運命の春
春の朝は、どこまでも澄みわたっていた。
屋根には朝露が光り、通りを吹き抜ける風が、まるで新しい季節の香りを運んでくるようでもあった。
その日サチは鏡の前に立ち、念入りに髪を梳かしていた。
母が用意した淡い桃色のワンピースは、肩に小さなレースがあしらわれており、動くたびに光を受けてやさしく揺れていた。
普段簡素な服に身を包むサチにしては珍しいこの装いは、見合いのための服であった。
それは、これまでの人生で自らを一番”少女”として意識させる装いでもあった。
その姿を見つめながら、サチは自らの胸が高鳴るのを感じていた。
――相手は、どんな人なんだろう。
「準備はできたかい?」
父の声が、階下から響く。
「はい、いま行きます」
その声は、わずかに震えていた。
小さく深呼吸をしてから、サチはゆっくりと階段を降りていく。
母がその姿を見て、目を細める。
「まぁ、なんて綺麗なの……!相手の方もきっと、見とれてしまうわねぇ」
「もう、母さんったら……」
頬を染めるサチに、父が笑いながら声をかけた。
「そんなに緊張しなくてもいいんだよ。まずは顔合わせだけだからな。きっと相手の子も、サチと同じくらい緊張しているはずさ」
その言葉に、サチは少し肩の力を抜いた。
――そう、きっと……。そうよね。
***
見合いの場所は、町外れにある小さな屋敷であった。
そこは商家の者ならいつでも借りることができる、会合や商談の場に使われるような場所でもあった。
爽やかな風が吹き抜け、開け放たれた窓の向こうでは花々が揺れていた。
淹れられた薄く香る茶葉の匂いが、わずかに緊張するサチの心を落ち着かせていた。
サチが父とともに待っていると、しばらくしてその扉が開く。
そこには一人の青年と、その父親と思わしき人物が立っていた。
「本日は、よろしくお願いいたします」
サチよりも二つ年上であるという青年はロレンと名乗り出て、サチの向かいの席へと腰を下ろす。
サチから見た第一印象は、“穏やかな人”であった。
仕立てのいい上着を着てはいるものの、それを誇るでもなく自然な立ち居振る舞いをしてみせる。
それは洗練された姿ではあるものの、時折静かに笑い目を細める姿には、どこか控えめな温かさのようなものが漂っていた。
柔らかな茶色の巻き毛に、淡い金の瞳がその姿をさらに落ち着きのあるものに彩る。
静かに言葉を交わしながら、互いはぎこちなく笑みを浮かべていた。
最初の会話は形式的なものではあったが、その中にもサチはどこか安心できる空気があると感じていた。
その話の合間に、目の前のロレンが少し照れたような笑みを浮かべるたびに、サチの緊張はいつしか自然と和らいでいた。
両家の父が話を進めている間、二人は静かにティーカップを持ち上げる。
ロレンの指先は細く、しかし働き慣れたようにその節が少し硬くなっていた。サチが何気なくそれに目をとめると、その視線に気づいたのかロレンはわずかに苦い笑みを浮かべて口を開いた。
「すみません、気になりますよね?この手……。私は子供のころから帳簿や荷物の整理をしていまして、いつの間に癖となってしまっていて」
「とても、働き者でいらっしゃるんですね」
「いいえ。実は弟の方がずっと、できるほうなんです。私はどうも、人の上に立つということが苦手でして……」
その言葉に、サチはふと目を見張った。
――この世界の男の人にしては珍しく、正直な方なのね。
このような場では見栄や嘘も交わされることがあると事前に父に聞かされていたサチは、ロレンのその誠実さに心を打たれていた。
やがて父親たちは席を外し、二人きりの時間が訪れる。
「実はこのお見合いは、父が勝手に決めたことでして……」
ロレンは少し困ったように眉を寄せて、サチに向かって頭を下げていた。
「気が乗らなければ、どうぞ気にせず……断ってください」
「いえ、そんな……!」
思わずサチは、首を横に振る。
そして、ロレンのその真摯な態度に胸が熱くなるような気がしていた。
この世界で誰かにそのようなことを言われたのは、初めてであったのだ。その気遣いに、サチはロレンの思いやりのあたたかさを感じていた。
「笑われてしまうかもしれませんが」
と、ロレンは言葉を続ける。
「私には、少し夢見がちなところがありましてね」
「夢、ですか?」
「はい。将来は、できる弟にこの家を継がせて、私は愛する家族と穏やかに暮らせたらと……。幼いころからそう、夢にみているのです」
そう言って、ロレンは照れくさそうに笑う。
その笑みを見た瞬間に、サチの胸がふっと軽くなったような気がする。
――この人となら、きっと……。
嫌味な自信に身を固めて、誰かを見下すことも、自らの意思を優先させることもなく、ただ静かに手を取り合いロレンは穏やかに寄り添ってくれることであろう。
サチはそのような将来の姿を思い描き、静かに頷いた。
「とても、素敵ですね。……私も、そんな暮らしに憧れます」
ロレンは目を瞬かせた後に、ゆっくりとサチに向けて微笑んでみせた。
「あなたも、ですか?」
「はい。私がいま暮らしている町では、皆が競い合うように働いていて……。でも、本当は穏やかに笑っていたいなって、ずっと思っていたんです」
思わず漏れてしまった自らの本音に、サチは驚いていた。
しかしロレンはそれを笑うことなく、むしろ優しい目をして深く頷く。
「同じ夢を持つ人がいるだなんて……。ありがとうございます。とても、心強いです」
そう言って、ロレンは自らの手をサチに向けて差し出した。
その手を取る瞬間、サチはようやく心から微笑むことができたのであった。
「私でよろしければ……その夢、一緒にみていきましょう」
ほんの少しだけ触れた指先が、とてもあたたかく感じられた。
それはまるで、凍える夜を越えたあとに訪れる、世界を初めて照らす春の陽射しのようでもあった。
***
無事に顔合わせを終えた帰り道、サチは馬車の窓から町の花々を眺めていた。
父は嬉しそうに笑みを浮かべ、時折サチに穏やかな視線を送っていた。
「ロレン君は、非常にいい青年だったね」
「ええ、本当に」
サチの声は小さかったが、その胸の内では確かな強い感情が芽生えていた。
それは恋というより、まだ淡い希望のようなものであった。しかし確かにあたたかく、柔らかなものでもあった。
――ロレンさんとならきっと、幸せになれるかもしれないわ。




