空に書かれる物語
沈黙は、一瞬だけだった。
「あいつ、何を見てるんだ?」
誰かが呟いた。
ツキシロは、まだ空を見上げていた。
文字はそこにあった。
夜空に、インクを散らしたように浮かぶ言葉。
光でも煙でもない。
まるで空そのものが、一枚のページになったかのようだった。
彼は瞬きをした。
——消えない。
確かに、存在している。
「おい!」
声が近い。
ツキシロは視線を落とした。
松明を持った男が数歩前に出ていた。
炎が揺れ、顔の半分だけを照らしている。
「聞いてるぞ。お前は何者だ?」
ざわめきが広がる。
灰に汚れた顔。
疲れた目。
恐怖、怒り、憎しみ——そして、わずかな希望。
ツキシロは泥の中で膝をついたまま、考えていた。
なぜ、ここにいる?
最後の記憶は——図書館。
果てのない本棚。
古い紙の匂い。
黒い服の女。
「これであなたが持ち主よ。」
——その言葉。
轟音が響いた。
燃えた家が崩れ、火花が散る。
熱気と煙が押し寄せる。
そして、嫌な匂いが混じっていた。
ツキシロはゆっくり立ち上がる。
足が震えている。
「村の人間じゃないな」
「見たことがない顔だ」
「よそ者か?」
松明が増えた。
包囲が狭まる。
そのとき——
金属音。
鎖が地面を擦る音。
ツキシロは振り返る。
少女が引きずられていた。
両手首を鎖で縛られ、何度も躓きながら。
「歩け!」
少女が膝から崩れ落ちた。
群衆が爆発する。
「魔女だ!」
「焼け!」
「殺せ!」
ツキシロの胸が締め付けられる。
彼は、また空を見た。
文字が——増えている。
タイトルの下に、新しい文章。
ゆっくりと、今まさに書かれているように。
「群衆は恐怖と怒りに駆られ、魔女を広場へ引きずるだろう。」
さらに続く。
「裁きは素早く行われるだろう。」
「炎が悪を清めるだろう。」
ツキシロの鼓動が跳ねた。
——これは、物語だ。
ただ読んでいるんじゃない。
今この瞬間の台本を読んでいる。
手の中の栞が脈打った。
温かい。
まるで、生きているように。
「連れて行け!」
少女がまた引きずられる。
ツキシロは空を見る。
新しい一文。
「よそ者は口を挟まないだろう。」
——よそ者は、自分だけ。
もしこれが“本”なら。
もしこれが“決定された流れ”なら。
それを破ったら——どうなる?
男が松明を振り上げる。
「終わらせるぞ!」
炎が少女を照らす。
彼女は震えていた。
だが——目は逸らしていない。
見ている。
彼を。
いや——
彼の手の中の栞を。
表情が変わる。
混乱。驚き。理解。
ツキシロは息を吸った。
そして——踏み出す。
「待て!」
空気が止まった。
男が振り返る。
「またお前か。」
ツキシロは指をさした。
「火はあそこからだ!」
数人が視線を向ける。
「崩れるのを見た!」
「でも誰がやったかは——」
ざわめきが広がる。
ツキシロは空を見る。
文字が揺れる。
消えていく。
「よそ者は口を挟まないだろう」
——消失。
そして、新しい一文。
「よそ者は口を挟んだ。」
栞が光る。
成功した。
——だが。
空の文字が、増殖する。
「群衆はよそ者を捕らえるだろう。」
「群衆は躊躇するだろう。」
「魔女は死ぬだろう。」
「魔女は逃げるだろう。」
重なる文章。
矛盾する未来。
ツキシロの目が見開く。
「なんだ……これ……」
少女が呟く。
「物語が……壊れてる。」
——爆発。
別の家が炎に包まれる。
群衆が崩壊する。
「逃げろ!」
「火が回るぞ!」
混乱。
その中で——鎖が手放された。
少女が倒れる。
ツキシロは即座に動いた。
腕を掴む。
「立て!」
「正気なの?!」
「たぶんな!」
鎖を引く。
「でもここにいたら死ぬ!」
群衆はすでに逃げていた。
炎が広がる。
空には、なお文章。
「混乱が村を支配するだろう。」
「物語は制御を失った。」
少女が立ち上がる。
「どこへ行くの?!」
ツキシロは周囲を見渡す。
燃える村。
逃げる人々。
狂った物語。
栞を握る。
「結末から遠ざかる。」
彼は彼女の手を引いた。
二人は煙の中へ走り出す。
背後で、村が燃える。
頭上では——
物語が、まだ書き続けられていた。
だが今度は。
どの文章も——
結末が一致していなかった。




