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穏やかな春を迎えたい  作者: 陽花紫


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3/9

春の市の思い出

 新たな出会いを経たあとのサチの日々は、ゆるやかに流れていた。

 朝露に濡れた小道を歩くと、土の香りと草の匂いが胸の奥に広がるようでもあった


 見合いのあと、サチのもとにはロレンの家から丁寧な手紙が届いていた。


 ――もしご迷惑でなければ、次は町の市にご一緒できたら嬉しいです。


 控えめな文面ではあるものの、サチはその文字を読み返すたびに胸を温かくさせていた。

 そのようなサチの様子を見て、母は微笑みながら頷く。

「よかったわね、サチ。春の市は賑やかで、きっと花も見ごろよ?」

 父もまた、嬉しそうに呟いていた。

「お前の笑顔を見ていると、なんだか母さんの若い頃を思い出すよ」

 サチは照れながらも、その日がくるのを楽しみにしていた。


***


 春の市の日は、風も穏やかで晴れやかな空であった。

 待ち合わせの場所である広場の木の下へとサチが向かうと、そこにはすでにロレンが立って待っていた。

 白いシャツに淡い灰色の上着を身にまとう彼の姿は、見合いの場よりもわずかにくだけた印象を与えていた。

「おはようございます、ロレンさん」

 サチが声をかけると、ロレンは少し驚いたように顔を上げ、それから穏やかな笑みを浮かべる。

「もう、来てくださったんですね?よかった、待ちきれなくて早く来てしまったところだったので……」

 その言葉に、サチの胸が静かに高鳴る。


「では、行きましょう」


 市は、多くの人でにぎわっていた。

 屋台の香ばしい匂い、子供たちの笑い声、春風に舞う花びら。サチは目を輝かせながら歩き、ロレンはその隣をゆったりと歩いていた。

「こうして歩くのは、私も久しぶりなもので。なんだか、いいですね」

「えっ?」

「いつもは家の仕事ばかりで、外に出ても用事だけですから。……それに今日は、サチさんといるせいかとても楽しいように思えます」

 ロレンの声には、落ち着いていながらもわずかな優しさが含まれていた。

 サチはその響きに、胸の奥が温かくなるのを感じていた。

 時折なびく巻き毛に、柔らかな金の瞳。その姿はまるで春のあたたかな陽の光のようでもあった。


「ロレンさんは、何をしているときが一番楽しいんですか?」

「楽しいとき、ですか」

 ロレンは少し考え、おもむろに空を見上げた。

「やはり仕事に打ち込むか、本を読んでいるときでしょうか。黙々と作業を進めたり、静かに物語の世界を感じているほうが、私の身には合っているのかと」

「……わかります」

 サチも思わず、小さく頷いた。

「私も、家族の手伝いをしているときもそうですし……本を読むのも好きなんです」

 その瞬間、一際大きな風が二人の髪を揺らす。

 サチが手にしていたレースのハンカチが、その風にさらわれてしまう。

「あっ……!」

 サチが追いかけようとした瞬間には、隣にいたはずであるロレンは素早く動き出していた。

 軽く駆け抜け、宙に浮かぶハンカチを軽やかに掴み取る。

「よかった、間に合いましたよ」

 息を弾ませながら戻ってきたロレンの額には、薄く汗がにじんでいた。

 その姿に、サチの胸の鼓動は速くなる。

「すみません、ありがとうございます」

 ハンカチを受け取る指が、わずかに震えた。

 ロレンはそれに気づいたように、そっと目を細めて笑みを浮かべる。

「今日は風が、強いですね」

「そうですね」

「もしよろしければ、サチさんも風にさらわれてしまわないように……。その、手を繋いでもいいですか?」

 その言葉に、サチは頬に強い熱が集まるのを感じていた。

「……はい、喜んで。しっかり、繋いでいてくださいね」

 静かに重ねられた手のぬくもりに、サチは心地よさを感じていた。

 まるで春の陽だまりのようなあたたかい人であると、サチはロレンに心惹かれていた。


***


 夕暮れ時、サチはその名残り惜しさを胸に押し込めていた。

 ロレンは軽く会釈をし、少しだけ言葉を選ぶようにしてこう呟いた。

「またよろしければ……。来週もぜひ、ご一緒していただけませんか?」

「もちろんです。私も、……また、楽しみにしていますね」

 その言葉に、ロレンは穏やかな笑みを浮かべる。

 サチもまた、笑みを浮かべながらその姿を見送った。


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