【第03話-03】何度負けても、あなたを好きでいた ― 千紗が選んだ愛のかたち
※本話は千紗視点で過去を振り返る、関係性の転換点となるパートです。
また本作には
「大人向け要素を加筆した別バージョン」が存在します。
※感情描写重視で読みたい方は本作を、
より踏み込んだ描写を求める方はノクターン版をおすすめします。
【Scene08:涙のあとに、朝が来る】
夜明け前の空は、ほんの少しだけ白んでいた。
人気のない住宅街を、ふたり並んで歩く。
まだ眠る街の匂いと、早朝の静けさ。
昨日のカラオケの余韻も、優香の涙も、もうどこか遠くの出来事のようで。
「……ねえ、千紗」
ぽつりと、優香がつぶやく。
「私ね、明日から受験勉強に専念する」
ふと、立ち止まりたくなった。
でも、私は歩く速度を変えず、そのまま隣で聞き続ける。
「うん。そっか……もう、そんな時期だもんね」
私たちは高校三年生。
進学先は、もうずっと前に決めていた。
三人で一緒に通えることを前提に――やりたいこと、学びたいこと、学力、それらを全部考慮した結果、東京郊外にある大学を選んだ。
ただし、今のマンションからは遠い。
通えなくはないけれど、毎日は少しきついかもしれない。
そこは、合格してから考えようってことで話はついている。
「推薦、もう決まってるんだっけ?」
優香が少し皮肉っぽく笑う。
「ちぇ、自分だけ余裕だもんねー」
「違うし。……晴道と一緒に推薦受けただけだし。
ってか、あんたもA判定目前でしょ?」
そう、私は内申も模試の成績もほぼ完璧。
晴道も安定して上位キープしていて、ふたりとも既に推薦枠内。
でも、優香は……この前の模試では、まだB判定だったはず。
「……晴道のことも、大学受かってから、かな」
小さな声だった。
だけど、ちゃんと聞こえた。
「恋人同士になってから、ちゃんと勉強に集中したかったのかも。
だから焦って、あんなこと……しちゃったのかもね」
私はふと、ポケットの中のスマホを握りしめた。
まだ、時間はある。
取り返せるものも、きっとある。
「受かろうね、絶対」
「うん。……絶対」
そして、優香はぽつりと続けた。
「私、ちゃんと晴道のこと見てなかったのかも。
晴道の“本当”とか、“過去”とか、そういうの、ちゃんと聞こうとしなかった。
だから、晴道も言葉をくれなかったのかなって……」
私は、ちょっと驚いた。
いつもの優香なら、こんなに素直なこと、なかなか言わない。
「ねえ千紗」
「なに?」
「ありがとう、私にチャンスをくれて」
「……そっちこそ、ありがとう。信じてくれて」
「信じてはないよ?」
「ちょ、ひどっ」
ふたりで、くすっと笑う。
その瞬間、少しだけ――心が、ほどけた気がした。
そして、ふたりはまた、静かに歩き出す。
少し先にある朝の光を目指してす。
【Scene09:壊れかけた心、その奥に】
晴道の誕生日から、ちょうど一週間。
優香の様子は、驚くほど落ち着いていた。
あの日の朝、涙と怒りに震えていた彼女とはまるで別人のように。
髪をきちんと結び、ノートを広げ、授業中は真剣な顔で板書を写している。
……本当に、受験勉強に専念するつもりらしい。
私は、あの夜のことは何も言わなかった。
カラオケオールのことも、ホテルのことも、涙の理由も。
ただ、私たちは、並んで教室に座っている。
それだけで、十分だった。
けれど、何も知らないクラスメイトたちは、静かに噂をし始めていた。
「なんか、優香ちゃん、急にスイッチ入ったね」
「もしかして彼氏と別れた?」
「いや、違うよ。千紗たちとカラオケでオールしたらしいよ。あれで吹っ切れたんじゃない?」
私は、その噂を“それとなく”後押しした。
――優香は、模試の判定がBで伸び悩んでた。
――でも、この前カラオケでストレス発散して、気持ちを切り替えた。
――今はもう、受験モードに入ってる。
それだけ。
でも、その“だけ”で、優香の立ち位置は守られた。
優香の模試状況を知っていた数人の友人も「やっぱりか」と納得したようだった。
“ストレス解消して立ち直った”という物語は、噂としてはちょうどいい。
ただ――それは、誰も真実を知らないからこそ成立する美談だった。
問題はもうひとり。
晴道だ。
私は、放課後のファストフード店で、晴道を呼び出した。
時間を少しずらして、人の少ない時間を狙ったのに、心なしか店内は騒がしい。
ポテトをつつくふりをしながら、私は切り出す。
「ねぇ……優香と、あの夜、何があったの?」
晴道はちょっとだけ眉を動かした。
でも、すぐにいつもの無表情に戻る。何も考えてないような顔。
でも私は知ってる。それは、何も考えていない人間がする顔じゃないって。
「……教えてよ。私、あの夜、優香のアリバイ作りにめちゃくちゃ協力したんだよ?
ちょっとくらい聞く権利、あると思うけど」
わざと軽く言ってみたけど、たぶんズルい言い方だった。
でも、本当に知りたかった。あの夜、優香の心をあんなふうにぐしゃぐしゃにした理由を。
晴道は、しばらく黙ってた。
紙コップのアイスティーを一口飲んで、カップをテーブルに戻してから、ぽつりと言った。
「……ラブレター、もらったんだ。優香から。すごく情熱的だった」
「うん、それは聞いてる。で?」
「それ読んで……ああ、俺、優香を“だいて”あげなきゃって思ったんだ」
……え?
今、何て言った?
「それで……そのまま誘われるままにホテル入って。
テレビとか見てるときは、普通に話せたんだ。笑えたし、優香も楽しそうで」
晴道の声は、どこか遠くを見てるみたいに、淡々としていた。
「でも……いざ、優香と向き合った瞬間。
急に、何も言えなくなった。
何か言わなきゃって思ってるのに、言葉が出てこない。
頭は真っ白になってて……優香が泣いてても、俺、声ひとつかけられなかった」
私は、言葉を失った。
晴道のその話は、どこか現実味がないというか、私の知ってる晴道と違いすぎて。
……いや、ちがう。
これが、本当の晴道なんじゃないの?
「それで、帰ってきた優香は……あんな顔してたのね」
私はポテトを一本、口に放り込む。
塩の味なんてしない。
でも、何か噛んでいないと、泣きそうだったから。
「……晴道、あんた、今も苦しいの?」
晴道は、少しだけ目を伏せて、小さくうなずいた。
私は、このとき確信した。
晴道は、もう壊れかけてる。
でも、それを自覚してない。
そして――優香も、まだ気づいてない。
【Scene10:沈黙のキス、声なき愛】
晴道とのファストフード店での会話の後、私はまた、彼の部屋を訪れるようになった。
……優香への罪悪感は、正直に言えばあった。
けど、それ以上に――今の晴道は放っておけなかった。
彼の声、彼の目線、彼の無言の苦しみ。
あの沈黙の奥にある何かを、私は知りたかった。
「おじゃましまーす」
「……あぁ」
そんな他愛もないやりとりから始まる時間。
ゲームをしたり、テレビを見たり、コンビニスイーツを分け合ったり。
……見た目だけなら、本当に普通の時間だった。
でも――ふとした沈黙の瞬間、晴道は私にキスを求めてくる。
私は、拒まなかった。
そのキスは、変わらず情熱的だった。
唇が触れ合うたび、まるで彼の奥底にある“なにか”がこちらへ流れ込んでくるような感覚。
舌の動き、息づかい、肌に触れる手の温度。
すべてが――私の理性を、簡単に溶かしていった。
罪悪感なんて、気づけばどこかへ消えていた。
いや……消していた、のかもしれない。
私は、彼とのキスにはまっていった。
時には、自分からも仕掛けるようになった。
「ねぇ、晴道……キスして。私のこと、好きなんでしょ?」
それは晴道から決して聞けない言葉。
でも、そう囁くと彼は静かに微笑んで、唇を重ねてくれる。
それだけで、私は幸せだった。
時には、彼の手が私の胸に触れることもあった。
でも、それはいつも“確かめるように”そっと触れるだけで、深くは踏み込んでこなかった。
――私は、もっと許せるのに。
むしろ、求められることが嬉しかった。
欲しいと思われることで、私の価値が証明されるような気がしたから。
そんな逢瀬を、何度繰り返しただろう。
ある日、私はふと気づいてしまった。
晴道は――キスの最中、一度も“声”を出していない。
キスの前も、キスの後も。
私に応える言葉も、囁きも、笑い声さえも……何ひとつ、なかった。
まるで、彼の声だけが、世界から切り取られてしまったみたいに。
――一体、いつから?
私は、あんなに晴道に求められていたのに。
あんなに愛されていると思っていたのに。
……私は、彼の“本当の姿”を、見ていなかったのかもしれない。
欲しかったのは、キスじゃなかった。
触れられることでもなかった。
欲しかったのは、“彼の心”だった。
けど、晴道の中には、それを届けるための何かが――もう壊れてしまっていたのかもしれない。
「晴道……」
私は、ゲームに熱中している彼の横顔を見つめながら、声には出せない言葉を呟いた。
……あなたは、私のこと、本当に“好き”って思ってくれてる?
それとも、ただ――誰かを、壊れた心の奥で、求めているだけ?




