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穏やかな春を迎えたい  作者: 陽花紫


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5/9

秋は過ぎ冬が訪れる

 夏の光が和らぎ、肌寒い秋が通り抜けるころ。

 サチはついに、ロレンの屋敷へと移り住むこととなっていた。


 その日、父と母は笑ってサチの身を送り出していた。

「サチ、くれぐれも無理はしないでね?」

「お前の幸せが、父さんと母さんの一番の幸せだ」

 母の目元にはうっすらと涙が浮かんでいたが、サチはそれを見て微笑み、深く頭を下げていた。

「父さん、母さん、これまでありがとう。……私、幸せになるね」


 ロレンの屋敷は、町の少し高い丘の上に位置していた。

 石畳を上がると、緑の蔦が絡む大きな屋敷が姿を現す。

 奥に広がるのは白い壁に広い庭園、サチは夏に訪問した日のことを思い返していた。

 そして、その後に交わされた初めての口づけのことも。


***


 門の前では、いつかの日のように使用人たちが並び、サチに向けて頭を下げていた。

「ようこそ、お嬢様」

 その呼び方に思わず身を引いたが、ロレンは隣で優しく笑う。

「慣れないかもしれないけれど、皆、あなたを歓迎しているんだ。どうか、気を楽にしてもらえると嬉しいよ」

 その言葉に救われながら、サチは背筋を正して足を踏み入れた。


 ロレンの両親は、想像していたよりもはるかに穏やかな人たちであった。

 父は見合いの場で顔を合わせていたものの、その顔にはあの時目にすることがなかった穏やかな笑みが浮かんでいた。母は温かい声でサチの身を強く抱きしめ、やっと会えたと喜びをみせていた。

「サチさん、あなたみたいな方がこの屋敷に来てくれて本当に嬉しく思っているよ。ロレンは昔から少し不器用なところがあるからね、よろしく頼みます」

「父さん、」

 ロレンが、少し恥ずかしそうに眉を寄せる。

 そのやりとりを見て、サチは自然と笑みをこぼしていた。


***


 初めて迎える屋敷での日々は、そのすべてが新鮮なものであった。

 朝は厨房から漂う香ばしいパンの匂いで目を覚まし、昼は庭に咲く花を眺めて時を忘れる。家事は使用人たちが行っていたものの、暇を持て余すサチはそれを手伝わずにはいられなかった。


「どうか、お嬢様はお休みください」

 と伝えられても、サチは大人しくすることができないでいた。

「少しだけ、お願いします」

 そう頼まれてしまっては、使用人たちも見て見ぬふりをすることしかできなかった。

 しかし誰も嫌な顔はせず、むしろ彼女の素朴な働きぶりに密かに心を和ませていたのである。


 夕暮れ時、ロレンが作業場から戻ると、サチは必ず扉の前で出迎えていた。

「おかえりなさい」

「ただいま。……今日もここに君がいてくれて、ほっとするよ」

 そのたびに、サチは胸が温かくなった。


***


 ロレンの弟は、外交のために遠い街へと旅立っているとサチは聞いていた。


 屋敷の中は広いわりにはとても静かで、代わりに風の音がよく響いていた。

 その静けさの中で、サチとロレンは少しずつ互いを知っていく。


 ロレンは日々の事業において、次第にその迷いや悩みをサチに向けて素直に打ち明けるようになっていく。

 そしてサチもまた、ロレンの背を撫でながら静かにその話に聞き入っていた。

「今日は、取引のことで父さんと意見が合わなかった」

「あなたの考えは、きっと間違ってなんかいませんよ」

 サチは静かに、言葉を返した。

「どうして、そう思うんだい?」

「……あなたは、人の気持ちを見ようとする方です。数字よりも、人を信じる。その強さがあるからこそ、今後を考えて金額を重視する義父様と今回は意見が合わなかっただけかと」

 ロレンは少しだけ黙り、しかしその後にふっと微笑んだ。

「ありがとう。サチの言葉は、不思議だね。聞くだけで心が軽くなるような気がするよ」

 そう告げたロレンの眼差しは柔らかく、しかしどこか熱を帯びていた。


 ともに暮らす日々のなかで、二人の距離はさらに近づいていたのである。

 目が合うと、言葉がいらなくなる瞬間が増えていた。その手は自然に繋がれ、いつしか互いに寄り添うように笑みを交わしていた。


 ある日、サチが庭園で花を摘んでいたとき、ロレンは何も言わずに立ち止まりその姿をただ静かに見つめていた。

 使用人たちはその様子を微笑ましく見守り、屋敷全体があたたかな空気に包まれていた。


***


 やがて季節は巡り、何度目かの冬が訪れる。

 サチにとって、それは特別な季節でもあった。


 夜、冷たい風が窓を叩く音を聞くたびに、胸が締めつけられるような思いがあふれ出る。

 ロレンの屋敷においても、サチは私室の暖炉の火が弱まると、いてもたってもいられずに薪を足していた。


 ――決してその火を、絶やしてはいけない。


 その思いが、場所を変えてもなお体の奥底に刻まれていたのだ。


 ある夜、書斎から出てきたロレンはそのようなサチの後ろ姿を見つめていた。

「君は、寒がりだったのかい?」

 振り返ったサチは、少し戸惑いながら首を横に振る。

「いいえ。そういうわけではなくて……」

「では、どうしてそんなに薪を?」

 サチは手の中の薪を見つめながら、静かに息を吸った。

「……ある、夢を見たんです」

 その声はひどく、震えていた。

「寒い部屋で、ひとりきりで……息ができなくなって。目が覚めたら、この世界にいた。そのような夢を、時々思い出すんです。きっと私の前の人生の……最後の記憶なんだと思います」

 ロレンは黙って、サチを見つめていた。

 その表情は驚いた様子でもなく、ただ真剣に、彼女の言葉を受け止めようとしていた。


 やがてロレンは静かに歩み寄り、サチの手を優しく取る。

「この場所では、何も不安に思うことはないよ」

 それは至極、穏やかな声であった。

「何かあれば、すぐに皆が気がつくよ。……それに、サチは私の腕の中にいればいいんだよ。そうすれば、寒くはないはずだから」

 そしてそっと、その身を抱きしめた。

 サチの頬はロレンの胸に触れ、かすかにその鼓動が伝わる。

 その音はとてもあたたかく、思わず涙があふれそうになってしまう。

「ロレン……」

「もう少し、このままでいよう」


 火のはぜる音が、遠くで小さく響いていた。

 外の風は冷たいものであるというのに、部屋の中は、確かなぬくもりであふれていた。


***


 それからというもの、夜になるとロレンは必ずサチをその身に抱いて眠るようになっていた。

 広い寝台の上、ロレンの腕に包まれると、不思議とサチの心は安らぐ。

 もう冷たさも孤独も、ここには存在しない。ロレンの胸の鼓動とともに、夜はゆっくりと溶けていく。

 サチは一人、静かに思う。


 ――あのときの寒さはきっと、このぬくもりに出会うためだったのね。


 外では、雪が舞っていた。

 窓の向こうの白い世界に、二人の影が寄り添って映しだされていく。

 それはまるで、一つのともしびようでもあった。

 決して消えることのない、愛のともしびであったのだ。


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