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穏やかな春を迎えたい  作者: 陽花紫


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8/9

春に再開を果たした兄弟

 次のリアンの外交の任期は、一年後であった。


 それまでの間、彼は久方ぶりの実家暮らしに懐かしさを覚えながら、日々の仕事に取り組んでいた。

 しかしその瞳は、常に屋敷の中のどこかを探していた。

 まるで心が求めるかのように、リアンの目は自然とある一人の姿を追い求めていたのだ。


 兄ロレンの妻である、サチのことを。

 間もなく挙式を迎えるその女性は、控えめで優しい気立ての持ち主でもあった。

 ロレンの様子を見に来るときの柔らかな微笑み。廊下ですれ違うたびに交わす小さな挨拶のひととき、食卓で見せる穏やかな横顔。そのどれもが、リアンの胸の奥深くに焼きついては離れなかった。


「リアン、駄目だ。駄目だぞ?彼女は、兄さんの妻なんだから」

 そう何度自らに言い聞かせても、彼女を見つめる瞳の熱は決して冷めはしなかった。

 サチの微笑みに宿る清らかな温もりが、彼の心を惹きつけてやまなかったのである。


 リアンは商談の場においては、相手を追い詰めるかのような執念深さで知られていた。

 一度目をつけた獲物は、逃さない。

 その性分が今は、愛という形で自らの身を蝕んでいるようでもあったのだ。


 兄が留守の折、彼は幾度かそれとなくアプローチを試みていた。

 ほんのわずかに手が触れるような距離で話しかけてみたり、庭先で一緒に季節の花を眺めたり。

 しかしそのたびにサチは控えめな笑みで答え、柔らかくいなし、何事もなかったかのように去っていく。

 その可憐な笑みに、リアンは何度も心を掴まれ、そして突き放されるような思いをしていた。

 彼女の中に、リアンの居場所はない。それを痛いほど理解していながらも、なおもサチの姿を見つめてしまう。それが、恋の残酷さでもあったのだ。


 やがてロレンにも、その気配は悟られてしまう。

 穏やかで静かな兄が、珍しく険しい顔をしてリアンのことを見つめたとき、屋敷の空気は張りつめていた。

「リアン、話がある」

「なんだい?兄さん」

「明日の夜、あの丘で会おう」

 その言葉に、リアンは覚悟を決めて頷いた。

「わかったよ」


***


 そして来る夜、兄弟は言葉を交わすよりも先に、その拳で語り合っていたのだ。


 サチはその日、花嫁衣装の最終の仕立てをしており、一日中部屋から出ることはなかった。

 二人はその隙に屋敷を抜け出して、町の外れにある小高い丘へと向かっていた。

 それは幼いころ、兄弟が何度も喧嘩をしていた場所でもあった。

 泥だらけになりながらも、ともに泣き、ともに笑ったあの丘の上へと。


 いま再び、彼らはその場所に立ち思いのたけを打ち明けていた。

「……リアン。サチのことを、どう思っているんだい?」

「好きだよ、好きになっちゃったんだ!この想いは、もう止められないんだ」

「そうか……」

 ロレンは深く息を吐きながら、弟の姿をまじまじと見つめた。


 数年前よりも逞しくなった体格に、日に焼けた肌。

 南方の影響を受けたせいか、さらに快活な話し方になりその笑みも太陽のように明るくあった。

 情熱的にサチを求めるその姿に、ロレンは羨ましく思いながらも拳を握った。

 サチの夫として、負けるわけにはいかなかったのだ。


「兄さんに勝ったら、サチさんと一度だけでいい。デートをさせてくれ!」


 リアンの声は、冗談のようでいて本気でもあった。

「そのようなこと、私が許すわけがないだろう?」

 二人は言葉を超えて、その想いをぶつけあう。


 最初は、リアンが優勢であった。

 彼には若さと、勢いがあったのだ。

 しかしロレンの拳には、理屈ではないような強い力が宿っていた。

 それは、愛する者を守る力でもあったのだ。

 サチを傷つけまいとする、誠実な決意がその拳には込められていたのだ。


 いつしか互いの息は切れ、頬が赤く腫れ。

 冷ややかな風が二人の間を吹き抜けるころに、勝敗は決した。


 ロレンが立ち、リアンが地に手をつく。

「……兄さん、何をしているんだろうな、俺たち」

 そうリアンが、息を吐く。

 ロレンは無言のまま膝をつき、弟の肩を掴んだ。

 その手には、怒りも恨みもなかった。ただ兄弟としての愛情と理解が、含まれていたのだ。

「ははっ、……兄さん、血がついてる」

 リアンは懐から布を取り出し、ぐいとロレンの頬を拭ってみせた。

「お前のほうこそ、……」

 ロレンもまた、乱れた弟の髪を優しく撫でつけた。


 幼いころと何ひとつ変わらない仕草に、二人は思わず声をあげて笑ってしまう。


***


 帰り道、ロレンはふと小さくこぼした。

「先ほどの件だが、私を含めた三人でなら……サチとの外出を許そう」

「兄さん!」

 途端に、リアンの声は弾む。

「近頃は、屋敷にこもりきりになってしまっていたからな。サチの気分転換にもなるだろう」

「で、いつ行く?」

「……そうだな、次の週にでも行くとしよう」


 二人は、夕焼けの丘を並んで歩いた。

 その横顔には、どちらにも小さな笑みが浮かんでいた。


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