【第04話-02】宿がつなぐ、姉妹のような時間
※本話はヒロインの過去を描く、
物語進行・心理描写中心のパートです。
【第04話-02】宿がつなぐ、姉妹のような時間
【Scene07:草の再武装】
── 一ノ瀬 花音 ──
ボストン近郊に活動の拠点を構えた私は、まず一切の日本語を捨てた。
駅でも、店でも、誰に対しても、口を開くのは英語のみ。
考えごとをするときも、心の中でつぶやくのも、すべて英語。
……思考と言語は、密接に結びついている。
それを知っていたからこそ、私は“自分の中の日本”を徹底的に黙らせた。
そして、あらゆる場所に入り込み、空気のようにそこへ溶け込んでいった。
カフェ、教会、書店、学生寮、移民の語学学校……。
出自も目的も明かさず、ただその場の一人として振る舞う。
草の血が、そこでも遺憾なく発揮された。
どんな場所にも適応し、どんな相手にもなりすませる。
いかなる言語も、いかなる文化も、短期間で“自分の一部”にする。
それこそが、草の基礎だった。
やがて思考そのものが英語に切り替わり、
たった四ヶ月で、ネイティブと変わらぬ自然さで話し、動き、考えるようになっていた。
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九月から始まる高校生活は、あくまで形式的な足がかりだった。
私にとって、それは「大学進学に必要な条件を整える」ための一段階にすぎない。
飛び級制度、単位認定、能力別クラス、推薦制度。
使える制度はすべて使い、制度の隙間すら活かす。
結果、翌年四月には──日本でいう高校二年生の春に──
ボストン近郊の大学への進学が内定した。十七歳の春。
新しい季節は、学び舎ではなく、“戦場”として始まった。
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本来の目的は、ただひとつ。
源氏物語の研究。
けれど私は、その焦燥をいったん飲み込み、もう少しだけ遠回りすることにした。
理由は明確だった。
今後、源氏物語をAIで分析し、写本の進化や変容を辿るならば、
その“武器”を自らの手で扱えるようになっておくべきだと判断したのだ。
だから私は、コンピュータサイエンス(CS)を専攻することに決めた。
それは研究者としての準備であると同時に、
……かつて草として生きた私の“再武装”…でもあった。
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だが、もう一つの理由があった。
留学の準備中、表のネットワークを使って文献収集を進めているなかで、私はある事実に突き当たった。
……源氏物語の古写本の、海外流出が想像以上に広範かつ深刻であるということだ。
散逸したそれらを、少しでも日本に戻したい。
それもまた、私の新たな目標となっていた。
なぜ拠点をボストン近郊に構えたのか──その理由も、そこにある。
この地には、日系コレクターの残した蔵書や、日本文学を専門とする研究機関が多く存在する。
そして何より、“古典文学の蒐集を趣味とする欧米の好事家たち”が暮らすエリアに、アクセスしやすかった。
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幸い、資金には困らなかった。
草として活動していた時代、未だ切り捨てずに残していた裏のルートを通じて、
草の資産をすべて現金、あるいは金へと換金していた。
それは合法とは言い難い最後の裏稼業であり、私にとっての“草としての幕引き”でもあった。
このとき得た莫大な資産は、「霞の宿」の名義で運用されるものも含め、
私個人の手に渡った資本は、それこそ膨大なものになっていた。
以降の写本回収活動には、非合法な手段や裏取引を一切使わない。
そう自らに誓った。
そうでなければ写本を表だって日本へ返せない。
だからこそ、金は“表”の交渉で最大限の効果を発揮する必要があった。
……“草の血”を絶つとは、そういうことだ。
【Scene08:禁じられた術、選ばれし躯】
── 一ノ瀬 花音 ──
本来の学業と並行しながら進めた源氏物語古写本の収集は、最初の一年――実に順調だった。
先祖が価値も知らず受け継いでいた写本。
金目当てで買ったものの興味を失ったコレクターの蔵。
古本屋の埃をかぶった箱の奥、誰にも顧みられない一葉。
美術館や図書館に寄贈されたはいいが、扱い切れずに持て余された断簡。
大学や研究機関が金策のために放出した重文級の蔵書――
私はそれらを適正価格で買い取り、けっして買い叩かなかった。
裏社会で得た金を、表社会へ還流させる。それもまた目的だった。
集めた写本は正規の輸出入手続きを踏み、送付ルートを隠したうえで、すべて匿名で高橋教授へ寄贈する。
最初こそ困惑されるだろう。
だが教授ならやがて送り主の思惑に気づき、黙って受け取ってくれると私は信じている。
そして写本を丁寧にスキャンし、未来の研究者のためにデジタル化してくれるはずだ――。
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しかし一年が過ぎようとした頃、私の活動は停滞を始めた。
「源氏物語を買い集める得体の知れないバイヤーがいる」という噂が広まる。
金に汚い保有者だけが残り、要求額が釣り上がる。
真の価値を理解し、そもそも手放す気のない蒐集家が立ちはだかる。
……要因は三つ。いや、もっとあったかもしれない。
価格をつり上げるのは愚策だ。一度でも“相場以上”を出せば後戻りはできない。
資金は莫大だが無限ではない。私が守るべき適正という“線”がある。
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十八歳の誕生日。私は一つの決心を下す。
……自らの躯〈からだ〉を駒として使う。
かつて母が、その身を賭して道を切り開いたように。
草に伝わる房中術。
私の心を壊しかけた、忌むべき技。
世間一般では「愛し合う者同士の性交渉でストレスを和らげ、健康を保つ」と語られる。
けれど草に継承された房中術は違う。
巧みな話術、情報操作、印象操作、心理掌握――
草の技術の集大成として、最奥で肉体の快楽を用い、相手を絡め取る。
古の悪女たちは、みなこの術か、その亜種を用いたと記録にある。
楊貴妃、貂蝉、淀殿――
クレオパトラ七世、カトリーヌ・ド・メディシス、マタ・ハリ――
そして伝説のサロメまでも。
なかでも楊貴妃には、草と直接的に技術が連なると記された秘巻があった。
淀殿に至っては「草の出身である」と言い切る行がある。
だが、それらは何代か前の草が権威づけのために創作した可能性も高い。
検証するまでもない――そう判断し、私は火にくべた。
私の行く手に、不要な呪いは要らない。
房中術には、さらに恐ろしい奥義が伝えられている。
性交渉の最中に“気”を相互に巡らせ、肉体を活性化させる技。
適切に続ければ若ささえ保てるという。
だが同時に、気の交換は心の奥底にまで干渉し、意思決定すら左右する。
一種の洗脳――。
祖父が急速に老いたのは、祖母を亡くし“気の媒介者”を失ったからだろう。
一子相伝を貫き、他の女性へ術を施すことを躊躇したせいで。
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十八歳。
鏡に映る自分を見て思う――私は、美しく育った。
草の基準でも武器になるとされる身体は、もう躾けられるのを待つだけだ。
「ならば、この身もまた──駒となろう。
草の技を、私の意思で使うために。」
決意を胸に、私は闇への扉を静かに押し開けた。
【Scene09:慣れてしまうということ】
── 一ノ瀬 花音 ──
十八歳を迎えた私は、決めた。
──この身もまた、駒となろう。
草の技を、私の意思で使うために。
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胸元を強調した服を選び、肌を見せ、視線を引く。
息を落とし、甘い声音で言葉を重ねる。
たったそれだけのことが、交渉の流れを一変させた。
適正価格を提示しただけで、目を輝かせて頷く者。
中には、提示額を下回る額で手放すと言い出す者もいた。
それでも、私は動じない。
交渉を終えれば、足跡も痕跡も残さず姿を消す。
草の技術では、当たり前の初歩にすぎなかった。
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女性相手のときも、基本は変わらない。
ただ、開ける扉が違うだけだ。
「どうしても必要なんです」
そう訴える涙、熱意、誠意。
それを“少女”の顔で語るだけで、古文書を手渡してくれる人もいた。
…可憐な少女が、真摯な願いで古写本を求める?
滑稽にも思えたが、構わなかった。
結果がすべてだ。
草の技を、私はただ“正しい目的”のために使っている。
そう信じたかった。
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だが、どうしても通じない者がいた。
金も、涙も、熱意も届かない相手。
そして私は、房中術を使うようになる。
性交渉を起点とした技術。
それは情報操作、心理掌握、そして──“気”の注入による深層干渉。
意識の奥深くに入り込み、価値観をねじ曲げ、意志そのものを変える術だった。
気が通えば、相手は私との繋がりを求めて手放す。
写本は得た。代金も支払った。違法ではない。
だが──それは、“洗脳”だった。
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例えば、こういうことだ。
「何度来ても、あれは売らないよ」
源氏物語の写本を所蔵する、意地汚い好事家。
噂が確かなら、間違いなく本物で、しかも相当に古い。
――必ず回収しなければならない。
今夜で落とす。
そう決めて、私は着飾ってきた。
胸元を強調し、太腿を大胆に晒す。
「その件について、もう一度ゆっくりお話がしたくて。
本日は部屋を用意してあります」
私がそう切り出したのは、好事家を誘ったホテルディナーの終盤だった。
ターゲットは、舌なめずりを隠そうともしない。
やがて食事を終え、部屋へ入る。
「……これは、そういう意味でいいんだろ?」
ターゲットはシャワーを浴びる暇すらなく、私に抱きついてきた。
嗜好は調査済み。
情報を多く持つ者が勝つ――それが鉄則だ。
この男は、嫌がる女性を力づくで組み敷くことを好む、下劣な人間だった。
躊躇はない。
房中術で“手込めにする”のは、こちらだ。
私は抱かれた。
ターゲットのそれが、私の中に注ぎ込まれる瞬間、
私は代わりに、ありったけの“気”を流し込む。
行為の最中、最後の絶頂に至るその刹那――
どんな人間であろうと、心の扉は無防備に開ききる。
『写本を売りなさい』
命令を込めた気は、驚くほど容易く相手の深層へと忍び込んだ。
行為を終え、シャワーを浴びたターゲットは、夢を見るような表情で言った。
「約束どおり、写本はお前に売る。
……で、いくら払ってくれる?」
約束などしていない。
房中術による洗脳で、男の認識は書き換えられていた。
訓練は受けていた。
理屈も理解していた。
草の下人に試したことすらある。
――だが、何の罪もない一般人に行使したのは、これが初めてだった。
(本当に、こんなことをしてまで写本を集める必要があるのか?)
浮かびかけた疑念を、私は頭を振って追い払う。
感情は不要だ。
売買契約を結び、写本を受け取る。
それが済めば、私は姿を消す。
ターゲットは、一生、私の影を追い続けるかもしれない。
その可能性すら、私は心の中から切り捨てた。
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自分に言い聞かせるしかなかった。
これは母がそうしたように、私の選んだ手段。
薬も使っていない。
私はただ、「草」として生きた技を、「花音」として選んだだけだ。
けれど、ふと、思い出す。
かつて、私に人を殺せる武術を教えた者たちが、笑いながら言っていた言葉を。
「躊躇や後悔をするのは、最初の一人だけ。なあに、すぐに慣れるさ」
……その通りになった。




