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穏やかな春を迎えたい  作者: 陽花紫


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9/9

春の日差しのなかの三人

 約束の日、屋敷の門を出た三人は春の日差しのなかを並んで歩いていた。


 サチは普段の簡素な装いとは異なり、淡い桃色の外着をその身にまとっていた。

 光の加減で、その上質な金糸の刺繍はきらりと揺れる。

 小さな手はロレンの腕にそっと添えられ、ロレンは穏やかにその手を包みこむようにして歩いていた。

 後方から、リアンが軽く笑いながら二人に向けて声をかけた。

「兄さん、昔よく食べていたあのおいしいお菓子屋さん……。あそこ、まだあるかな?」

「ああ、あの店か……。店主が生きていれば、きっとまだあるはずだと思うが」

 その言葉に、サチは小さく笑みを浮かべた。

「どんな、お店なんですか?」

「兄弟でよく行った場所なんだ。嬉しいことがあった時も、喧嘩をした時でも、その店の甘い焼き菓子を食べればすぐに笑顔になっていた」

 ロレンは、懐かしそうにそう答えた。


 三人は石畳を抜け、やがて町の小さな路地に入る。

 木製の看板が軒先で風に揺れ、店先からは焼きたての甘い香りが漂っていた。


 老いた店主は、ドアを開けて入ってきたロレンを見て目を細めた。

「おや、誰かと思えば商家ところの坊ちゃんじゃないか。珍しいもんだなあ」

 そしてリアンをの方を見て、わずかに顔を明るくする。

「おお!弟さんも、一緒かね」

 リアンが笑顔で頷いた。

「お久しぶりです、おじさん」

 そして店主の目は、最後にサチへと向けられた。

「はて……?確か、妹はいなかったはずだが……」

 ロレンは苦い笑みを浮かべながら、穏やかな声で伝えた。

「彼女は、私の妻です」

「初めまして」

 サチが軽く会釈をすると、店主は目を細めて微笑んだ。

「そうかそうか……、坊ちゃんもついに嫁をとったか。めでたいことだ!」

 そうしみじみと呟いて、名物であるという焼き菓子を山ほど包んで手渡した。


 三人は店の奥の広間で、湯気の立つ茶と焼き菓子を並べていた。

「近頃は客足も減ってな、好きなように過ごすといいよ」

 そう店主は、店先へと戻っていく。


 あたたかな焼き菓子は素朴で甘く、口の中でほろりとほどける。

「これは私とリアンの思い出の味でね。君にも、食べてもらいたかったんだ」

 そうロレンは、微笑んだ。

「とても、優しい味ですね」

 サチは頬を緩めながら、湯気の向こうでにこやかに笑い合う兄弟の姿を見つめていた。


 その時、リアンがサチの口元へと手を伸ばす。

「サチさん、ついていましたよ?」

 そう指先で取った欠片を、何気ない仕草でぺろりと舐め取る。

 サチの頬が、ほんのりと染まっていく。

 ロレンはそのやり取りを気に留めることもなく、ただ微笑ましく見守るだけであった。そこにはあの夜の勝者の笑みが、滲み出ていたのだ。

 リアンは静かに茶を飲むものの、その胸には小さな棘のような痛みが残っていた。

 それは、許されぬ恋の最後の余韻でもあったのだ。


***


 帰り際、急用の報せが入り、ロレンは途中で別れることとなってしまう。

「すまないね、サチ。あとはリアンが責任を持って、君のことを送るから……」

「大丈夫ですよ。どうか、お気をつけて」

 互いに抱きしめあった後に、サチは笑顔でロレンの姿を送り出した。


 二人きりになった帰り道。

 春風が柔らかく吹き抜け、街路樹の若葉がざわめいた。


 サチの横顔に揺れる髪の香りが、ふわりとリアンの胸を掠める。

 そして、静かに歩きながら口を開く。

「サチさん……。これからも兄を、よろしくお願いします」

 その言葉に、サチは力強く頷いた。

「はい、任せてください」

「……兄のことを、愛しているんですね?」

「ええ、心から」

 その言葉の確かさに、リアンはすべてを悟った。

 サチの中に、リアンが付け入る隙はないのだと。

 彼女の瞳は、いつも兄だけを映しているのだと。


「もう少し早く、こちらに戻ってくるべきだったな」

「……どうして?」

「貴女に、もっと早く出会いたかった」

 その言葉にサチは、穏やかな笑みを浮かべていた。

「きっと私なんかより、貴方はもっといい人に出会えるわ」

 その声は優しく、けれど確かに幕を下ろすような響きも持っていたのだ。


 リアンは深く息をついたあと、寂しげに微笑んだ。

「ありがとう。……頑張ってみるよ、義姉さん」

 その言葉を口にした瞬間、ようやく彼は恋を手放せたような気がしていた。

 それは苦くも、清らかな終わりでもあったのだ。


 屋敷に戻ると、夕暮れの光が西の空を染めていた。

 ロレンは仕事から戻るなり、サチの姿を見て安堵の表情を浮かべていた。

 そして、その頬に音をたてて口づけをした。

「……今日は、楽しかったかい?」

「ええ、とても」

「リアンが、何か変なことをしなかったかい?」

 その問いにサチは、そっとロレンの頬へ唇を返した。

「とても兄思いな、弟さんだったわ。私のことも、義姉さんって呼んでくれたのよ?」

 ロレンは心からの安堵の息を漏らし、サチを強く抱きしめた。


 二人の間には、灯りのような静かな幸せが満ちていた。

 リアンは遠くからその光景を見つめて、胸の奥でそっと呟いた。


「兄さん、お幸せに」


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