【第02話】恋は、ずっと前からここにあった ― 優香の胸の奥、秘めた想い
※本話には、心理描写を伴う大人向け表現が含まれます。
── 氷室 優香 ──
【Scene01:午後のカフェ、すれ違う心の気配】
「観覧車に行く前に少し休みましょうか」
花音の提案に、誰もが小さくうなずいた。
動物園をたっぷり堪能した一行は、園内併設のカフェに足を向けた。午後の休憩にはちょうど良い時間だったが、平日ということもあり、店内は静かだった。
「そうだね、喉も渇いたし」
晴道が素直に答える。彼の声が、妙に耳に優しく届いてくる。
四人で窓際のテーブルにつき、注文を済ませると、それぞれが思い思いの時間を過ごし始めた。スマホをいじる者、メニュー表を眺める者、ただぼんやりと外を見つめる者。
優香はふと、晴道の左手首に視線を落とす。
黒のレザーバンドにシンプルな文字盤――それは彼が「ここぞ」というときにだけ身につける腕時計。
そして今日、その腕時計は、彼の手首に確かにあった。
……やっぱり、つけてきたんだ
その腕時計は、彼が高校二年生の誕生日に、優香が贈ったものだった。
高価なものではなかったけれど、バイト代とお年玉をつぎ込んで選んだ、大人びたデザインの一品。
今も彼の部屋の机の上に飾られていて――特別な日には、そっと手に取られる存在だった。
優香は、柔らかな視線でその腕時計を見つめながら、そっとまぶたを閉じる。
記憶の奥にある、いくつもの“初めて”が、今も胸の奥を離れない。
そして、過去のあの日へと、彼女の心は静かに潜っていった。
【Scene02:最初の出会い、最初の喪失】
幼稚園の年長組。
卒園まで半年を切ったある日、ひとりの転園生がやってきた。
見慣れない制服。さらさらの長めの髪。優しげな顔立ち――
一瞬、女の子だと思った。でも先生の紹介でそれが間違いだと知る。
「こいずみ はるみち君、今日から皆の仲間になります。仲良くしてあげてね」
「はっ、はるみちです。よっ、よろしくお願いします……」
消え入りそうな小さな声。
クラスの中心にいた“たけしくん”が、すかさず茶化す。
「なんだよ、なよっちいな。女みたいじゃねーか!」
「こら、たけしくん。そんなこと言ってはいけません!」
先生の注意にもかかわらず、その瞬間、晴道の立ち位置は決まってしまった。
かわいそう……
彼の頼りなげな横顔を見たとき、優香は思った。
私がこの子の“初めての友達”になってあげよう――
その気持ちは、今振り返れば、小さな“初恋”だったのだと思う。
けれど――
その想いは、あっという間に踏みつけられる。
朝のあいさつが終わり、最初の工作の時間。
手持ち無沙汰にしている晴道に声をかけようと、優香が近づこうとしたそのとき――
「はるみち、すごいね! 同じ幼稚園で同じクラスなんて、奇跡だよねっ!」
千紗が駆け寄ってきて、彼の手を握って笑った。
「ちさ……どうして、はるみち君を知ってるの?」
思わず聞いた優香に、千紗は自慢げにこう言った。
「はるみちは、あたしの部屋のすぐ上に引っ越してきたのよ!」
その瞬間、優香の胸に、鈍い痛みが走った。
同じマンションに住んでいるのに――いや、自分の部屋は晴道と同じ2階、別フロアの千紗よりずっと近い。たった二つ隣の部屋なのに。
なんで……なんで、私じゃなかったの?
あとから知った。
小泉家は、騒音の心配から真下の如月家を含む3軒にだけ挨拶に行き、その時に千紗が同い年だと知って、「仲良くしてほしい」と頼んだのだと。
それが、最初の“喪失”。
それ以来、どれだけの“初めて”を、彼女は千紗に奪われてきたのだろう。
そして今、カフェのテーブル越しに、その“彼”は、別の女性と親しげに会話している。
もうひとりの“ライバル”――花音さんと。
優香はそっと、膝の上で拳を握りしめた。
そしてまた次の記憶へと捕らわれる
【Scene03:優しさの中に沈んだ唇 ― 初めてのキス】
小学校二年生のある日。
秋の風が少し冷たく感じる放課後、教室の隅で――それは突然だった。
「晴道、ねえ聞いて。パパとママがね、愛し合ってる人はキスをするんだって。」
千紗が、得意げにそんなことを言い出した。
なにそれ……急にどうしたの?
優香が戸惑っている間にも、千紗はつま先で晴道に近づき――
「だから、私たちもしようよ。だって、晴道は私のこと、好きでしょ?」
言い終える前に、もう彼の唇に自分の唇を重ねていた。
一瞬、教室の空気が止まったように思えた。
晴道の目が大きく見開かれ、千紗は満足そうに笑った。
「ねえ、優香も晴道のこと、好きだよね?」
不意に向けられた言葉に、心臓が跳ねた。
「だったら、優香もキスしてみてよ」
そう言われた瞬間、逃げたくなった。
でも――
(負けたくない)
それが正しい理由じゃないことはわかっていた。
けれど、その気持ちが優香の背中を押した。
ぎこちなく歩み寄り、まだ何が起きているのか分かっていない晴道の前で、そっと背伸びをして――彼の唇に、自分の唇を重ねた。
ほんの一瞬。
でも、たしかにそれは“初めて”だった。
ただ――晴道にとっては、“2番目”のキスだった。
その事実が、いつまでも胸に刺さり続けた。
【Scene04:ぬくもりに宿る想い ― 初めての手作りプレゼント】
小学校五年生の秋。
晴道の誕生日が近づき、優香は胸を弾ませていた。
(今年は、手作りのものを贈りたい)
学校で習った編み物。時間をかけて、何度も解いて、練習して――
ようやく渡せるかもしれないと思えるものになってきた。
でも、ある日、千紗が言った。
「今年の晴道への誕生日プレゼントだけれど、ごめんね、ちょっと早くなっちゃったけど、あたしは手作りのものを渡したから。優香も、今年は一人で何かあげてね」
一瞬、時が止まった。
「えっ……」
言葉が出なかった。どうして、相談してくれなかったの?
毎年ふたりで一緒に選んでいたのに。
でも、言い返せなかった。千紗の“先手”に、またしても負けた気がした。
……でも、やっぱり贈りたい
何日もかけて、毛糸で編んだマフラー。
少しだけ形は不格好かもしれない。でも、自分の想いは全部込めた。
誕生日当日、意を決してそれを差し出すと――
「……これ、手作りなの? うわ……優香、すごい! 本当にありがとう!」
晴道は、まっすぐな笑顔で喜んでくれた。
その笑顔だけで、救われたような気がした。
でも――
(千紗は、何をあげたんだろう?)
心の奥に、消えない影が落ちたままだった。
【Scene05:初めての手作りチョコ】
バレンタインデーが近づくと、毎年のように千紗と一緒に、合同のチョコレートを用意していた。
中学2年の冬も、当然そのつもりだった。ところが、千紗がこんなことを言い出した。
「私たち、もう中学生だよ? だったら、今年は手作りのチョコにしようよ」
正論だった。むしろ、今までよく市販のチョコで通してきたと思う。
「……異議なし。そろそろそういう年齢だもんね」
私は頷いた。だが、次の瞬間、千紗はにやりと笑ってこう続けた。
「どっちが先に晴道に渡せるか、競争だね!」
競争? 普通、どっちが美味しいか、どっちが喜ばれるか、そういうところじゃないの? でも――千紗のその言葉に、なぜか私の中に火がついた。
「……いいよ、勝負しようじゃない」
それからの私は、かつてないほど真剣にチョコ作りに向き合った。レシピを調べ、試作を重ね、本番用の材料を丁寧に選んだ。何度も手を火傷しそうになりながら、それでも自分なりの“最高”を目指して、チョコを仕上げた。
そして迎えた、バレンタイン当日の朝。
私は、晴道の家――208号室の2つ隣、206号室に住んでいる。
朝、登校前に立ち寄って、そのまま手渡す。それが最も自然で、最も有利な流れだった。
そう思っていた。
――けれど。
”たたたっ”
玄関前を、誰かが駆け抜けていく気配がした。
嫌な予感がして、慌ててドアを開けて廊下をのぞく。
ちょうど、晴道の部屋の玄関の前で、千紗が晴道に何かを手渡していた。
そして、千紗は顔を伏せて、足早にその場を離れていった。
千紗の顔は、真っ赤だった。
それは照れではなく、笑顔でもなかった。
泣き出しそうにさえ見えた。
私は、とっさに玄関のドアをそっと閉じた。
また……また千紗に先を越された
それでも、私は負けたくなかった。
あとを追うようにして、晴道の部屋を訪ねると、精一杯の笑顔を作って、差し出した。
「手作りだよ、頑張ったんだから」
晴道はびっくりした顔をして――でも、すぐに優しい笑顔で、何度も何度も「ありがとう」と言ってくれた。
その言葉が、どれほど嬉しかったか。
だけど――
(あたしのファースト手作りチョコは、晴道にとっては2つ目だったんだ)
胸の奥が、またひとつ、きゅっと痛んだ。
【Scene06:観覧車のキス ― 想いが届いた、そのはずだった】
高校二年の秋。
学校からの帰り道。
その日、晴道は部活で遅くなると言っていて、千紗と優香、ふたりだけだった。
夕日が傾く中、千紗がぽつりと呟いた。
「……あたし、晴道とデートしちゃったの」
その声は、どこか誇らしげで、けれど少し照れていて。
「デートって……幸せなのね」
その言葉が、優香の胸に、鋭く突き刺さる。
デート――その響きが、あまりに突然で、あまりに重たくて。
そのあと千紗が、どこへ行ったのか、何を話したのか、楽しげに語っていた……気がする。けれど、内容はまったく頭に入ってこなかった。
優香の心は、音もなく崩れていた。
……どうして、千紗ばかりが、晴道の“初めて”を奪っていくの?
それからしばらくして迎えた、晴道の誕生日。
優香は、ある“賭け”に出る決心をした。
「晴道……今年の誕生日、空いてる?」
そう言って誘ったのは、葛西臨海公園。水族館もあって、海風が心地よくて、ロマンチックな観覧車がある場所。
プレゼントは、長い時間をかけて選んだ腕時計。ゴールデンウィークに頑張ったアルバイトの給料の残りを全部使って――ようやく手に入れた、大人っぽい、落ち着いたデザインの一品。
あの子には真似できない……これは私だけの、想い
夕暮れのゴンドラ。空が茜色から紫へと変わる頃、ふたりは観覧車の中で向き合っていた。
「これ、晴道にあげたくて……」
そう言って渡したプレゼントに、晴道は心から驚き、そして微笑んだ。
「優香……ありがとう。すごく嬉しい」
そして――ゴンドラが、頂点に差しかかったその時。
彼はそっと、優香の肩に手を置いた。
そして。
「……優香」
名前を呼ばれて、顔を向けたその瞬間。
――キスをされた。
柔らかくて、あたたかくて、どこかぎこちない初々しいキス。
優香の胸が、爆発しそうになる。
……私のファーストキスは、小学校の時だった。でも
(晴道にとっては……もしかして、これが“初めて”だったりするのかな……)
そんな淡い期待が、心の奥で、微かに芽生えた。
でも、また――
また千紗が先だったのかもしれない、という不安も、同時に押し寄せる。
私の“初めて”は、晴道にとって、2番目なんだろうな……
そう思ってしまう自分が、悔しくて、情けなくて、苦しかった。
だけど、それでもいい。今この瞬間だけは、誰のものでもなく、私たちふたりのものだと信じたかった。
優香は、晴道の胸にそっと顔をうずめた。
(このキスが、ずっと続けばいいのに……)
そんな願いを、心の奥に隠しながら。
【Scene07:ラブレターの行方 ― 傷ついた心が重ねた夜】
高校三年の秋。
季節の移ろいとともに、街路樹が色づき始めた頃だった。
放課後の帰り道、ふたりきりになった瞬間――千紗が、ぽつりと告げた。
「あたし、晴道にラブレターをあげてね……抱いてもらったの」
その言葉が、どれだけの衝撃だったか。
優香は、その瞬間、息が止まった。
……え?
目の前が、真っ暗になる。
耳の奥で、誰かの笑い声がこだまするような錯覚。
(晴道と……千紗が?)
初めて、という言葉が、優香の中で大きく重くのしかかる。
子どもの頃から、いくつもの“初めて”を千紗に奪われてきた。
けれど、それでも――
“あれだけは”自分だけのものだと、どこかで思っていた。
(初めて結ばれる相手は、自分だって……)
淡い願いは、砂のように崩れた。
「……そうなんだ、すごいね」
そう返すのがやっとだった。声が震えていたことに、千紗は気づいただろうか。
優香は、悩み続けた。何日も、何週間も。
気持ちがぐちゃぐちゃになって、どうしたらいいかわからなかった。
でも、逃げるのはやめた。
彼が奪われたなら、私は私なりに、彼へ想いを届けたい。
そして――ラブレターを書いた。
自分の気持ちを、たどたどしく綴った、不器用な文章。
小さな封筒に、ぎゅっと詰め込んで。
その年も、晴道の誕生日にデートへ誘った。
場所は、去年と同じ、葛西臨海公園。
けれど、今回は少し違っていた。
夜まで、一緒にいたいと思ったから。
「千紗たちとカラオケでオールするから、今日は帰らない」
そう言って、両親には嘘をついた。
千紗は何も聞かず、淡々と協力してくれた。
実際、千紗は本当に女友達を集めて、カラオケでオールをしたらしい。
“アリバイ”として、完璧だった。
そして、優香は――
その夜、晴道と一緒にホテルに泊まった。
部屋に入ってからも、しばらくはぎこちなかった。
テレビをつけて、ごまかすように笑って。
コンビニで買ったドリンクを開けながら、どこか他人行儀な時間が流れる。
でも――
優しく抱きしめられた時、すべてが変わった。
震えるような指先、確かめるような視線。
心の奥まで届くようなキス。
そして、静かに、ふたりは結ばれた。
優香にとって、すべてが初めてだった。
痛みも、戸惑いも、恥ずかしさも、そしてなにより、幸福感も。
だけど――
心のどこかで、ずっと刺さっていた。
……私にとっては“初めて”でも、晴道にとっては“2人目”なんだ
本当は聞きたかった。
“本当にそうだったの?”と。
でも、怖かった。
もし本当だったら、立ち直れないと思ったから。
だから、訊けなかった。
ただ黙って、彼のぬくもりを受け止めた。
彼の優しさに、全身を委ねながら。
好き……大好きなのに。どうして私は、いつも一番になれないんだろう
その夜、優香は初めて、泣きながら眠りについた。
【Scene08:決意の輪郭 ― 心が震えたあの約束へ】
いつからだろう。
「晴道にとって、特別な存在になりたい」と願うことを、自分の中で禁じていたのは。
子どもの頃は、千紗の勢いに押されるのが当たり前だった。
あの子が先に声をかけ、先に手を握り、先にキスをした。
それでも、隣にいられるだけで十分だと思ってきた。
“特別”なんて、口にしたら壊れてしまいそうで。
そんなもの、望んではいけないと思っていた。
だけど、今の私は知っている。
千紗は、もうとっくに“ただの幼なじみ”ではない。
彼女は、自分の気持ちに正直になって、晴道に迫っている。
花音さんもそう。
年上の余裕をまといながら、それでも確かに、彼に向かって歩み寄っている。
私だけが――
ずっと、立ち止まったままだった。
何も言わずに、ただ笑って、そっと手を差し伸べて。
本当は、もっと近づきたかったのに。
……もう、我慢なんてしない
だって私は――
ずっとずっと、彼が好きだった。
笑う顔も、照れる仕草も、優しい声も、誰よりもたくさん見てきた。
なのに、何一つ“初めて”を掴めないまま、今に至ってしまった。
せめて――
“最初の彼女”になる、その想いだけは譲れない。
それだけは、誰にも渡したくない。
「……さっき、迷路で言いかけたのに」
思わず、唇が動いた。
花音さんに見つかって、全部が流れてしまったあの瞬間。
心の奥に残った“言えなかった言葉”が、今もまだ、胸の中で疼いている。
でも、まだチャンスはある。
観覧車。
あの密室で、ふたりきりになれる場所で――
必ず、伝える。
返事を、もらう。
私の気持ちを、全部、晴道にぶつけるんだ。
怖いけど。震えるけど。
それでも、もう後ろは見ない。
(行こう。これは、私の想いの全部――だから)
ゆっくりと、優香はカップに残った紅茶を飲み干した。
午後の陽差しが、淡くテーブルを照らしていた。
胸の奥、ずっとしまってきた想いが、今ようやく熱を持ち始める。
観覧車の扉が開いたら、そこは――もう、戻れない場所。
でも、それでい
私は、晴道の“一番”になる。
今度こそ、自分の手で、未来を掴みに行くんだ。
本作には
「大人向け要素を加筆した別バージョン」が存在します。
※感情描写重視で読みたい方は本作を、
より踏み込んだ描写を求める方はノクターン版をおすすめします。




