【第04話-07】宿がつなぐ、姉妹のような時間
送迎車が、霞の宿へと向かう。
支配人自らの運転。
隣には花音。
静かな車内に、わずかな緊張が混じる。
これから、彼女の実家に到着する。
その先に待つものを、
まだ私は知らない。
【Scene24:帰郷──霞の宿にて】
── 一ノ瀬 花音 ──
もうすぐ、霞の宿。
私の帰る場所。……同時に、私を運命に縛り付ける場所。
お姉様も一緒だし、笑って帰りたい。
けれど、今はまだ──それができそうにない。
爺やが運転する車が、別館の玄関前に滑り込む。
母様たちの騒ぎっぷりからして、本館に泊まるかとも思ったけれど……やっぱり、こちらね。
ドアが開いた瞬間、目に飛び込んできたのは──視界いっぱいに並ぶスタッフの姿。
ざっと二十数人。
見知った顔がほとんどで、新しく見るのは五、六人くらいだろうか。
普通のお客様でも行われる出迎えだけれど、
今日は──普段は表に出ない板場の人間まで、最前列に顔を並べている。
仲居頭を筆頭に、数人の仲居は私服姿。
非番なのに、わざわざ来てくれたのだろう。
葉月母様と、里見母様の姿もある。
ふと横を見ると、お姉様が完全に硬直していた。
その視線の先を追うと──
大きな横断幕が掲げられていた。
《若女将ご友人ご歓迎》
……これは、本館の玄関には確かに収まらなかったでしょうね。
思わず、ぷっと吹き出す。
さっきまでの陰鬱な気分が、すーっと消えていく。
……狙ってやったなら、きっと里見母様の仕業に違いない。
最近、私は人に助けられてばかりだ。
いや、今までも助けられていたのに、気づいていなかっただけかもしれない。
私の笑い声で、お姉様もようやく硬直が解けたようだ。
そのとき、不意に耳に入ったのは、控えの列にいた若い仲居たちのヒソヒソ声。
知らない顔。きっとアルバイトか、最近入った新人だろう。
「ねぇねぇ、噂の若女将って、どっちだと思う?」
「女将と番頭が『すっごい美人よ』って自慢してたから、背の高い方じゃない?」
……お姉様です、それは。
「私は胸の大きい方がいいな〜。バストアップの秘訣とか教えてくれそうだし」
“方がいいな”って何よ。秘訣なんて知らないわよ、勝手に育っただけなんだから……。
……あ。
気づけば、仲居頭が真後ろに立っていた。
無言の微笑み──怖すぎる。
これは後で、みっちり説教されるパターン。ご愁傷さま。
私はひと呼吸置き、正面に立つ女将と番頭に歩み寄る。
立ち位置を整え、深く一礼した。
「ただいま戻りました。
短い滞在ではありますが、ひととき“里”で過ごさせていただきます。
皆さまには、今後とも母──葉月女将ともども、お力添えいただけましたら幸いです」
ぴんと張りつめた空気のあと、拍手が広がる。
「おかえりなさい!」
「大きくなったなぁ」
「いやもう、立ち姿が若女将の風格よ」
「戻ってきてくれて、ほんと嬉しいよ、姫さま」
「やっぱり姫さまは違うなぁ……」
……そして。
「特に胸がな!」
……誰よ、今の。
横目で確認すると、板場の若い衆だった。
……後で覚えてなさい。
ふと隣を見ると、お姉様はにこにこ笑っていた。
そう。私にも、笑って帰れる場所があったんだ──。
── 高橋 千晴 ──
横断幕。あれはびっくりした。
気づいた瞬間、体が固まったけれど……花音の笑い声で、我に返った。
……教訓。
立てたフラグは、回収される。
その直後、聞こえてきた若そうな仲居たちのヒソヒソ声。
「ねぇねぇ、噂の若女将って、どっちだと思う?」
「女将と番頭が『すごい美人』って言ってたから、背の高い方じゃない?」
……コメントに困る噂話はやめて。
いや、嬉しいっちゃ嬉しいんだけどさ。
「私は胸の大きい方がいいな〜。バストアップの秘訣とか教えてくれるかもよ〜」
またここで“おっぱいに負けた”感じ?
……いや、勝ち負けじゃない。ないってば。
……あ。
私服の偉そうな人が、すでに真後ろに。
完全に“お説教される流れ”ですね、これ。
花音が挨拶を始めた。
「ただいま戻りました。
短い滞在ではありますが、ひととき“里”で過ごさせていただきます。
皆さまには、今後とも母──葉月女将ともども、お力添えいただけましたら幸いです」
……ぴん、と張った空気。
そして──拍手。
「おかえりなさい!」
「大きくなったなぁ」
「いやもう、立ち姿が若女将の風格よ」
「戻ってきてくれて、ほんと嬉しいよ、姫さま」
「やっぱり姫さまは違うなぁ……」
「特に胸がな!」
……またそこか。
花音が続けて、私を紹介してくれた。
「続きまして、本日は私の親友をご紹介したいと思います。東京の大学で出会いました、高橋千晴さんです」
……よし、“沈着なクールな大人の女性”を維持して、挨拶しよう。
「ただ今ご紹介にあずかりました、高橋千晴と申します。
花音さんとは、大学教授をしております父の紹介で知り合いました」
軽く花音の方を見て目を合わせ、再び正面に戻る。
「ご存じの通り、花音さんはアメリカで大学を卒業し、現在は博士課程目前。
それに比べて私は、大学に入学したばかりの一年生で、到底釣り合う者ではありません」
軽く首を振り、謙虚さを滲ませながら──
「それでも、そんな私にも花音さんは分け隔てなく接してくれました。
感謝の言葉もございません」
花音と視線を合わせて、微笑みかける。
「彼女と過ごしたこの一ヶ月は、私にとっても最高の日々でした」
少しだけ視線を上げ、遠くを見つめるように──
「そんな私を今、彼女は“親友”と呼んでくれました。……こんなに嬉しいことはありません」
……目に、涙がにじむ。
「彼女は、私にとっても大切な“親友”です。
短い間ではありますが、こんな私をよろしくお願いいたします」
そして最後に──最高の笑顔で、少し首をかしげてみせた。
……沈黙。
それを破ったのは、いつの間にか輪に加わっていた林支配人の拍手だった。
それを合図に、割れんばかりの拍手が起こる。
女将と、番頭の里見さんと思しきふたりは──
手を取り合って、涙を流していた。
……ちょっと、演出効きすぎた?
「若女将に、こんな素晴らしいお友達ができていたなんて……」
「姫さま、よかったねぇ」
「姫さま、嬉しそうだったね」
「姫さまを末永く、よろしくお願いいたします!」
……いやいや、私プロポーズしたわけじゃないんだけど。
と思って見れば、さっき「特に胸がな」と言ってた若造だった。
……さっきも思ったけど、花音って本当に、愛されてるんだな。
横を見ると──花音も、泣いていた。
林支配人が一歩前に出てくる。
そして私の手を取り──涙ぐんだ目で、静かに言った。
「私たちの姫のことを、どうかよろしくお願いいたします。ずっと友達でいてやってください」
「……もちろんです」
そう応えると、林支配人がそっと耳元に顔を寄せた。
「貴女のその力は、人を幸せにできる。もっと……磨きなさい」
……その声は、誰にも聞こえないように、そっと……。
私は、小さくうなずいた。
「……はい、わかりました」
【Scene25:迎えられる者として】
── 高橋 千晴 ──
盛大な歓迎セレモニーが終わった。
さっきの私服の偉そうな人が、拍手が落ち着くのを見計らって声を張る。
「はいはい、片付けて。お客様が来るまで時間ないよー」
私服ってことは、非番のはずなのに……完全に仕切ってる。
そのとき、花音がそっと耳打ちしてくる。
「お姉様、あれは仲居頭です。非番なのに助かります」
あの横断幕も、当然ながら取り外されるらしい。
……滞在中ずっと掲げられてたらどうしようかと思ったよ。
でも、よく考えたら、この“一瞬のため”に用意してくれたんだ。
布地は上質、筆跡は達筆……たぶん印刷じゃない。
いや、きっと気のせい。そういうことにしておこう。
……ずっと後で花音から聞いた話では、あの横断幕、五万以上かかってたらしい。
布に本物の筆書きで、しかも表具屋に頼んだとか。
やがて花音は、先ほど涙を流していた二人の女性を連れてきた。
「こちらが女将──私の母様です」
三十代前半にしか見えない、凛とした美しさをまとった女性。
「私が花音の母、葉月と申します」
綺麗な名前。イメージ通りだ。
優しい笑みを浮かべながら、私の手を取る。
「先ほどのご挨拶、胸に深く染み入りました。
花音──私の大切な娘を、本当によくしていただいてありがとうございます」
その目には、まだ涙の跡が残っていた。
「私は……仕事の忙しさを言い訳に、この子に母親らしいことを何ひとつしてあげられなかったんです」
その表情は、静かで──けれど深い後悔を湛えていた。
「小さなころから友達の一人もつくれず……そのままアメリカに渡って、ずっと一人にさせてしまった」
けれどこの一ヶ月、電話やメールでとても嬉しそうに伝えてくれたという。
「お友達ができた、こんな所に行って楽しかった、と。
母として──これ以上に嬉しいことはありません」
葉月さんは私の手をぎゅっと握りしめる。
「本当に、ありがとうございます」
また、涙を流していた。
……その後ろにいたのは、優しさのなかに真の強さを感じる女性。
「こちらは、橋本里見。番頭としてこの宿を取り仕切ってくれています。そして私の“里見母様”でもあります」
花音が微笑む。
「葉月母様と同い年で、同じ誕生日なんですよ。……私たちみたいですね」
そして──こっそりと耳打ち。
「ちなみに、あの横断幕は……たぶん里見母様の仕込みです」
……やっぱりね。きっと、花音の気を紛らわせるため。
もちろん、私のためでもあるのだろうけれど。
「千晴様、ようこそお越しくださいました」
里見さんが、私の手を取る。
どこかで見たような──母性に満ちた、温かい眼差し。
「葉月様と私は、同じ日に同じ里で生まれ、まるで双子のように育ちました。
そして、ほぼ同じ時期に子どもを授かったのですが……私の子は、花音様が生まれる直前に死産となりまして」
言葉を選びながら、語ってくれる。
「女将として多忙な葉月様を支えるため、私は“乳母”として名乗り出たのです。
以来、姫様を我が子のように育ててまいりました」
「でも、私の子も女の子でしたから、もし生きていれば姫様と“まるで双子”のように育ってくれたのでは……と、ずっと思っておりました。
そして……千晴様が“姫様と同じ誕生日”と聞いたとき、本当に身勝手なのですが……神様が我が子の代わりに遣わせてくれたのかも、と思ってしまい……」
……里見さんは、そのまま泣き崩れてしまった。
私は、もらい泣きをしてしまい、迷わずその肩を抱き寄せた。
「お母様、大丈夫です。
私が……花音の傍にいます。
私が、花音を支えます。これは……私が“そうしたい”と思ったことです」
涙を拭きながら、強く語った。
「だから、泣かないでください」
ふと見ると──花音が呆然とした顔をしていた。
……この話は、花音も知らなかったのだろう。
しばらくして、里見さんはようやく落ち着き──
「ごめんなさい。……よろしくお願いいたします」
それだけ、静かに言った。
……後で聞いたところによれば、葉月母様と里見母様の誕生日は“来週”だとか。
だから帰りの新幹線は別々だったんだね。
ゆっくり親孝行をしてほしいと思った。
続いて、花音がもう一人の女性を紹介する。
「こちらは、高橋冬美さん──仲居頭を務めてくださっています」
私と同じ苗字で、ちょっと驚いた。
「私が幼い頃から、母様や里見母様の代わりに、現場を取り仕切ってくださっていて……
この宿の“空気”を支えているのは、間違いなく彼女の力です。
私にとっては、ちょっと怖い“もうひとりの母様”のような存在ですけれど」
……母親が三人。花音は、本当に“この里”に育てられたんだなと思った。
「こんな日に非番なんて、私は運がいいんだか悪いんだか……
でも、こんなに心から歓迎したいお客様は初めてですよ」
私服の里見さんはニッコリと笑ってくれる。
私はその笑顔に応えて、自然と微笑み返す。
「苗字が同じ“高橋”なので、とても親しみを感じます。
短い間ですが、よろしくお願いいたしますね」
私がそう言うと、さっきヒソヒソ話をしていた若い仲居たちが、冬美さんに押し出された。
「はいはい、お前たち。言わなきゃいけないことがあるでしょ」
「この春、高校を卒業して就職した新人たちなんです」
……同い年なんだ。
「あ、あの……私たち、“お姉様”のファンになっちゃいまして……!」
冬美さん、顔に手を当てて「あちゃー」って顔してる。
うん、“お姉様”ってお客様に言うのは、ちょっと違うよね。
もう一人の子も、勢いで言ってくる。
「私たちに、お姉様のお世話をさせてください!」
「はいはい、だーめっ!」
冬美さんがぴしゃり。
「あなたたちは、言葉づかいからやり直し。今日からまた、お掃除だけ!」
……連れて行かれる二人に、私は小さく手を振った。
……冬美さん、厳しそうに見えて、めっちゃ慕われるタイプ。
あの二人を見ていれば、すぐにわかる。
「こちらは、うちの板長──橋本猛さんです。
ずっと霞の宿の“味”を支えてくださっていて……正直、私よりずっと“この宿らしい”人です」
里見さんのご主人かな、と思っていたら──
「先ほどは、妻が失礼しました」
……やっぱり。
「俺からも、礼を言いたい。
けど、俺は話すのが苦手だ。だから──感謝の気持ちは、料理に込める。期待しててくれ」
……ぶっきらぼうだけど、熱い人だ。
でもきっと、里見さんにはでれでれなタイプ。
みんな、優しい人たちだ。
私の挨拶、あんな短くて簡単だったけれど──
……少しでも、皆さんの心を温かくできたのなら、嬉しい。
ふと、林支配人の言葉が脳裏に浮かぶ。
『貴女のその力は、人を幸せにできる。もっと……磨きなさい』
……私は、まだまだ未熟で、自分のためにやってることばかりだけれど。
それでも、誰かが幸せになってくれるなら……
きっと、それでもいい。
【Scene26:Intermission(驚愕)】
── 高橋 千晴 ──
花音はまだ皆と話すということで、私はひと足先に部屋へ案内されることになった。
付き添ってくれるのは、さっき泣いていた番頭の里見さん。だけど、今はすっかりきりっとした顔に戻ってる。さすがプロ。
「こちら、別館の大浴場です」
通路の途中で指し示されたその建物は、重厚で品のある造りだった。
外に出ると、向こう側の新しい棟を指してくる。
「あちらが新館です。あちらの大浴場もご利用いただけますので、後ほどご案内いたします」
ふむふむ。あれが新館か。
たしか、あの棟って……花音が出たあとに完成したんだっけ。
今夜あたり、一緒に案内してくれたりするのかな。
そうやって少し緊張が和らいできたところで──
そのまま案内されて辿り着いたのは、ちょっと古めかしいけど風格のある建物だった。
……ん? これはもしや……本館?
えっ、まさか、まさかね。
でも、もし泊まれちゃったりしたら──
ちょっと……緊張しちゃうな。
「こちらへ」
そう言って、里見さんが長い渡り廊下をすたすたと進んでいく。
私はと言えば、なぜか妙に胸がドキドキして、なんだかすごい場所に案内されている気がしてきて──
そして──たどり着いたのは、まさかの離れ。
離れの……特別室!?
え、えええっ!? ここって……ここって、あの──
皇室御用達って聞いたことのある、例の、あの部屋じゃない!?
私なんかが、こんなとこ入っちゃっていいの!?
そして──その前には、しれっと立っていた。
あの、見覚えのある立て看板が。
「若女将ご友人 高橋千晴様」
……え?
……ええええ!?
まって、これ──よくテレビで見るやつじゃん!?
『秋篠宮両殿下 ご宿泊予定』とか、
『宮内庁関係者御一行』とかって、木札に達筆で書かれてるアレ!!
観光地の高級旅館に行くと、入口に立ってたりするじゃない!?
それを見て「すごーい!」ってテンション上げてた立場だったのに、まさか自分の名前がそこに立つ日が来るとは……!
……とにかく、驚きすぎて頭が追いつかない。
後で花音に聞いたら、さらっと言った。
「筆耕お願いしてると思うから……うん、五千円ちょっとね」
……いやもう、どこまで本気なの、この宿。
本気と書いてマジって読むレベル。
「こちらです」
ふたたび里見さんが私を促し、襖をすっと開ける。
中には──
三つ指をついて静かに頭を垂れる、和服姿の女性がひとり。
顔を上げたその人は、見覚えのある、凛とした女性だった。
「本日お世話をさせていただきます。仲居頭の高橋と申します」
……冬美さん!?
さっきまで私服でホールを仕切ってた、あの人だよね!?
それが今は──ばっちり和装で髪も綺麗に結い上げて、完璧な仲居姿!?
えっ、ちょっと待って。どういうこと?
このことを後で花音に話したら、笑いながら言ってた。
「冬美さんの場合、早替えっていうより“変身”なんですよね」
……やっぱりここ、忍者屋敷なんじゃないの?
【Scene27:Intermission(国宝)】
── 高橋 千晴 ──
特別室はというと……
うん、和室。
きっと湯呑みが何百万とかして、掛け軸が何千万とかするんだろうけど、
庶民にはわからない。だから──うん、和室。
試しに冬美さんに聞いてみたら、
「今お出ししてる湯呑みは、存在が世に知られたら国宝に指定されるかもしれませんね」
って、さらっと爆弾発言。
思わずお茶を吹きそうになったけど、必死でこらえた。
だって、吹き出した先にまた“国宝”があったらシャレにならない。
私の変な顔を見て笑う冬美さんに、冗談っぽく返す。
「……いやもう、本気です? さすがに国宝級なんて、そんなにないでしょ?」
「そうですね。さすがにそんなにありません。後は数個でしょうか?」
うん、アッサリ言わないで。
「あの掛け軸は?」
「せいぜい、重要文化財クラスですね」
……はい、もう驚きません。
ふと湯呑みを見ると、なんかヒビを直した跡がある。
「それはですね、姫さまが幼い頃、ここを掃除してて──落としちゃったんです」
さらっとまた爆弾。
「修復は専門家に依頼しました。すると姫さまは『修復してくれた人はむしろ“味が出た”といってた、私のおかげ』と自慢してましたね」
……もう意味がわからない。
冬美さんは肩をすくめながら言った。
「そんなもんですよ。本当のところ、こういう物の“価値”なんて、誰も分かってないんです。
“名品”だって噂されていれば、それだけで欲しがる。意味なんて、後から付け足すだけですから」
「……需要と供給、みたいなもの?」
ちょっと経済学部らしいことを言ってみる。出席日数はアレだけど。
冬美さんは、ふむと頷いて笑った。
「確かに、現存数の少ない貴重な物が値上がりしやすいという点では、そうですね」
……うわ、あっさり返された。
やっぱり“なんちゃって経済学部”の化けの皮が剥がれたかも。
「たとえば──その辺にある何の変哲もない湯呑みに、ある日突然、“これはいい味出てますねぇ。趣もある。
五千万は下りませんよ”と専門家が言ったとします。
そして誰かがその値で買えば、その湯呑みには“五千万の価値”が付くんです」
……そんなもん、なの?
「仮にそれが、真っ赤な偽物だったとしてもですよ」
「えっ……それじゃあ、物の価値って……」
「さっきも言ったように、後付けなんです。
でも、もし誰かが“これは偽物だ”と指摘して、それが認められたら──
五千万の価値は、煙のように消えてなくなるわけです」
一気に現実味が消えるような、背筋がすうっと冷える話だった。
ふと私は、つぶやいてしまう。
「……じゃあ、霞の宿だって……?」
冬美さんはその言葉を聞き逃さず、ゆっくりと頷いた。
「その通りです。“霞の宿”の価値は、一度、世の中から忘れ去られかけました」
遠くを見るようなまなざしで、静かに続ける。
「それを取り戻してくれたのが──葉月と花音なんです」
その語り口は、立場や役職ではなく、“人”としての感謝に満ちていた。
そんなとき──
「お姉様、遅くなりました」
と、あの張本人がふわりと現れた。
……よし、まずは湯呑みのことからからかってやろう。
里を歩けば、懐かしい顔と、懐かしい声。
そして――十年前に置いてきたはずの存在が、もう一度、目の前に現れる。
次回、
里のひとびと




