春の次に結ばれる
季節は過ぎ、陽の光は日増しに強くなり、爽やかな風が青葉を揺らしていた。
町の空気は少しずつ、夏の気配を帯びていたのだ。
その日サチは、家の手伝いを終えてよく晴れた裏庭へと出ていた。
洗いざらしの白い布が風に舞い、陽の光を受けて透き通る。草の上では、その淡い影が揺れていた。
「サチ、またロレンさんからお手紙よ?」
そう知らせる母の声に、サチの胸はどきりと高鳴る。
ここのところロレンの家は忙しく、二人は顔を合わせる機会が減っていた。
せめて言葉のやり取りだけでもと、サチは時間を見つけてはロレンに対して手紙を送っていたのだ。そして、その返事は日を空かずして届けられる。
サチは整った筆跡を目で追いながら、わずかに笑みを浮かべていた。
――あと少しで、仕事が落ち着きそうです。もしお時間が合えば、一度私の屋敷にお越しください。
読み終えると、サチはしばらくその文章を指でなぞっていた。
***
ロレンの屋敷はサチの家よりも少し大きく、数人の使用人が控えていた。
「サチさん、今日はありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ。お招きいただき、ありがとうございます」
サチは目にするものすべてに驚きつつも、努めておしとやかでいようと控えめな笑みを浮かべていた。
そして案内された庭園は、青々とした木々に囲まれていた。
「素敵……!まるで、おとぎ話の世界に迷いこんでしまったみたい」
「ありがとうございます。母の、趣味なんです」
その中を並んで歩くと、鳥の声と風の音がかすかに響き渡る。
しばらくすると、小さな白いベンチへと辿りつく。二人はそこへ腰を下ろし、静かに互いの手を重ねていた。
「やっと、サチさんの顔を見ることができました」
ロレンはサチに向けて、変わらぬ笑みを浮かべていた。
そしてサチもまた、手のひらにわずかな力をこめながらロレンの顔を見上げる。
「私も……。ずっと、ロレンさんに会える日を楽しみに、家の手伝いを頑張っていました」
「すみません。急に仕事が立て込んでしまったせいで、サチさんには寂しい思いをさせてしまいましたね」
そしてそのお詫びにと、ロレンは懐からある小さな包みを取り出す。
「甘いものは、お好きですか?サチさんがいらっしゃるということで、母が持たせてくれたんです」
その包みの中には、小さな焼き菓子が入っていた。
わずかに甘い香りが漂い、木の葉を模した形の表面には金色の砂糖がまぶされていた。
「甘いものは、大好きです。とても綺麗ですね。いただいてしまって、いいんですか?」
「はい。お口に合えばいいのですが……」
サチは早速そのうちの一つを摘み、口の中へと運ぶ。
ほどよい甘さが広がり、たちまちその顔には笑みが浮かびあがる。
「おいしいです、とても」
「よかった。母は、あなたのことをひどく気に入っているようで……」
「……えっ?」
ロレンは視線をそらし、少しだけ苦い笑みを浮かべる。
「手紙の返事が丁寧だと、しきりに褒めていましたよ」
その言葉に、サチは頬が熱くなるのを感じていた。
手紙はいつも、何度も下書きをしてから丁寧に書いていたからだ。
それは日々の天気のことや、家のこと、町のことや風のことなど。どのような話題なら彼が喜ぶか、言葉を選ぶたびに時間が過ぎていたものでもある。
――そんなふうに、読んでくださっていたのね。
午後の陽が傾きはじめるころ、二人は並んで本を読んでいた。
ロレンが貸し出したのは、とある旅人の手記であった。
「この人は、たくさんの国をその目で見てきたんですね……」
しみじみとサチが呟くと、ロレンもまた深く頷いた。
「外の世界に憧れてしまうというのは……少し、子供じみた考えでしょうか」
「いいえ。私も、知らない場所を見てみたいと思うことがありますよ?」
二人は互いに笑みを浮かべながら、ページをめくる。
そのかすかな音だけが、静かな庭に響いていた。
ふと、ロレンが小さく息をついた。
「……サチさん、」
「はい」
ロレンは本を閉じ、しばらく黙り込んでしまう。
その姿を、サチは心配そうな面持ちで見つめていた。
そして、ためらいがちに言葉を探すように再びロレンは口を開いた。
「時々、不安に思うんです」
「不安?」
「このままでは、私は家の期待にも応えられない。……弟は優秀ですし、私の居場所が、いつかなくなってしまうのではないのかと」
サチは黙って、その言葉に耳を傾けていた。
ロレンの声は落ち着いていたが、その奥にある小さな震えをサチは感じ取っていたのだ。
そして再びロレンの手を取って、サチは語りかける。
「……私も、似たような気持ちを抱えたことがあります」
「えっ?」
「何をしても、誰かと比べられているような気がしてしまって……。でも、ロレンさんは優しいから、きっと人の痛みに気づいてしまうんです。それは、弱さなんかじゃありません。むしろ、ロレンさんの素敵なところだと思います」
ロレンはしばらくサチの顔を見つめ、それから静かに目を伏せた。
「……あなたは、時々怖いくらいにまっすぐな人ですね」
「……そうですか?」
「はい。そして、そのまっすぐさが……羨ましい」
ロレンはそっと立ち上がり、ベンチの脇に落ちていた小さな白い花びらを拾い上げる。
それは指の間でわずかに震え、あたたかな光を受けて透き通る。
「この花、好きなんです」
「どうして、ですか?」
「儚いものであるかのように、見えるからでしょうか。けれど散るまでの間は、ずっと光を追い求めているようにも思えます」
サチはその花を見つめながら、心の内でロレンの言葉を繰り返していた。
――儚くても、光を追い求めるもの。
それは、先ほどの彼の言葉そのものであるかのように思えていた。
帰り道、並んで歩くふたりの間を柔らかな風が通り抜けていた。
サチは小さく、呟いた。
「今日の空は、心なしかいつもより綺麗にみえますね」
「そうですね。夕暮れが、少し切ないようにも思えますが」
ロレンは歩みを緩め、サチのほうを見つめる。
「サチさん」
「はい」
「……いつも、ありがとうございます」
それは、短い言葉であった。
しかしその声の奥には、何か大切なものが秘められているようでもあった。
サチは笑顔で頷き、ただ一言だけ言葉を返す。
「こちらこそ」
二人の間に、柔らかな沈黙が落ちる。
「あなたのことが、大好きなんです」
その言葉と共に、ロレンは静かにサチの頬へと唇を寄せた。
サチは驚きに目を見開くものの、次の瞬間には笑みを浮かべてロレンの手を取っていた。
「私も、大好きです。ロレンさんのことが」
二人は互いに笑みを交わし、触れるだけの口づけを交わした。




