【第04話-01】宿がつなぐ、姉妹のような時間
※本話はヒロインの過去を描く、
物語進行・心理描写中心のパートです。
【Scene01:霞の宿に生まれて】
── 一ノ瀬 花音 ──
私の名前は 一ノ瀬 花音。私は──忍の末裔である。
笑わないでほしい。
冗談ではない。本当の話だから。
忍──すなわち「草」の俗称である。
私が生まれたのは『霞の宿』。
これは比喩ではない。実際にこの宿の一室で、産婆の手によって取り上げられた。
家族はこの宿を経営している。
けれどその本質は、ただの旅館ではない。
この場所は、数百年の間、「草」の血を絶やさぬために存在してきた。
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『霞の宿』は、戦国時代に“草”が活動拠点として使っていた旅籠を起源とする。
草──それは、時の権力者に仕える影の存在。
諜報、隠密、暗殺、誘拐、攪拌。裏の仕事は、選ばない。
私の祖先は、その草を束ねていた元締めだったらしい。
江戸時代には徳川幕府直属の草となり、
太平の世にも裏の仕事は尽きなかった。
明治・大正になっても、草の需要は消えなかった。
政財界、軍部、警察──時代が変わっても、誰かが秘密を必要としていたから。
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昭和に入り、草は新たな役割を担う。
「裏社会の調整役」──それが霞の宿の立ち位置となった。
たとえば、バブル期。
東京湾岸の開発権を巡り、複数のゼネコンが“表で競り合い、裏で手を組む”。
その密談が行われたのが、この宿の奥座敷。
あるいは、某代議士のスキャンダル火消し。
愛人を国外に“逃がす”算段をつけたのも、うちの祖父だったと聞いている。
政と財、表と裏、敵と味方。
そうした水面下の話し合いを、誰にも知られずまとめあげる。
“敵同士が握手する部屋”を用意する──それが霞の宿だった。
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祖父の代までは、確かにそれが機能していた。
けれど、時代は変わる。
祖父には娘──つまり私の母しかいなかった。
一族の伝統において、男系・女系の違いはない。
一子相伝。秘技を守るために、それでよかった。
だから、祖父は母に草のすべてを叩き込んだ。
武術、情報操作、心理掌握。
それは──地獄だった。
一般社会に出ることすら許されず、
外の世界を知らぬまま、ただ草として仕込まれる毎日。
そして祖父は、母に婿を選ぼうとした。
組織の内側から、“跡取りを産ませる道具”として。
だが、母は拒んだ。
「それだけは、自分の意思で決めたい」
「叶わないなら、死んでやる」
祖父は折れた。
娘に死なれれば、血が絶える。
母に許されたのは、大学進学だけだった。
初めて外の世界を知った母は、ある人に出会い──恋に落ちた。
それが、私の父だ。
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母は正直に、自分の素性と一族の在り方を語ったという。
それでも父は、母を選んだ。
表向きの旅館経営は父が、
裏の仕事は母と祖父が──。
一見、うまく回っていた。
祖父が現役を退くまでは。
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昭和が終わり平成に入っても
政財界は未だ男尊女卑が根強く、いくら母に実力があっても、相手にされなかった。
仕方なく、表に立つのは父になった。
かつて《霞の宿》は、財界の密談も名家の婚礼も、棋士たちの名人戦すらも受け入れる──そんな「格式と機密」の象徴だった。
だが、ごく一般人だった父にそんな代表の荷は重すぎた。
表の世界では「もはや昔の威光はない」と重要な席から外され、裏の世界でも「今の当主では話にならない」と囁かれた。
世間の評価はひと言でいえば──
“かつて栄華を誇った老舗が、凡庸な温泉宿に成り果てた”。
それにともない草としての立場も急速に失われていった。
裏の橋渡し役としての霞の宿は機能不全に。
ただ、古い人脈による“秘密の宿”としての利用は続いた。
たとえば──
財界人が愛人と過ごす一夜、
政治家がスキャンダル回避のため匿う女性、
公安が密かに会わせる、情報屋と協力者。
宿は、ただの“道具”になった。
やがて、この宿には新たなあだ名がついた。
「財界の逢い引き所」
「政治家のラブホテル」
それを知った祖父は烈火の如く怒った。
そして、怒りの矛先は──父へ向けられた。
責め立てられた父は、ある日ふいに姿を消した。
蒸発という言葉は、この時ほどぴったり来る場面もない。
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そして祖父は、今度は私に目をつけた。
小学校三年生の時だった。
「次はお前だ」
「草の血を絶やしてはならぬ」
「お前は跡取りを産む器となるのだ」
……夢など、許されなかった。
家の蔵で偶然見つけた源氏物語の写本。
原文で読めるようになりたいと願ったあの日の私。
その子は、あの時、死んだのだと思う。
【Scene02:少女は地獄に生きていた】
── 一ノ瀬 花音 ──
草の技は一子相伝──
そう称されるそれは、ただの伝統ではなかった。
呪い。
そのほうが、きっと正しかった。
祖父はすでに高齢で、もはや技を実践するだけの体力もなく。
その全てを母が継ぎ、私に、否応なく叩き込んだ。
「ごめんなさい……ごめんなさいね、花音……。弱い母を許して……。この血の呪いから……たった一人の愛する娘を守れない私を……恨んで」
泣きながら、許しを請いながら。
でも、母は手を止めなかった。
けれど私は、すぐに気づいた。
私には──才能があった。
痛みも疲労も涙も、母の震える声さえも。
私の身体と頭はそれらを取り込み、記憶し、技として昇華していった。
どんな術でも、数度で会得した。
祖父も唸った。
血の濃さのなせる業だと。
私の拠り所は、ただ一つ。
古い書庫に眠っていた虫食いの『源氏物語』──
古文の構文を読み解き、辞書を引き、意味を探る。
恋や嫉妬、すれ違い、それでも惹かれ合う人々。
彼らの世界だけが、私に自由をくれた。
……いつか、私も恋がしたい。
自分で選んで、心を許し、愛されて。
そのときまで、私は“それ”を守り抜く。
そう信じていた。
そのためにも、すべての技を早く覚えなければ。
だから、私は十二歳の春には、全ての技を習得していた。
学校には一度も通ったことがなかったから、“六年生”という感覚も曖昧だった。
けれども、それは確かに、私の“卒業”だった。
その報告を受けた祖父は、満足そうにうなずいた。
「素晴らしい。実に素晴らしい。ならば──次は“房中術”だな」
……その瞬間、母が取り乱した。
「それだけは……それだけはお許しください……! この子は、まだ十二歳なんです!」
「何を言う。お前にわしが房中術を相伝したのは十五の頃だ。少し早いだけではないか」
「そんなことをするなら……私は死にます!」
「勝手にするがいい。相伝は済んでいる。誰も困らん」
母の表情から、すべての色が消えた。
その夜から、母は壊れた。
食事も取らず、誰とも話さず、寝台に横たわるばかり。
今にも、自ら命を絶ちそうだった。
私は、ただ泣きながら、母にすがった。
「お願い……私は、まだ子どもです……」
「母様を失ったら、私は生きていけない」
「あなたの愛が、私にはまだ必要なの……!」
ようやく、母は私を抱きしめてくれた。
けれども──すでに遅かった。
“その役目”のために育てられた男が、すでに、屋敷に送り込まれていた。
彼は無表情で、機械のようだった。
愛も、情も、欲望すらも持たず、ただ指示通りに動いた。
私は抵抗する間もなく、彼の手に委ねられた。
それは──箱を開けるだけのような所作だった。
“使う前に、封を解く”。
そんな理由で。
それが、たった十二歳の私に与えられた、初めての“交わり”だった。
その日、私の中で、何かが──静かに、確かに──壊れた。
【Scene03:霞は白日に晒された】
── 一ノ瀬 花音 ──
私は十三歳で草〈くさ〉のすべてを極めた。
その技量はすでに母を凌いでいた。
けれども――私がその技を振るう先は、ただ一つ。
草の歴史を切り捨てること。
裏との縁を断ち、金脈を自ら捨てた。
情報操作、心理掌握。
草として残された実働の者たちは敵対勢力にぶつけ、相打ちにさせる。
敵も味方も互いに喰らい合い、力は根こそぎ削れた。
母は、同じ地獄を味わった戦友であり、
幼い私を守れなかった贖罪を背負う人だった。
時に母は、自らの躯〈からだ〉すら駒として差し出した。
「こんなもの、もう二度と継がせない」――その一念で。
草の残党は噂した。
「新しい当主は童女にして修羅だ」
恐れた者は夜陰に紛れ、静かに消えた。
計画は――わずか一年半。
《霞の宿》に積み上がった数百年の闇は
母娘ふたりの手で焼き払われた。
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祖父の枕元に立ち、私は静かに告げた。
「すべて、終わりました」
烈火のごとき怒号。
だが弱った心臓はその激情に耐えられず、
祖父は呆気なく逝った。
私は涙ひとつ流さず、頭を下げた。
「これで終わりです、お爺さま」
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次に行ったのは行方知れずの父を探す事
肩書も財も捨て、遠い町で別人のように細々と暮らしていた。
再会は呆気なく、そしてわずかな救いでもあった。
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平成も二十余年を過ぎ、男尊女卑の衣はまだ脱ぎ捨てられぬまま、しかし確かにほころび始めていた。
母はその隙間を縫うように財界と手を結び、私は数字と契約で礎を築いた。
《霞の宿》は――
裏の縁を完全に断った今、皮肉にも表の一流たちはこう漏らし始めた。
「あそこなら、もう黒い噂はつかない。安心して使える」
きっかけは、かつて密談にこの宿を使っていた古い財界人たちだった。
「あそこはもう裏と縁を切った。むしろ今のほうが使いやすい」
そんな囁きが、ごく内輪の会合で静かに交わされ始める。
“表向き”の格式と“黒くない”信頼性──
その両立が、いまの時代にちょうど求められていた。
……そうして再び、《霞の宿》に重要な式典や催しが戻ってきた。
“奇跡の復興”と新聞が見出しを打ったのは、ちょうどその頃のことだ。
だが真実は違う。
いま初めて、《霞の宿》は表社会に生まれ落ちたのだ。
数百年の胎内を破り、光の下に立ったばかり。
⸻
人々は私の生活を「幸福」と呼ぶ。
けれど――
桜が廊下を染めても、
私の中にはまだ、厳冬の風が吹いている。
誰にも触れられない傷。
そこだけが、十二歳のまま凍っていた。
【Scene04:はじめて、私のために】
── 一ノ瀬 花音 ──
霞の宿が「老舗旅館の奇跡」と新聞を賑わせていたころ、私は十六歳の春を迎えていた。
戸籍の上では義務教育が終わり、名目だけでも“自由”を手に入れた。
さて、何をしようか――そう呟いた瞬間に浮かんだのは、あの虫食いの『源氏物語』だった。
⸻
一年半前、十四歳の秋。
草の呪いを断ち切った私は、次に“写本の保存”という課題に向き合っていた。
写本はあまりに古く、そのまま読み進めるのは危険だった。
そこで私は、東京郊外の国立大学に一通のメールを送った。
宛先は──文学部人文情報学科・学部長、高橋進。
「五十七歳で学部長……やっぱり、古典と情報学の融合では、この人の右に出る者はいない」
私は、こう条件を提示した。
「スキャナは使わせていただくが、データは公開しない」
常識外れだと自覚していたが、返信はすぐに届いた。
「了承しました。研究室でお待ちしています」
⸻
初訪問。
雨の匂いが残る午後。
私は写本を厳重に梱包し、大学構内の研究棟を訪れた。
受付を通され、ドアをノックすると──
「初めまして。学部長の高橋進です」
机から立ち上がったのは、背筋の伸びた五十代の男だった。
目の奥には静かな炎が宿っていた。
彼は私を“十四歳の子供”として扱わなかった。
私は写本を差し出し、条件を再確認する。
「スキャナの使用料として、寄付金を――」
「必要ありません。機材は研究室の備品です」
「データは私だけが閲覧し、他には公開しません」
「了解しました。では……その前に、少し話をしましょうか」
……試されるとは思っていた。
彼は古典の基礎から始まり、次第に専門的な話題へと踏み込んできた。
草としての教育で鍛えられた私は、すべて即答した。
「なるほど……」
高橋教授は静かに椅子を引き、姿勢を正した。
「試すような真似をして申し訳なかった。君の理解度は、大学院研究生と比べても遜色ない。では──写本を拝見しても?」
私は頷き、包みを解いた。
その瞬間、教授の気配が変わった。
部屋の空気が、ひりつくように張り詰める。
草の修行時代、武芸の達人と対峙したあの時に似ていた。
「……古い。古すぎる。しかも、全巻揃っているのか……?」
彼はページをめくる手の震えを抑えながら、私に振り返った。
「もし、よければこれを──」
言いかけて、口をつぐむ。
「……いや、言わぬ約束でしたね。これは君の宝物だ。責任をもって保存します」
そして静かに尋ねた。
「どこで、これを?」
「メールにも記載しましたが……これは、うちの実家にある蔵から出てきたものです」
「確か……《霞の宿》。江戸中期から続く老舗旅館でしたね」
「はい、母が十二代目にあたるそうです。
干支が一巡して、ちょうど区切りの代ですね……」
「今の名前になってからはそうですが……
名を変える前から遡れば、さらに前。間違いなく戦国時代から。
場所を移してでもよければ……もっと昔から続いているかもしれません」
少し笑って、私は首をかしげる。
「……いったい何代目になるんでしょうね? 想像もつきません」
なぜか、誰にも話したことのない秘密を素直に口にしていた。
それに、こんな冗談めいた言葉まで添えて。
「これは貴方の宝物だ」……そう言われて、私は心を開いていた。
教授は、その言葉にではなく、
私という存在そのものに……くったくのない笑みを返した。
「かっはっは、これだから現場での研究はやめられない。こんな出会いがあるのだから」
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二週間後。
再び訪れた研究室で、教授はやや疲れた顔をしていたが、目はむしろ生き生きとしていた。
「おかえり、一ノ瀬君」
「花音で結構です」
「そうか……それでは花音君。作業は完了してるよ」
机上のモニターには、写本のデータが並んでいた。
文字のかすれや筆の癖までが鮮明に残り、紙のノイズだけが丁寧に除去されていた。
「学生たちも真の本物に触れられて、良い刺激になったよ。何も“研究すること”だけが経験ではない」
彼はデータを暗号化したフォルダを示した。
「この鍵は、君と私だけが持つ。閲覧には双方のパスワードが必要だ」
「……ありがとうございます」
「礼には及ばない。あれがもし世に出たら、源氏物語の研究はひっくり返るかもしれない。それほどの物なんだよ、君の宝物は」
私は目頭が熱くなるのを感じた。
(これが、守られるということか……)
草として生き、旅館を再興し──
他者のために奔走してきた私が、初めて“自分のために”他人を信じた瞬間だった。
源氏物語のデータは、私専用の端末にのみ保存し、研究室をあとにした。
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現在──十六歳の春。
源氏物語を“世界で一番理解する者”になりたい。
それは誰に命じられたわけでもない、私自身の夢だ。
(行こう。あの人に、また会いに)
私は新幹線の切符を手配していた。
桜の花びらが、窓の向こうでふわりと舞い、落ちていった。
【Scene05:留学準備、桜舞うころ】
── 一ノ瀬 花音 ──
四月初旬。
東京では桜が満開だというのに、私の故郷・会津ではまだ蕾さえ硬い。
その花の匂いを頼りに、私は文学部棟の一室を訪ねた。
⸻
「久しいな、花音君」
新学期の雑務で押し潰されそうな時期のはずなのに、
高橋教授はいつもの穏やかな笑みで迎えてくれた。
「お久しぶりです、高橋教授」
「うむ、ずいぶん綺麗になられて。……もう十六になるか?」
「はい、昨日十六歳になりました」
「なんと。わが家の末娘と同じ歳、しかも同じ誕生日ではないか」
頬を緩める教授は、どこか誇らしげだ。
“高橋家美人三姉妹”――意外な子煩悩ぶりを垣間見る。
「そろそろ高校の入学式だろう?」
「そのことで、ご相談に参りました」
私は源氏物語を本格的に研究したい、と切り出した。
教授は眉根を寄せる。
「君ほどの人材なら本学は歓迎だ。だが、まずは高校を……」
「駄目なんです」
思わず声が大きくなる。
十五年を“草”のために費やした。もう一刻も無駄にしたくなかった。
「今すぐ、大学で学ばせてください」
教授は静かに思案し、やがて頷いた。
「……ならばアメリカへ留学したまえ。向こうなら努力次第で飛び級も可能だ」
「問題は英語力だが……」
『英語なら問題ありません。ビジネス会話程度ならばこなせます』
私は英語で返す。教授も即座に英語で応じた。
『ほう、また驚かされたよ』
『旅館には海外のお客様も多いのです。幼い頃から鍛えられてきました』
(……嘘ではない。だが真実でもない。草の教育、その延長にすぎない)
「よし。私の名で紹介状を書こう。そのつてで向こうの高校も道が開けるはずだ」
「ありがとうございます!」
「本来なら末娘を紹介したいところだが、君には時間が惜しかろう。――またの機会にゆっくり会わせよう」
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実家に戻り
準備は二週間で整った。
教授の紹介状、草時代から残した表の人脈――すべてが背中を押してくれる。
「母様、私……アメリカへ留学します」
「いいわ。行ってらっしゃい。旅館のことは私たちに任せなさい。
あなたは、あなたの人生を歩むのよ」
「母様だって草のために時間を……」
「私はあなたがいるから幸せよ」
その夜、私は泣いた。いったい、いつぶりの涙だっただろう。
⸻
旅立ちの日
両親の見送りは玄関までだった。
忙しい旅館の仕事を理由に、私も派手な見送りを断っていた。
「行ってまいります、母様、父様」
「行ってらっしゃい。身体に気をつけてね」
三月末、東京で私を送り出した桜が、
四月半ばの会津で再び満開を迎えていた。
時を違えて咲く花が、私の旅立ちを――二度までも祝ってくれる。
そう思うと胸が熱くなり、私はそっと頭を垂れた。
今度こそ、私は“私”として生きる。
キャリーケースを引き、桜吹雪の中へ一歩踏み出した。
【Scene06:ただ、娘でいたくて】
── 一ノ瀬 花音 ──
東北新幹線が上野駅の地下ホームに滑り込む。
静まり返った車内から一歩踏み出した瞬間、湿った夜気とともに鉄と油の匂いが鼻をくすぐった。──東京だ。
コンコースへ続く長いエスカレーター。頭上にはレンガ色の天井、遠くで地下鉄のブレーキが軋む。
この雑多なざわめきが、日本の心音のように思えた。
⸻
翌朝は成田から早朝便。だからこそ今日1日だけは“日本を歩きたい”。
そう願った私に付き添ってくれたのは、霞の宿の番頭──橋本里見だった。
上野駅近くで、午前中からアーリーチェックインできるビジネスホテルを予約していたので、荷物を運び入れると──
付き添いの橋本里見は、そわそわと落ち着かない様子であたりを見回した。
「ほんとに……姫様と同じお部屋なんて、なんだか気が引けますよ」
私が笑うと、彼女も少しだけ肩の力を抜いた。
「何を水くさいこと言ってるの、里見母様」
彼女は母様と同い年。そして、草の出身。
私の乳母でもあった人だ。
戸籍に刻まれた橋本という姓も、里見という名も、表向きの仮のもの──本当の両親の顔すら知らぬまま育ったと聞く。
乳母であるということは、乳兄妹もいたはずだが、会ったことはなく、尋ねることもできなかった。
彼女もまた、草の犠牲者なのだ。
物心つく前から、二人の母に抱かれて育った私は、
高熱にうなされた夜も、任務で帰れない実母の代わりに額を冷やしてくれた、里見母様の温もりを覚えている。
私が十三で草の切り捨てを宣言したとき、真っ先に賛同し、
裏寄りだった先代番頭に代わって、表の旅館を切り盛りしてくれたのも彼女だ。
貴重な休日さえ返上し、明日の空港まで同行してくれる。
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「まだ早いわ、散策しましょ、母様」
「姫様……」
「だめ。その呼び方は禁止。花音でしょ?」
「花音様――」
「違う。か・の・ん」
「……じゃあ、行きましょうか、花音」
「はい、お母さん」
ほんの一日でいい。戦友である母ではなく、里見母様の子どもでいたかった。
上野公園の遅桜を眺め、浅草寺の灯の下で手を合わせ、甘味処で熱い抹茶をすする。
寄り添って歩く私たちを、誰もが本当の親子と思っただろう。
私も、里見母様も――そのつもりだった。
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夜。ツインルームで就寝の支度を終え、私は姿勢を正す。
「里見さん」
「はい、姫……いえ、若女将」
「私は、私自身のために行きます。我が儘なんです」
「いいえ。あなたは、自分のために生きていいのです」
「ありがとうございます。私が留守の間、母様と父様のこと、お願いします」
「お任せください。この命にかけて」
「何言ってるの、旅館経営に命なんていらないわ」
……“草と違って”という言葉は、飲み込んだ。
その飲み込んだ言葉の重さを悟ったのか、
里見母様は何も言わず、ただ静かに頷いた。
私は深々と、彼女に頭を下げた。
⸻
翌朝。成田空港、第1ターミナル・出発ロビー。
電光掲示板に “New York /JFK” の文字が点灯した。
「それでは、行ってまいります」
「はい。お帰りを、お待ちしております」
最後に強く抱きしめられ、甘い乳の匂いの記憶がよみがえる。
私は背を向け、保安検査場へ歩き出した。
私は、私自身のために。
草でも娘でもない、“花音”として――日本を旅立つ。




