目覚めの春
胸の奥が、ひどく痛む。
その冷たい空気を吸い込むたびに、肺がきしむようでもあった。
どれほどの間、そうしていたのであろうか。指先の感覚はとうに失われ、目の前の世界は灰色に沈んでいく。
机の上には飲みかけの栄養ドリンクと、開いたままの資料のファイル。画面には締め切りを告げるメールが何件も受信されていた。
サチは自嘲気味に、笑っていた。
「……あーあ、またやっちゃった」
暖房をつけ忘れた部屋は寒く、おまけに外では大量の雪が降っていた。
傘をたたみ、肩にかかる雪を払いながらサチは外と変わらぬ冷たい部屋へと足を踏み入れる。
暖房器具のスイッチを入れて、どさりと横になる。
「もう無理、疲れた」
すぐに暖まることのない部屋に、ため息をつく。しかし今さらブランケットを取りに行く気力も彼女には残されていなかった。
スイッチを入れたはずの暖房器具は、何時間たっても動くことはなかった。
持ち主の知らぬ間に、壊れてしまっていたのだ。
そうしてサチは、そのまま静かに息を止めてしまう。
***
柔らかな光が、ふわりと頬を撫でていた。
そのあまりの眩しさに、思わずサチはゆっくりと瞼を開いた。そこに広がるのは、見知らぬ天井であった。薄いレースのカーテンが揺れ、窓の外では風に乗って鳥たちのさえずりが響いていた。
あの時とは違い、ひどくあたたかい。
窓辺を見ると、白や黄色、そして薄桃色の花が柔らかに咲き乱れていた。
季節は、春であった。
サチはこの世界に、前世の記憶を抱えたまま生まれ直していたのだ。
壁には絵皿が飾られ、机にはかつての世界では目にすることのないような形のランプが置かれていた。どこか西洋風の、古い町家のような部屋。
愛しい声でサチの名を呼ぶ母と、大きな背中で守ってくれる父とともにサチは暮らしていた。
しかし心の奥底には、確かにあの夜の冷たい記憶が今もなお残っている。
あの日の孤独と凍えるような静寂は、季節がいくつ巡っても決して消えることはなかったのである。
***
サチの家は、この町ではそこそこの商家でもあった。
両親は穏やかで、娘を心から大切にしていた。朝は母と一緒に掃除をし、昼は父の店で帳簿を運び、夕方には近所の子供たちと外で遊ぶ。そのような日々は、前世のサチにとっては信じられないほどの幸せなひとときでもあった。
「サチ、お花を摘みに行かない?」
その小さな声に振り向くと、近所の少女たちがサチに向けて手を振っていた。
サチは微笑みながらエプロンの紐を結び、外へと駆け出した。
爽やかな春の風が、そよそよと少女のサチの髪を撫でていた。
***
季節は穏やかに流れ、やがて冬が訪れる。
初雪が舞った日の朝、サチの体は自然と震えていた。窓の外の白い景色を見るたびに、あの胸の奥底に残った冷たさが戻ってくるような気がしていた。
前世の死の記憶が、ひたひたと押し寄せてくる。
サチは、冬が怖かった。
そのように震える彼女の肩をふと、誰かが軽く叩く。
「どうしたの、サチ。ひょっとして寒いの?」
振り向くと、そこには隣の家に住む少年エレが立っていた。
淡い金髪に空のような晴れやかな青の瞳を持ち、いつも朗らかで誰にでも優しい少年であった。
エレはサチと同じ年の幼馴染であり、近所でも評判の人気者でもあった。
「ううん、大丈夫」
「もうすぐ雪の精霊祭だよ?あっちで、皆と一緒に準備しよう」
エレはサチの手を取って、無邪気に微笑んでいた。
その手は、ひどくあたたかかった。
しかしサチの胸は、なぜだか締めつけられているかのように苦しくもあった。
エレと初めて出会ったころ、サチはその美しいその容姿に胸をときめかせていた。エレもまたサチのことを慕い、どこに行くにも何をするにも一緒に過ごしていた。
しかし互いに成長するにつれ、サチはエレのその性格になぜだか前世の人々の影を重ねてしまうのであった。
「サチ、この紐をここに通せば完成だよ?」
「……こう?」
「ちょっと違うかな、貸してみて。こうだよ」
「そう、ありがとう」
「もう、サチは遅いんだから。僕がぜんぶやってあげるよ、貸して!」
そう言って、エレはサチの紐を全て取り上げてしまう。
雪の精霊祭は、子供たちが家族全員の幸せを願って人数分の飾り紐を結わうという習わしがあったのだ。しかしエレはそれを知っていながらも、その全てを取り上げてしまう。
子供ながらの優しさであることはわかっているものの、サチの頭の中では前世の完璧主義で嫌味な上司の姿が思い浮かんでいたのだ。冷静で頭の回転が速く、常に人の中心で自信に満ちた笑みを浮かべているその男に、前世のサチは淡い恋心を抱いていた。
そのような男の姿が、目の前で微笑むエレに重なって見えてしまう。
――……やめて。もう恋なんか、したくない。
そう強く思うものの、エレに見つめられるとなぜだか頬は熱くなる。
それは前世の自らが築いた氷の壁が、少しずつ溶かされていくようでもあった。
「サチ、どうしたの?大丈夫?」
「……ううん。平気」
そう笑いながら、サチは再び手を引かれるまま子供たちの輪の中へと加わった。
祭りの準備の笑い声が響く中で、サチは心の奥でそっと呟いた。
――私はこの子のことなんか、好きじゃない。
それはまるで、自らに言い聞かせるようでもあった。
***
冬の日々、サチは家の暖炉の火を絶やさないようにと常に気を配っていた。
それは毎年のことであり、父と母はその姿をいつものことだと特に気にすることはなかった。
母に言われなくても薪をくべ、父のカップに温かなミルクを注ぐ。
「サチは、本当にしっかりしてきたわねぇ」
と、母は笑みを浮かべていた。
しかしそれは、恐怖の裏返しでもあったのだ。この冬の冷たさが、もう二度と誰かの命を奪わぬようにと。
サチは春を、心から待ち望んでいた。
***
やがて、春がやってくる。
雪は解け、地面から小さな芽がいくつも顔を出していた。
サチは庭に出て、そのひとつひとつに水をやっていた。頬にあたるあたたかな陽の光が、とても心地よく感じられる。
今年もようやく、サチは冬を越えることができたのだ。
サチは変わらず、穏やかな日々をおくっていた。
家の手伝いをしながら季節の移ろいを感じ、静かな幸福をゆっくりと噛みしめる。
いつしかエレを含む友人たちの背も大きく成長し、サチもまた年頃の娘へと成長していた。
「サチ、ちょっと町の外れまで買い物でもいかないか?」
「ごめんなさい、エレ。今日は母さんに留守を頼まれているの」
「そんなの、少しくらいいいんじゃないのか?」
「大事な荷物が届くから、必ず受け取るようにって約束したの」
「ふうん、つまんないやつ。……ま、いいや。リリィ達でも誘おうかな」
「楽しんできてね」
相変わらずエレは何かとサチのことを気にかけてはいたが、サチは必要以上に関わろうとはしなかった。
近頃のエレは自信に満ち溢れ、常に少女たちを侍らせていたのだ。
恋に憧れ春に輝く年頃の友人たちの姿を眺めながら、サチは思う。
――こんな私でも、この世界で誰かを愛することはできるのかしら。
そうささやかに願いながらも、サチはどこか離れた場所で世界を見つめていた。
***
ある日、父は珍しく一通の紙を手にしていた。
不思議そうに見つめるサチに対して、父は笑みを浮かべながらこう語りはじめる。
「サチに、いい話がきたんだよ」
それが、縁談のはじまりであった。
少女の新しい季節は、いま、静かに動き出そうとしていたのである。




