【第08話-03】それぞれの“一番”-和也・美由
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【Scene01.3:1年前4月】
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和也たちが特別室でくつろいでいると、廊下から声が掛かった。
「夕食の準備ができております」――冬美だった。
用意されたのは、霞の宿ならではの豪勢な宴。
初めての梨子は、出てくる料理の一つ一つに目を丸くしていた。
けれど、今回の宴はいつもとひとつだけ違っていた――お酒が、進んだのだ。
見た目に反して梨子はかなり酒に強く、まったく酔う気配がない。
千晴はアルコールに弱く、早々にギブアップ。
そして和也はというと、梨子のペースに付き合わされ、すっかり酔っ払ってしまっていた。
宴が終わり、部屋に戻ったあと――
「和也お兄ちゃん、一緒に温泉入ろ!」と梨子が無邪気に声をかける。
すかさず千晴がたしなめた。
「ダメよ、和也は酔ってるんだから。今すぐ温泉に入るのは危険よ」
千晴は眉をしかめる
「それに冬美さん、遅番って言ってたから、たぶんまだ近くで待機してるわよ。混浴なんて無理よ」
「見られるのは別に構わないけど、和也お兄ちゃんが危ないのは確かにダメだね。……千晴先輩、一緒に入ろ!」
(見られるのは構わないんだ)
千晴は感心した
「うん。じゃ、行こっか」
「おう、行ってらー……」
和也は布団に沈みながら、声をかける。
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同じ頃――
特別室に向かう美由の前に、冬美が現れた。
「美由、どうしたの?」
「私、和也さんに話さないといけないことがあるんです」
その真剣な眼差しに、冬美は静かに道を開ける。
「……いってらっしゃい。頑張りなさい」
「はい、ありがとうございます」
「和也さん、いらっしゃいますか? 美由です」
声をかけると、すぐに襖が開いた。
「美由さん? こんな時間にどうしたの?」
酔いの残る表情ながらも、和也の眼差しはいつもと変わらず優しい。
「少し、お話したいことがあって……中に入ってもいいですか?」
「ええ、どうぞ。千晴と梨子は、お風呂に入ってるけど」
美由は大きく一つ息を吸って、襖の中へと足を踏み入れた。
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一方そのころ、金の湯では――
「美由さん、どうしたかな?」
と梨子がぽつりと呟く。
「さっき、すぐに別れ話してくるって言ってたわね」
千晴も心配そうだ。
「……今頃、修羅場になってたりして」
「縁起でもないこと言わないの!」
千晴は小さくしかめ面。
「意外とさ、もう特別室に来て、和也さんに告白して――
もう可愛がられてる最中だったりして」
「えぇ、そうだといいな」梨子は微笑む。
「それでいいの?」と千晴が尋ねると、
「うん! みんな幸せが一番!」と、梨子は迷いもなく即答した。
(やっぱり、いい子だな)と千晴は心の中で思う。
「……なんだったら、美由がコスプレ姿で和也に迫ってるかもよ?」
「ちょ、千晴先輩! 先越されちゃいますー!」
ふたりは笑い合っていたが――
千晴よ、忘れていないか?
“立てたフラグは、回収される”ってことを……。
──
風呂から上がったあと、梨子は千晴の着付けを手伝っていた。
「千晴先輩、色っぽい! これでちょっと着崩したら、和也お兄ちゃん――
い・ち・こ・ろ、ですよ」
「そ、そうかな……」千晴は照れ気味。
梨子も着物を整え、ふたりで部屋に戻ると――
「あれ? 和也お兄ちゃん、起きたかな?」
声をかけるが、返事はない。
「……いない?」
ふと見ると、奥の寝室から、なにやら妖しい雰囲気が――
「ちょ、和也、何してるのよ!?」
千晴が勢いよく襖を開けたその先――
狼が、うさぎさんを襲っていた。
いや、正確には――
バニーガール姿の美由と和也が・・・
「どうしてこうなってるのよ!!」
千晴は頭を抱える。
どうしてって、フラグを立てるからじゃないか?
「バニーガール……その手があったか!!」
梨子の反応は、明後日の方向。
「そこ、感心するところ!?」
千晴は、思わずツッコまずにはいられなかった――。
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時は少しだけ遡る。
千晴と梨子が金の湯に入っていた、そのとき。
和也のもとを訪ねた美由は、真正面から切り出した。
「彼氏と、別れてきました」
「えっ……どうして……?」
いきなりの展開に、和也は言葉を失う。
「私、和也さんのことが好きなんです!
気づいていましたよね……」
和也は、もちろん気づいていた。
だが、“誠実でいたい”と思っていたからこそ、軽々しく応えることはできなかった。
「分かっています。
千晴さんには勝てないってこと……でも、それでもいいんです。
二号さんでも、三号さんでも。
それでも、可愛がってほしいんです」
美由は、霞の湯で自らに課した覚悟を、ここで真正面からぶつけた。
このスタンスは、後に和也が南と復縁したあとも変わることなく続く。
そして、美由の「愛してもらえるなら、二番でも三番でもいい」という思いは、
南の「自分が一番なら、あとは自由でいい」という考えと、見事に噛み合った。
だからこそ、彼女たちは不思議な信頼関係を築くことができるだろう。
和也の気持ち?
……まあ、モテ期っていつかは終わる。
でも、一人くらい、こういう子がいてもいいんじゃないかな。
──話が逸れた。
和也が絶句していると、美由はそっと奥の寝室へ向かっていった。
「覗かないでくださいね……」
振り返ったその顔は、赤らんでいて――
けれど、異様に色っぽかった。
和也は、生唾を飲み込むことしかできなかった。
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やがて美由が寝室の襖を開け、ゆっくりと姿を現した。
そこにいたのは、完璧なバニーガールだった。
薄手の量販品とは異なり、深みのある光沢を持つスーツ。
胸元にはしっかりとワイヤーが仕込まれ、豊かなバストを美しく支えていた。
無駄な肩紐はなく、デコルテが大胆に露出している。
耳、尻尾、蝶ネクタイ、手首のカフス……
どれをとっても寸分の隙なく揃っており、衣装の完成度の高さは一目瞭然だった。
千晴があえて視線を逸らしていた美由の胸元。
仲居になってからも密かに育ち続けていたそのボリュームは、
今やEカップに迫る勢いで――
巨乳好きの和也は、自然とそこから目が離せなかった。
「うさぎさん、ご奉仕したいぴょん……」
耳まで赤くしながらも、美由は一歩、そしてまた一歩と和也に近づく。
その姿に、和也の酔いはさらに深く――
本能に火がついた。
「がるる……っ」
妙な唸り声とともに、狼が飛びかかろうとした時
「……キス、してほしいです」
震える声で差し出された願いに、和也の動きがふっと止まる。
一瞬だけ、理性が戻る。
優しく唇を重ねる。
「嬉しい……」と、微笑む美由があまりにも愛しくて――
もう、和也は止まれなかった。
そして和也が最後を迎えようとした、まさにその瞬間。
「ちょ、和也、何してるのよ!?」
襖が勢いよく開け放たれ、千晴が突入してきた。
ふたりは、そのまま最後まで突き抜けていった。
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和也と美由がようやく落ち着きを取り戻した頃。
千晴は静かに二人に言い渡した。
「……二人とも、お風呂に入って汗を流しなさい。」
「あの、俺……」
和也が何か言いかけたが、千晴はその言葉を遮るように微笑む。
「はい、行きなさい」
和也は黙って寝室を出た。
すると襖の前には、整然と畳まれた二人分のバスタオルと浴衣、お風呂セットまでが並べられていた。
「……冬美さん、まだ居たんだな」
ぽつりと呟く和也。
そして心の中では、
(明日、冬美さんにどんな顔をすればいいんだろう)
と、小さく溜息をついた。
まだ足元がおぼつかない美由にそっとタオルを掛けてやり、支えるように肩を抱きながら脱衣所へと向かう。
その後ろ姿を見送る千晴の顔には、複雑な色が浮かんでいた。
「……千晴先輩、よかったんですか?」
梨子がそっと問いかける。
「いいのよ。今日の美由は、ちゃんと勇気を出した。だったらその分、ご褒美があって然るべきなの」
千晴の声は、あくまで優しかった。
「梨子が言ってたじゃない。”みんな幸せが一番”って」
そう言うと、千晴はふっと目を伏せる。
そしてゆっくりと、決意を込めて口にする。
「それに……明日は、私の誕生日だもの。明日は、私たちの番」
「……“たち”?」
梨子が思わず聞き返す。
「そうよ。誰が梨子を除け者にするのよ!」
その一言に、梨子の目が潤む。
「千晴お姉ちゃん、大好き!!」
久しぶりの“お姉ちゃん”呼びに、千晴も頬をほころばせた。
「……でも、和服じゃバニーガールに勝てないね」
「着替えよっか」
ふたりは微笑み合い、静かに寝間着へと着替えていった。
──
その頃、金の湯では。
静かな湯けむりの中、和也と美由が隣り合って湯船に身を沈めていた。
体にはまだ、愛の余韻が残っている。
「あの……美由さん、俺……」
言いかけた和也の唇を、美由の指がそっと塞ぐ。
「……美由って呼んで」
「……美由。俺は、君を一番にはできないよ」
「うん、それでもいいの。さっきも言ったよね? 私は2番目でも3番目でもいいの。可愛がってくれたら、それで」
そう言って目を閉じ、そっと肩を寄せる美由。
「……俺さ、“愛してる”って、言われたの初めてなんだ」
「えっ……千晴や南は?」
「好き、とは言ってくれた。でも、“愛してる”って言葉は……一度もなかった」
和也の表情には、ほんの少しだけ影が差していた。
「俺は、ふたりには伝えたんだけどな……“愛してる”って」
その言葉を聞いた美由は、湯船からすっと立ち上がった。
そしてまっすぐに和也の正面へ向かい、言葉を紡ぐ。
「中田美由は、上嶋和也のことを愛しています。
2番目でもいい。だから……傍にいさせてください」
「……俺も、美由のこと、愛するよ。
今は千晴のことを一番に思ってるし、将来は……たぶん南のことを一番大切にすると思う」
それでも美由は、傷つかなかった。
なぜなら──
「俺は、美由のことを“愛する”よ。」
その言葉にこそ、“一番”を超えた意味が込められていると、確かに感じたから。
事実、それから和也は──
千晴にも、南にも、二度と“愛してる”という言葉を使わなくなった。
美由にだけ、それを残して。
それは確かに、一つの愛の形が実った証だった。
二人の間に優しく静かな時間が流れた。
──
やがて、ふたりは静かに部屋へと戻っていった。
襖を開けると、千晴と梨子はすでに隣の布団に入っていた。
「朝までは貸しておいてあげる」
布団の中から、千晴の声が聞こえた。
「……明日は、ダメだからね」
梨子がそっけなく続ける。
「うん。分かってる。明日は、千晴の誕生日だもん。
絶対、邪魔しないよ」
「……おやすみ」
和也も優しくそう言って、美由と一緒に布団に入る。
こうして、波乱の“千晴誕生日旅行”は、1日目の夜を静かに終えたのだった。
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誕生日の朝、高橋千晴が目覚めると、隣にいたはずの和也と美由の姿がなかった。
一瞬、不安がよぎる。
(和也が美由とそのまま行ってしまったのでは?)
だが、ふすまの向こうから戻ってきた気配がする。
「おはよう、千晴。美由……さんを送ってきたよ」
無理に“さん”付けしたのが可笑しくて、千晴は小さく笑った。
「無理に“さん”付けしなくてもいいのよ。告白されて、オッケーしたんだよね?」
和也は、小さく、しかし確かに頷いた。
千晴は軽やかに口を開く。
「まあ、私が“第一彼女”ですから。
“第二彼女”とか、“愛人”の一人や二人、許容してあげますけど」
それは冗談めいていたが、どこか本音でもあった。
同時に、それは千晴の中で一つの決着がついたことを意味していた。
(私は、やがて和也の元を去るだろう。)
そして、和也は約束通り、新倉南の元へ戻る。
それが和也の誠実さであり、千晴が好きになった男の姿だった。
(けれども、南とはきっと心の底から愛し合うことはできない。
そんな時、美由が傍にいてくれたなら──
美由なら、きっと、心の底から彼を愛してくれる。)
そう思った瞬間、千晴は静かに実感していた。
(私は、和也を“心の底から”は、愛していない。)
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時計を見ると、まだ朝食には早すぎる時間だった。
「随分と早く起きたのね」
そう尋ねると、和也は歯切れ悪く答える。
「……今日は皆が集まって、何かすることがあるんだって」
千晴は、察していた。けれど、気づかないふりをする。
その方が、うまくいく。
それは、“和也が美由を一番愛してしまった”ことにも気づいているのと同じ。
──気づかないふりをしたほうが、うまくいく。
だから千晴は、少し笑って言った。
「一緒に朝風呂に入りましょうよ」
梨子のほうを見ると、とんでもない寝相でまだ熟睡している。
「梨子は簡単には起きないよ」
「そうみたいね……」
その時だった。
「そうだ、千晴──誕生日おめでとう。好きだよ」
和也のその言葉に、ふと胸がざわついた。
──昨日までなら“愛してるよ”って言ってくれていた。
でもそれにも、千晴は気づかないふりをした。
その方が、きっと良かった。
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金の湯では、静かな朝を過ごした。
湯の音だけが響く空間が、千晴にとっては心地よかった。
もう感情を乱す熱は、ここにはなかった。
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部屋に戻ると、梨子が目を覚ましていた。
「除け者にしないって言ったのにーっ」
膨れっ面で布団の中からそう言う梨子に、千晴は柔らかく微笑んだ。
──こうして、波乱の千晴誕生日は静かに幕を開けた。
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「私も和也お兄ちゃんと温泉入る!!」
梨子が元気よく騒いでいると、襖の向こうから静かな声が届いた。
「皆様、朝食の準備が整いました」
それは冬美の声だった。
「おっ……おはようございます」
和也が立ち上がった瞬間、不意に体を引かれ、襖の影へと連れ込まれる。
予備動作もなく、あまりに自然な動き。
千晴と梨子からすれば──冬美と和也が“忽然と消えた”ように見えただろう。
それは、至極単純な体術だった。
視線が外れた瞬間に動くだけ。
けれど、それを極めると──まるで魔法か忍術に見える。
冬美は、耳元でそっと囁く。
「美由のこと、よろしくお願いいたします」
和也は短く、しかし力強く頷いた。
「はい」
そして再び、千晴たちの視線が僅かに逸れた瞬間に動き、元の位置へ戻る。
「和也お兄ちゃんが消えたかと思ったら、また現れた!」
梨子は大はしゃぎだ。
「忍法・雲隠れー!」
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朝食は、シンプルながらも手間を惜しまぬ、丁寧で品のある膳だった。
梨子は目を輝かせながら、あれもこれもと箸を伸ばす。
部屋に戻るなり、彼女はぶんぶんと腕を振りながら叫んだ。
「私も和也お兄ちゃんと温泉入る!
美由さんと千晴先輩だけずるーい!」
ぷうっと頬をふくらませる姿が、またとんでもなく可愛い。
「……仕方ないな。一緒に入るか」
「やったーーっ!」
ぴょんぴょん跳ねる梨子。
無敵だ。誰にも勝てない。
──可愛いは、正義だ。
気づけば部屋の隅には、二人分の風呂セットが用意されていた。
和也と梨子は連れ立って脱衣所へ向かう。
「千晴先輩は?」
「部屋で待つってさ」
──さっき二人きりで入ったことに、少し引け目を感じているらしい。
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脱衣所で浴衣を脱ぐ。
そう──脱ぐ。
(……考えてみれば、梨子と二人きりで裸になるのって、これが初めてじゃないか?)
これまでは、いつも千晴か花音が一緒だった。
(そうだ……俺、この梨子と、もうヤッちゃってるんだよな)
赤ん坊の頃から可愛がってきた、四歳下の従姉妹。
ブラを外す仕草が、急に大人びて艶やかに見える。
強烈な背徳感がこみ上げた。
──が、それは逆に火をつけた。
「なに、和也“お兄ちゃん”、梨子の体に興奮しちゃった?」
にやにやと笑いながら、梨子は和也の手を引く。
「さ、温泉入ろ」
──
部屋です待つ、千晴の耳にあの声が聞こえてきた。
(今度は梨子と)
嫉妬心はあった。
けれど、胸を締めつけるような苦しさは、不思議と湧き上がらなかった。
梨子の声は心の奥底からあふれ出た──本物の喜びだった。
(……やっぱり私は、和也のことを“愛して”はいないんだ。
本当に愛しているなら、こんな声を聞かされて、冷静でいられるはずがない)
千晴はそう思った。
──だが、彼女は少しだけ間違えている。
達也とも、和也とも、喜びを分かち合ったあの瞬間──
確かに千晴は、彼らを“愛していた”。
ただ、かつて和也が名付けた千晴の能力──
無限役割
「その場で求められる役割になれる力」
……が、強く発現していただけ。
それは時に“過剰な愛”として現れ、
偽物のように見えてしまうのかもしれない。
千晴に必要なのは──
愛してくれる相手ではなく、
自分から“愛せる”相手。
その出会いは、すでに静かに始まっている。
いくつもの偶然が重なり、あと一年で千晴は運命の人に出会う。
──しかし今の千晴には、それを知る術もない。
分からない感情のまま、ただ──頬を濡らすことしかできなかった。
今回は、かなり濃い回でした。
バニー、乱入、温泉、告白――
表面的には刺激の強い展開が続きましたが、
このエピソードの本質はそこではありません。
一番書きたかったのは、
千晴の「自分なりの決着」です。
・第一彼女であるという余裕
・美由を受け入れるという選択
・それでもどこか冷静な自分への違和感
・「私は、心の底からは愛していない」と気づく瞬間
あの静かな朝の心境を、
皆さんはどう感じましたか?
強がりに見えましたか?
計算に見えましたか?
それとも、大人の選択でしょうか?
千晴は泣きました。
でも、取り乱さなかった。
それは成長なのか、
それとも本気になりきれていない証なのか。
作者としては、
あそこがこの旅行の一番の核心だと思っています。
ぜひ、千晴の“決着”についての感想を聞かせてください。




