新たな春の訪れ
長い冬が終わり、ロレンの屋敷の庭園には淡い桃色の花が咲きはじめていた。
春の陽はやわらかく、光が差し込むたびにサチの頬をあたたかく包みこむ。
窓辺のカーテンを揺らす風には、どこか懐かしいような香りがあった。
サチは花瓶の水を替えながら、静かに胸の奥に広がる幸福を噛みしめていた。
――もうすぐ、挙式の日ね。
ロレンと共に暮らしはじめてから、季節は三度巡っていた。
穏やかな日々の中で、二人は仲睦まじく過ごしていた。
その朝、使用人のうちの一人が申し訳なさそうにサチに向けて頭を下げていた。
「申し訳ございません、果物を買い忘れてしまいました。すぐに誰かを……」
しかし使用人たちは挙式の準備で忙しく、手の空いている者などいなかった。サチはその様子を気にかけて、笑みを浮かべてこう告げた。
「大丈夫よ、私が行くわ」
サチは簡素な衣服に着替えてから、すぐに戻ると言い残して屋敷を出た。
久しぶりに町へ降りるのも、悪くないと思ったのだ。そして、この春の光を肌で感じたいとも思っていた。
外は風が穏やかで、やはり陽射しがまぶしくあった。
行き交う人々の声に、屋台から漂う焼き菓子の甘い香り。サチは小さな籠を手に、果物屋で赤く熟れたリンゴとオレンジを選んでいた。
――ロレンは、これを気に入るかしら。
そう思うと、自然と頬がゆるんだ。
***
帰り道、角を曲がったときに、サチは急に現れた誰かとぶつかってしまう。
「すみません!」
慌てて頭を下げたその相手を見た瞬間、サチの顔からは静かに血の気が引きはじめる。
「エレ……」
それはかつての幼馴染であり、近頃は悪い噂が絶えることのない男の姿であった。
サチの姿を目に入れた途端に、エレは嘲るように笑ってみせた。
「なんだ、サチじゃないか!随分と、みすぼらしい格好をしているんだな。ついに、旦那様にでも捨てられたのか?」
サチの胸の奥に、冷ややかな空気が流れ込む。
その物言いも態度も、昔よりも悪いものとなっていた。
しかしサチは、もうあの頃のサチではなかった。静かに、しかしはっきりとエレの目を見て口を開く。
「いいえ。私は、幸せに過ごしていますので」
「ふん、どうかな」
そうエレは、鼻で笑う。その眼差しには、わずかな軽蔑と嫉妬が混ざっていたのである。
風の噂では、彼も結婚していたはずであった。しかし家を顧みず、夜な夜な遊び歩いていると町では言われていた。
サチはこれ以上、この男に関わりたくはなかった。
言葉を残さずその場を離れようとするものの、背後から勢いよく腕を掴まれてしまう。
「まあ行くところがないなら、愛人にしてやらないこともないけどな!」
その瞬間、サチの身は強く震える。
「嫌よ、離して!」
「駄目だな、せっかくまた会えたんだ。どうだ?俺の家に来いよ、少しはマシな服を見繕ってやるからさ」
サチがその手を振り払おうとした、そのときのことであった。
「君たち、何をしているんだい?」
よく通る声が、辺りに響き渡る。
振り向けば、そこには異国の陽を浴びたようなこの辺りでは見ない風貌の男が立っていた。
黒褐色の髪、よく焼けた肌、そして輝く金の瞳。
「お前には、関係ないだろ!」
吐き捨てるように、エレが言う。
しかし男は迷いなくエレの手を掴み、力を込めてサチの腕を解放してみせる。
「関係ない?……へえ、嫌がる女性に無理を強いているようにしか見えなかったけど?」
その低く強い声に、周囲の人々は振り返る。
エレは舌打ちをして、気まずそうに顔を背けて去っていく。
大きな風が、通り抜けていく。
サチはほっと息をつき、男に向かって深く頭を下げる。
「助けていただき、ありがとうございます」
「いいや、気にしないでよ。それより、大丈夫だった?痛くなかったかい?」
「ええ、大丈夫ですので」
そして地面に散らばった果物を拾おうとすると、男は先にそれを拾い上げてサチに向けて手渡した。
「どうぞ」
「すみません、ありがとうございます」
その優しさに、サチは礼として果物のうちの一つを差し出そうとする。
「よかったら、これを……。大したものではありませんけど」
しかし男は首を振り、代わりにその大きな手をサチに向けて差し出してくるではないか。
サチは首をかしげるものの、男は人のいい笑みを浮かべてこう告げた。
「それなら、俺に少し君の時間をくれないかい?久しぶりにこの町に戻ったばかりでさ、景色も変わって、道もよくわからなくなっちゃって……」
あまりに率直な申し出に戸惑いながらも、サチは思う。
――危険な人では、なさそうだけど……。
「長い仕事を終えたばかりで、やっと家族に会いにいくところだったんだ。君さえよければ、お願いしたいんだけど……どうかな?」
困ったように眉を寄せるその表情に、サチは断ることができずにいた。
「……わかりました。このあたりなら、ご案内しましょう」
「いいの?お姉さん、ありがとう!」
歩きながら、リアンと名乗るその男は自らの長い旅の話をサチに向けて語ってみせた。
サチはその話を聞きながら、時折短く相槌をうつ。
「仕事とはいえ、羨ましいです。私は、あまり外には出ないものですから」
「そうなんだ。あっ!……この広場は、昔は鍛冶屋だったところかな?」
「ええ。今は、雑貨屋さんになっています」
「しばらく見ない間に、変わっちゃったなあ」
「そうですね。このあたりは特に、後を継ぐ方がいなくなってしまったと聞いたことがあります」
「そうだったんだね」
リアンはサチの言葉を耳にしながら、その穏やかな語り口にどこか懐かしさをおぼえていた。
そしてふと、考える。
この女性は、どこかの屋敷で働いているのではないのだろうかと。その服装は質素ではあるものの、立ち居振る舞いには品があった。白く細い手は少し荒れていたが、その顔には澄んだ強さがあるように見受けられた。
すべての案内を終えたあと、リアンは晴れやかな笑みを浮かべてサチの手を軽やかに取っていた。
「また、君に会いたい」
その言葉に、サチはわずかに驚きながらも小さく首を横に振る。
「私には、夫がいるんです。申し訳ないですけど、また会うことはないと思います」
そして今度は、リアンの目が見開かれる。
「君の夫は、君に一人で買い物をさせているというのかい?」
その声には、怒りすら含まれていた。
サチは苦い笑みを浮かべて、首を振る。
「今日は私が望んで、出てきただけなんです……。だからどうか、気にしないでください」
しかしリアンは納得のいくような顔をせず、サチの手を強く握っていた。
「じゃあ、せめて君の家まで送らせてくれないかい?またもし君にの身に何かあったらと思うと、ご主人に申し訳が立たないよ」
その誠実な言葉に、サチは根負けして頷いていた。
「……わかりました。では、屋敷までお願いします」
サチは静かに手を離し、リアンはその数歩後ろを歩いていた。
その姿はまるでうやうやしい護衛であるかのようにも思われ、サチは足早に屋敷への道を歩きはじめる。
屋敷へと続く坂道を上がっていると、道の向こうからロレンが姿を現した。
「あなた!」
思わずサチがあげたその声に、ロレンは振り返る。
「サチ!……よかった、心配していたんだよ?」
サチの姿を目にして、ロレンの顔には安堵の表情が浮かぶ。
しかし次の瞬間、ロレンの目はその背後へと向けられる。
「……リアン?もしかして、リアンなのか?」
その言葉に、リアンはばつの悪そうな顔をしてロレンに言葉を返す。
「そうだよ。……久しぶり、兄さん」
リアンは道中、その馴染みのある景色にもしかしたらサチは自らの家の新しい使用人なのではないかと考えていたのだ。
しかしサチが声を上げた瞬間に、その推測は彼の予想をはるかに超えてしまう。
屋敷の使用人だと思っていた女性は、自らの兄の妻であったのだ。
そしてサチもまた、目の前で交わされる会話に驚いていた。
リアンは、ロレンの弟であったのだ。
「どうして二人が、一緒に?」
その問いかけに、リアンは軽やかな笑みを浮かべて両手を上げる。
「まさか、兄さんの奥さんだとは知らなかったんだ。変な男に絡まれていたようだったから、助けてあげたんだよ?この辺りも、一人は危ないと思ってさ」
「そうだったのか。……助かった。ありがとう、リアン。サチ、君が無事でよかったよ」
そうサチの身を抱きしめるロレンに向けて、サチは頬を赤く染めながら囁いた。
「あなた、人前ですよ?」
「構うものか、なかなか帰ってこないから心配していたんだよ。サチ」
「すみませんでした。でも、リアンさんに助けていただきましたので」
その背後で、リアンは先ほどまでのことは言わないでくれとサチに向けて身振り手振りで伝えていた。
サチは静かに頷きながら、ロレンの背を撫でていた。




