【第07話-03】恋と欲と日常のあいだ-千晴・和也
うまくいっているはずだった。
成績は悪くない。
周囲の評価も高い。
現場は回る。信頼も得ている。
それでも――
どこかで、何かが少しずつ削れていく。
“売れる相手にしか売れない”という噂。
“誰にも嫌われたくない”という本音。
社会の中で形を変え続ける少女は、
まだ自分の輪郭を掴めずにいた。
それぞれの夜が、静かに動き出す。
⸻
【Scene03:2年前6月】
⸻
高村不動産で、高橋千晴にまつわる噂が流れていた。
――「彼女は“売れる相手にしか”売れない」。
一見もっともらしいが、社内の評価軸は違う。
「買う気のない客にこそ“欲しくさせる”――それが営業だ」という空気がある。
ある日。
「先輩、ご教授いただきたいのですが」
「なんでしょう? 高橋さん」
「今、私が対応しているお客様ですが、まったく契約するつもりがないようです。角を立てずにお帰りいただくには、どうすればよろしいでしょうか?」
脇で聞いていたベテランが口を挟む。常にトップ争いの猛者だ。
「何を甘えたことを。見込みは“育てる”もんだ。押せば動く。俺がやる、見てろ」
「ありがとうございます。勉強させていただきます」
そこから、複数回の来店対応、内見手配、見積り差し替え、条件交渉……時間だけが費やされていった。
だが結局、契約はまとまらない。優秀な二人を長時間拘束し、成果はゼロ――痛い損失だった。
極端な例に見えて、千晴は早々と“諦める客”が多い。
理由は単純だ。
「一見の相手だとしても、無理に押して“嫌われる”のが怖い」。
――“誰からも好かれたい/誰にも嫌われたくない”という性向が、足をすくませる。
とはいえ、成績が悪いわけではない。はじめから買う意思のある客なら、千晴の誘導で話は滑らかに進み、双方が幸せな落着を見る。
だが社内の価値観では、やはり“押して獲る”ことに意味が置かれるのも事実だった。
やがて噂は蘭の耳に届く。
(万能でなくていい。向き不向きはある)
蘭はそう判断し、千晴を現場寄りの業務へ早めに回す決断をする。まずは小規模リノベから――さすがに先輩同行で。
⸻
うまく回った。
千晴はすぐに職人たちの信頼を得る。
“超美人だから”という下世話な興味や、“女だから”という斜めの視線は、数日のうちに消えた。要望の真芯を捉え、決裁を迷わせず、連絡は早く、約束は守る。気づけば、頑固親方までが彼女の味方になっていた。
それは、「現場が求める担当像」をいち早く掴み、自分をそこへ“合わせ切る”ことができた結果だった。
その日、誰も号令をかけていないのに、釘打ちのリズムが揃い、声出しが増え、作業が前へ前へと滑っていく――「千晴さまが見てるぞ」の冗談ひとつで、現場の手が二倍になったみたいだった。
そして、現場が変われば出入り業者も変わり、求められる現場担当の質も変わる。
だから、ある業者には評判でも、別の業者には合わない――それが普通だ。
しかし千晴は“自分を変える”ことで、どんな業者にも好かれる側に寄せてしまう。
「彼女を連れていくだけで、仕事が何倍も早く終わる」
先輩たちは口をそろえる。多少の“身びいき”を差し引いても、“千晴がいるだけで現場が整う”のは、もはや現象だった。
これもまた――”運命改竄の魔女”の力なのだろうか。
ただ、その“うまくいき過ぎ”は、静かに彼女を削っていく。
現場ごとに“自分を変える”負担は大きすぎた。
夕食の席で笑顔が減り、家族の会話に付いてこないことが増える。
高橋家には新参の姉・美晴の彼氏、坂下亮太でさえ「最近、千晴さんの様子がおかしくないですか?」と口にした。
千晴は、疲弊し始めていた。
⸻
千晴が疲弊し始めたある日、新倉南から誘いがあった。
「今度の土日、私の誕生日パーティーやるの。来てくれない? 花音、美由、由美も来るよ」
あの“4人の夜”が脳裏をかすめ、千晴は一瞬だけ身構える。だが人数もいるし、休日の都合もつく。
(会社の定休は水曜だけど、現場は日曜が休み。私の休みは土日か日月に振ってもらっているし……)
千晴は参加を伝えた。
⸻
待ち合わせ場所には、すでに花音・美由・由美が揃っていた。
「久しぶり!」
3月まで里の定例会で顔を合わせていたはずなのに、もうずいぶん会っていない気がする。
「千晴姉さん、疲れてますか?」花音がすぐに気づく。
――さすが花音。雰囲気も、春までの“ちょっとドジな妹分”から、役目に合わせてふっと変わっている。
(花音も、立場に応じて自分を変えられる。……私と似ている)
「うん、大丈夫。少し疲れただけ」
ここで求められるのは、出会った頃の“明るくて少し強引なお姉ちゃん分”。だが、今日は少しだけ上手く演じられていない気がした。
「美由と由美も、久しぶり!」
「う、うん、久しぶりだね」
美由の目が一瞬だけ泳ぐ。違和感を覚えたところで――
「やあ、千晴。久しぶりだね」
和也に声をかけられ、その違和感は意識の片隅へ追いやられた。
そして“今カノ”が現れる。
「みんな、来てくれてありがとう!」
眼鏡っ娘の新倉南は相変わらず愛らしい。隣には初めて会う女性がいた。
かなり年上のようだが、新倉南の古くからの親友と紹介される。
「高橋千晴さん、はじめまして。高倉南です」
その名前が告げられた瞬間、美由・由美の肩にわずかな緊張が走るのを、千晴は見逃さなかった。
「高倉さん、彼氏は来られないの?」
「うん、仕事が忙しいみたいで」
「残念。千晴にも会わせたかったのに」
和也・美由・由美――三人の目に微かな動揺。
(……何かある)
けれど、場の空気は壊したくない。知らないほうがいいこともある。千晴は笑って流した。
⸻
会場はホテルのパーティールーム。ルームサービスで整えた“ホームパーティー風”のしつらえ。
テーブルにはフルーツタワー、氷のバケットに冷えたスパークリングが並び、テラス越しに夜景がちらつく。
予算は基本、和也持ち。もっとも霞の里メンバーの旅費は花音が出し、この会場費も花音が“かなり多めに”負担しているらしい。
会話は華やいだ。霞の宿の新別館は順調、素材選びの苦労話に笑いが起きる。
千晴も現場の話をする。クセの強い親方の武勇伝、急かさない段取りの効き目――気づけば皆がうなずいてくれる。
(癒やされる)胸の重さが、少しだけ軽くなった。
ひときわ盛り上がったのは、和也の報告だった。
「なぁ千晴。去年会った、うちの准教授、覚えてるかい?」
「忘れるわけないわ。あんな嫌な人、めったにいないもの」
千晴にここまで言わせる相手に、周囲が目を丸くする。
「いま、謹慎中。表向きは体調不良による長期休暇だけど、来春には依願退職になると思う」
「えっ、何があったの?」
「学部内の女の子に手を出してたらしい。しかも二人同時に、それで訴えられた」
「最低」千晴が吐き捨てる。
「いるいる、そういうセクハラオヤジ」美由も容赦ない。
「で、来年度から後釜探しになるんだけど……俺に打診が来てる」
「すごいじゃない、和也!」新倉南も初耳だったようだ。
「だからさ、『今のうちに学部内での信頼を勝ち取っておいてほしい』ってお偉方に言われてる」
「和也なら大丈夫。元カノが保証する」自然に言葉が出る。
「えー何それ。今カノ、嫉妬しちゃう〜」新倉南は笑って肩をすくめた。冗談の調子――どこまで本気か、千晴にもわからない。
「じゃあ、前祝いだね」由美がほぼ本気のトーンで言い、花音が「ご祝儀は要るのかしら」とからかう。
「「かんぱーい!」」と美由と由美は、今日も息がぴたりと合っていた。
⸻
夜が更け、花音が立ち上がる。
「ごめんなさい。私は最終の新幹線で帰らないといけないの」
「気をつけて」
ほどなくして、千晴も口を開く。
「私も帰るね。ちょっと仕事の疲れが残ってて……。美由、由美、またね。落ち着いたら里に行くから。南ちゃん、誘ってくれてありがとう。おかげで気が晴れたわ。高倉南さん、お会いできて嬉しかったです」
新倉南が、和也を見て頷く。
「ねえ和也、千晴のこと送ってあげて。もう遅いから」
「わかったよ、南。俺もおいとまする」
「うん、千晴さん。和也、貸してあげる」
「ありがとう。ちゃんと返すから、心配しないで」
そんな軽口が、今は言える。
エレベーターの前で、高倉南がふと微笑んだ。
「ほんとは――今日、会わせたかったの」
千晴は意味を取れないまま、扉は静かに閉じた。
⸻
タクシーの中。
隣に座った和也が口を開く。
「……無理、してないか」
千晴は数秒だけ黙り、窓の夜景を追う。
「……さすがに、してるかも」
それ以上は言わない。和也が運転手に行き先の変更を告げ、車線が夜景の濃い方へと静かに移った。
和也がそっと手を取る。千晴は何も言わなかった。
そして彼女は知らなかった。
自分がホテルを離れるのを、影で見届けた男がいたことを。
その男は、ほどなくパーティールームの扉の陰に姿を消す――大杉達也。
彼は自らの意志で千晴と顔を合わせない道を選んだ。
逆らえないはずの高倉南の「会わせたい」という願いにさえ、あえて背を向けて。
⸻
「達也、遅ーい」新倉南が笑う。
「鉢合わせしなかった?」高倉南が確認する。
「ああ、大丈夫だ」達也が短く答えた。
美由と由美は、どこか読めない表情を交わし合う。
「達也さん、南のお願いを叶えてくれなかった分、埋め合わせはしてくれますよね?」
高倉南の目は笑っていない。
「ああ、覚悟してる」達也は視線を落とす。諦念か、これからの夜への覚悟か。
「四対一、だね」美由がぽつり。
その一言に、達也の肩がわずかに強張った。
「今はまだパーティーを楽しみましょ。次のお楽しみは、そのあと」
新倉南の声音は、もう色を帯びている。
(……俺、和也の援護もなしに、生きて帰れるか?)
達也は苦く笑うしかない。
それでも腹を括っていた――あの場で“会わせる”という高倉南の願いに背を向けてでも、「自分にはもう千晴に会う資格はない」と。
(和也、千晴のことは任せた)
隣にいない戦友へ、心の中で小さく告げる。
⸻
タクシーは郊外のホテルの車寄せで停まった。
和也の手は強引ではあったが、乱暴ではない。千晴も、拒まなかった。
部屋に入るなり、千晴は和也の胸に飛び込んだ。
「……ごめんなさい」
「どうした」
「私ね、“誰にでも好かれていたい”の。誰かに嫌われるのが、怖いの」
和也は黙って抱きしめ、背を撫でる。
「だから、和也と付き合ってたときも……他の人からも好かれたくて」
「……」
「和也だけを特別視できなかった。――私、多分、“誰かを本当に愛する”って、できないの」
「知っていたよ」和也の声は、ただ優しかった。
「千晴が俺を愛そうとしてくれていたことも、“誰にも嫌われたくない”気持ちに挟まれて苦しんでたことも。……俺は、それを見るのが辛くて、逃げた。悪いのは俺だ」
千晴は目を見開く。
(和也は、そんなに前から――)
自分の輪郭をようやく言葉にできたのは、つい最近だ。
それなのに、この人は三年前から、受け止める準備をしていたのだ。
「ごめんね。社会に出て、やっと分かったの。私、自分がないの。子どもなの」
「……」
「四年前、花音に“全部、私のわがまま”って言ったけれども、違った。私は、周りに“こうあってほしい”って望まれたら、そうなろうとしてるだけ。そこに“私の希望”はほとんどない。夢なんて、なおさら」
和也は目で促す。
「さっき“私が和也を愛そうとしていた”って言ってくれたけど、それだって、和也が愛してくれるから“それに応えようとしていた”だけ」
涙がこぼれる。
「そんなの、愛じゃない」
「そうかな。愛なんて、形はいろいろでいい」
「え……」
「俺は南と、あんな始まり方をしたけど、ちゃんと愛してる。……それでも、千晴のことも、今でも愛してる」
「私たち、どこで間違えたのかな」
「間違ってないよ。千晴にとって“みんなに好かれること”が大切だった。ただ、それだけ」
「……もし、和也から告白される前に、私が先に和也の良さに気づけてたら。私から好きになってたかも、愛していたかも」
苦い“もし”は、過去を変えない。
和也は静かに頷いた。
「……それでも、もう少しだけ、一緒にいてくれる?」
昨年、千晴が達也に言ったのと同じ言葉。
千晴は思う
『なんて自分勝手で、ずるい
和也が自分を愛してくれても、自分は――自分の“愛”をまだ許せない。』
「いいよ。俺で良かったら、今は支えになる。いつか千晴が“自分から”本当に好きな人に出会えるまで」
「でも、南ちゃんは」
「あいつは分かってる。今日だって、こうなるって承知で、俺を送り出した。――だから俺は約束通り、南を“いちばん”にする。それで千晴の傍にいる。……それで、いいかい?」
「何それ、焼けちゃう」
千晴は和也の首に腕を回し、そっと口づけた。
「私がちゃんと大人になれるまで――少しの間、支えててくれる?」
その瞬間、和也は確信した。
それに長い時間は要らないだろう、と。
それでも今は、この美しい少女を愛していよう。
たとえ刹那の恋だとしても、今を大切にしよう。
「いいよ。おいで」
二人の間の距離がなくなり、今は離れようとしなかった。
⸻
同刻・パーティールーム
沈黙を破ったのは、一番年少の新倉南だった。
「……始めましょ」
3対1という歪んだ営みは、朝まで続いた。
⸻
同刻・ホテル
和也と千晴の深いキスは、永く、永く続いた。
(心が通じ合ってる)
千晴は、はっきりと実感する。刹那のつながりかもしれない。それでも今は、ただ寄り添っていたかった。
“仙台の夜”とも、“あの四人の夜”とも違う。
興奮や衝動ではない――別の、静かな確かさ。
千晴は不思議なほど、落ち着いていた。
二人はきちんと服を脱ぎ、浴室へ。
湯を張るあいだ、背中を流し合う。
(和也が私の元を離れてからの達也との営みも、再開した和也との関係も――私はいつも焦っていた。早く繋がっていたくて、繋がっている間だけは孤独じゃないと信じたくて。でも今日は違う。心が繋がっているって、分かるから)
湯船では言葉少なに寄り添う。
静かな時間が、二人を満たしていった。
湯から上がった後の営みは、千晴にとって“二度目の初めて”だった。
――いいや、“心が繋がっていると実感できる”という意味では、ほんとうの初めて。
そのとき流れたのは、初々しい証ではなく、温かい涙だった。歓びの涙。
やがて二人は、心の底から一つとなり
千晴は久しぶりに心から休まる眠りについた。
⸻
パーティールームの朝
お肌つるつるで大満足の女性陣四人と、出涸らし状態の達也。
「ねえ、また呼んでくれる?」と美由
「う、うん……まあ、たまになら」と南
――前回と、まったく逆のやりとり。
達也は(今日が日曜でよかった……)と、心底思いながら、しばらく動けなかった。
⸻
同刻・ホテル
和也が目を覚ますと、腕の中に千晴がいた
和也はそっと優しく抱きしめる
二人の“刹那”は、もうしばらく続いていく。
⸻
逆の朝を迎えた二組。
それでも日常は等しく流れる。
想いは、それぞれの胸の内に。
エピソード41までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は千晴の揺らぎと、和也との時間を描きました。
派手な出来事よりも、
言葉にしきれない感情のほうが大きかった回かもしれません。
和也は多くを語りません。
それでも、彼の選択には必ず理由があります。
今はまだ、それがすべて明らかになる段階ではありません。
この先しばらく、物語は和也を軸に進んでいきます。
静かで、優しくて、少し切ない時間が続きます。
どうか見守っていただけたら嬉しいです。
次回、
それぞれが、
それぞれの場所で“幸せ”を抱いていた頃の物語。
交わらないはずだった時間が、
わずかな偶然によって、静かにすれ違う。
誰も気づかないまま残された一枚の記録が、
やがて巡り巡って、思わぬ波紋を生む。
守られていると思っていた均衡は、
本当に盤石なのか。
次回もお付き合いいただければ幸いです。




