春の市の思い出
新たな出会いを経たあとのサチの日々は、ゆるやかに流れていた。
朝露に濡れた小道を歩くと、土の香りと草の匂いが胸の奥に広がるようでもあった
見合いのあと、サチのもとにはロレンの家から丁寧な手紙が届いていた。
――もしご迷惑でなければ、次は町の市にご一緒できたら嬉しいです。
控えめな文面ではあるものの、サチはその文字を読み返すたびに胸を温かくさせていた。
そのようなサチの様子を見て、母は微笑みながら頷く。
「よかったわね、サチ。春の市は賑やかで、きっと花も見ごろよ?」
父もまた、嬉しそうに呟いていた。
「お前の笑顔を見ていると、なんだか母さんの若い頃を思い出すよ」
サチは照れながらも、その日がくるのを楽しみにしていた。
***
春の市の日は、風も穏やかで晴れやかな空であった。
待ち合わせの場所である広場の木の下へとサチが向かうと、そこにはすでにロレンが立って待っていた。
白いシャツに淡い灰色の上着を身にまとう彼の姿は、見合いの場よりもわずかにくだけた印象を与えていた。
「おはようございます、ロレンさん」
サチが声をかけると、ロレンは少し驚いたように顔を上げ、それから穏やかな笑みを浮かべる。
「もう、来てくださったんですね?よかった、待ちきれなくて早く来てしまったところだったので……」
その言葉に、サチの胸が静かに高鳴る。
「では、行きましょう」
市は、多くの人でにぎわっていた。
屋台の香ばしい匂い、子供たちの笑い声、春風に舞う花びら。サチは目を輝かせながら歩き、ロレンはその隣をゆったりと歩いていた。
「こうして歩くのは、私も久しぶりなもので。なんだか、いいですね」
「えっ?」
「いつもは家の仕事ばかりで、外に出ても用事だけですから。……それに今日は、サチさんといるせいかとても楽しいように思えます」
ロレンの声には、落ち着いていながらもわずかな優しさが含まれていた。
サチはその響きに、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
時折なびく巻き毛に、柔らかな金の瞳。その姿はまるで春のあたたかな陽の光のようでもあった。
「ロレンさんは、何をしているときが一番楽しいんですか?」
「楽しいとき、ですか」
ロレンは少し考え、おもむろに空を見上げた。
「やはり仕事に打ち込むか、本を読んでいるときでしょうか。黙々と作業を進めたり、静かに物語の世界を感じているほうが、私の身には合っているのかと」
「……わかります」
サチも思わず、小さく頷いた。
「私も、家族の手伝いをしているときもそうですし……本を読むのも好きなんです」
その瞬間、一際大きな風が二人の髪を揺らす。
サチが手にしていたレースのハンカチが、その風にさらわれてしまう。
「あっ……!」
サチが追いかけようとした瞬間には、隣にいたはずであるロレンは素早く動き出していた。
軽く駆け抜け、宙に浮かぶハンカチを軽やかに掴み取る。
「よかった、間に合いましたよ」
息を弾ませながら戻ってきたロレンの額には、薄く汗がにじんでいた。
その姿に、サチの胸の鼓動は速くなる。
「すみません、ありがとうございます」
ハンカチを受け取る指が、わずかに震えた。
ロレンはそれに気づいたように、そっと目を細めて笑みを浮かべる。
「今日は風が、強いですね」
「そうですね」
「もしよろしければ、サチさんも風にさらわれてしまわないように……。その、手を繋いでもいいですか?」
その言葉に、サチは頬に強い熱が集まるのを感じていた。
「……はい、喜んで。しっかり、繋いでいてくださいね」
静かに重ねられた手のぬくもりに、サチは心地よさを感じていた。
まるで春の陽だまりのようなあたたかい人であると、サチはロレンに心惹かれていた。
***
夕暮れ時、サチはその名残り惜しさを胸に押し込めていた。
ロレンは軽く会釈をし、少しだけ言葉を選ぶようにしてこう呟いた。
「またよろしければ……。来週もぜひ、ご一緒していただけませんか?」
「もちろんです。私も、……また、楽しみにしていますね」
その言葉に、ロレンは穏やかな笑みを浮かべる。
サチもまた、笑みを浮かべながらその姿を見送った。




