この瞬間、手のひらの上で起きた事実だった。
少女は不思議そうな顔のまま、でも少しだけ笑った。
「あたし、ミーナ。住民第一号ってやつ?」
「そういうことにしましょう」
恒一は立ち上がり、空き家を振り返った。
やることは山ほどある。建物の修繕、住民台帳の作成、課題の洗い出し、関係者へのヒアリング。制度を作る前に、まず実態を把握しなければならない。現状を知らない行政は、的外れな政策しか生まない。そしてそのツケを払うのは、いつも住民だ。それは元の世界でも、この世界でも変わらないはずだった。
恒一は手帳を取り出した。
表紙に、一行書く。
「リーデン行政調査 第一日目」
太陽が傾き始めた西の空を背に、元市役所職員の異世界勤務が、静かに始まった。
――異世界市役所、開設。




