「Q」(Question)
この物語は、あなた達の世界ではフィクションに該当します。
線歴1963年、9月30日。
翌日10月1日にニューブリッジ―グランサカーツ間の雷幹線開業を控えた24時間前。
異世界ラインの歴史上最大のミステリー。
ファン・ラインの最も長い2日間が、はじまる。
――午前8時20分。
「よし……今日も頑張ろう」
マールは神池上に構えられた自宅を出た。
総裁らしく立派な家を持てと言われて買った家はプール付きの大豪邸。
だが、マールにとってはただの大きすぎるベッドルームでしかなく、
元々1日のほとんどを線路の見えるファン・ライン本社総裁室で過ごしていた。
そもそもエルフは古木の中の魔法空間に家を作る種族。
住みはじめて以来一度も水を入れられたことのないプールを含めて、
それはまさに、無理に世界とスタイルをあわせようとしたマールの歪みの象徴でもあった。
「おはようございます、総裁」
「おはよ。本社までよろしく」
家の前まで迎えに来ていた車に乗り込むマール。
かつてのマールは車嫌いで、車に乗るくらいならまだ馬車がいいと騒ぐほどだったが、
今はもうすっかり諦めもとい慣れている。
ワグナスを抜ける普段と何も変わらない出勤コース。
だが、レッドタワーを見上げる辺りで、ふとマールが呟いた。
「シュガーのところに行くんだった」
――8時50分
車が大通りに差し掛かる。
ここを右に曲がればニューブリッジ中央駅。
ファン・ライン本社はそのすぐ隣だ。
「ちょっと買い物がしたいな。
エチゴ屋に行ってくれる?」
「かしこまりました」
車は大通りを素通りし、しばらく進んで右へ。
ファン・ライン本社ビルを右手に見つつ高架下をくぐったところで、再びマールが呟く。
「10時までに神殿に顔出せばいいから……。
うーん……あ、シラカバ屋でもいいよ?」
確かに同じ百貨店で買い物をするにしても、
そこからはエチゴ屋よりもシラカバ屋の方が近い。
運転手はシラカバ屋前で一度車を止めたが。
――9時00分
シラカバ屋はまだ開店していなかった。
「まだ少し早いですね」
「うん」
――9時5分
エチゴ屋前を止まると「9時半開店」の看板が。
マールはしばしその看板を見て呆然とする。
「神殿にご用事があるのでしたら、先にそちらに向かいますか?」
「うん」
そのまま車は再び高架下をくぐるが。
「カミノタ駅に向かってくれる?」
「カミノタ駅ですか? かしこまりました」
カミノタ駅はニューブリッジ中央駅の隣。
マールが突発的に駅を視察し、
ついでに列車を眺めるというのはよくあることだった。
――9時15分
しかしカミノタ駅の前に車がついても、マールは扉を開こうとしない。
運転手が自分のドアを開いて降り、マール横の後部座席扉を開こうとするが、
マールはそれをジェスチャーで拒否。
きょとんとした運転手が再度ドアを開けて運転席に座ると。
「武菱銀行に行ってくれる?」
「かしこまりました」
車は一度ファン・ライン本社前を抜け、武菱銀行へ。
今度はマールも車を降りて、銀行の貸金庫へと向かった。
――9時35分
おそらく現金が入ったものであろう厚めの茶封筒をポケットにねじ込みつつ戻ったマール。
車に乗り込み、再度行き先を指示する。
「今ならちょうどいいでしょ。
エチゴ屋に行って」
「かしこまりました」
――9時40分
車はエチゴ屋南口前に横づけた。
今度はしっかりシャッターも開いている。
マールは自ら後部座席の扉を開けて降りると、運転席の窓ガラスを軽く叩いて。
「すぐ戻るから待ってて」
「かしこまりました」
エルフにとっての「すぐ」は平気で10年100年単位のことだったりもするのだが、
この運転手はマールの専属になってからそんな常識外れの時間を待たされたことはない。
この「すぐ」という言葉も、いつも通りならせいぜい5分かそこらだろう。
しかしマールはなかなか出てこない。
とはいえ、エルフの「すぐ」が人間の「すぐ」ではないことは種族ジョークの鉄板ネタ。
まぁ、そういうもんかと感じた運転手は気にせず待つことに決め、スマホの画面を開いた。
一方その頃、ファン・ライン本社では既にちょっとした騒ぎになっていた。
時間は少し巻き戻る。
――9時10分
「……総裁が来ない」
本社前でマールの車を待っていた社員はちらちらと何度も時計を確認し、一度本社内に戻る。
もう10分ほど待っていればマールの車がその目の前を通過していたのだが知るはずもなく。
「総裁はまだつかないのか?」
「はい……」
この日、ファン・ライン本社では9時から労使交渉に向けての打ち合わせが予定されていた。
明後日の雷幹線開通式典の打ち合わせもあるというのに、総裁は何をしているんだ。
「一昔前ならいざ知らず……
ご自宅に電話してくれ!」
この3年間、マールはまるで人が変わったように働いていた。
その働きを隣で見てきた本社詰めの社員達は、
今のマールが会議に遅れてくるなどありえないと異常事態を認識。
自宅に電話を入れハウスキーパーのメイドが受けるも
8時20分にはいつも通りもう出ていた、との報告が。
「一体何があったのだ?
そもそも今日は11時から組合最大派閥との交渉があるはず。
労働組合の動向を特別気にかけているはずの総裁が遅れるなど、ありえない」
――11時00分
ところかわって冒険者ギルド。
今日もんべんだらりと朝の駅弁を食べる冒険者ジュダ。
そこに電話のベルが鳴り響いた。
「お電話ありがとうございます~、
冒険者ギルドニューブリッジ支部でございます~」
電話に出たのはいつもと違うおっとりやわらか受付嬢。
女の魔性を漂わせるいつもの彼女よりも人気で劣るのは、
やはり冒険者なんて商売をやる男が本能的に危険を求める故なのか。
しかし、そのやわらかな声に緊張が走る。
「え? ファン・ライン総裁が消息不明?」
ジュダの眉がぴくりと動く。
(あの『鉄道女王』には前科がアリアリなんだが……)
ちらりと視線を向けた先の新聞記事では、
労使交渉と地元への説明に日夜奔走するマールの姿が。
3年間、心に無理をして働いた彼女の努力は確実に世間にも認められていた。
ファン・ラインは好きになれないが、
鉄道女王の頑張りは認めてもいい。
そんな声が聞こえてくるようになった頃合い、
そしてなにより、明日は雷幹線の開通式典だ。
「嫌な予感がしやがる」
ジュダが思い出したのは3年前の皇都。
偶然見かけた鉄道女王がだいぶ前にクソ長い名前の駅で出会った
かわいこちゃんと喧嘩していた時のこと。
(……やっぱり、あの嬢ちゃん。
フローレス・フローズン、だったのか?)
場面は再度ファン・ライン側に戻る。
マールの行き先を問われたシオンが眉をひそめる。
「そうは言ってもねぇ君。
私もそもそもマールの行き先の心当たりは……」
「どこでもいいんです! ちょっとしたことでもいい!
技術主任だって、最近の総裁のことは心配されていたでしょう!?」
「……していなかった、と言えば嘘になるねぇ。
だがマールに限って『最悪の決断』など……
いや、無いとは言えんのだが」
鉄道事業に関わる人間が言う『最悪の決断』
それは、すなわちホームへの飛び込みに他ならない。
「縁起でもないこと言わないでください!
総裁の幼馴染でしょう!?」
「幼馴染でリアリストさ。
ふむ、ニューブリッジ中央駅には居なかった。
カミノタ駅はどうかな?
彼女のことだ。
案外大好きな列車を見てぼけーっとしているかもしれないよ」
「そうであることを祈るばかりですよ……!」
――15時00分
ギルドに総裁失踪の連絡が入って4時間。
どこから話が漏れたのかSNSにも「鉄道女王消息不明」の第一報がタイムラインを駆け抜けた。
「すんません師匠! 遅れました!」
「いやよく戻ってくれたよジュニア!」
大音をたててギルドの門戸を開くジュニアことスタン。
修行の成果なのか弱々しかった体は立派に仕上がっており、見違えるほどだ。
「早速だが大事件だ。状況は知ってるな?」
「ファン・ラインの総裁が失踪したとか……」
「前科のある嬢ちゃんだが、どうにも嫌な予感がしてならねぇ。
今はギルド総出で嬢ちゃんの乗ってる車を探してんだ。
ジュニアも頼む!」
「わかりました!
秘境マッピングの修行の成果、見せてやりますよ!」
――17時00分
ファン・ラインはついに「鉄道女王行方不明」の発表へと踏み切る。
過去にも同じようなことはあったが、今回は明らかに事件性が感じられる。
それどころか、本当に「最悪」の結末すらも……
改めてニュースサイトが臨時ニュースとして発表すると、これを車で待機中だった運転手も目撃。
「た、大変なことになってるじゃないか!」
こうしてマールが最後に消息を断ってから7時間20分。
ようやく関係者達は、マールが消息を断つ直前の情報を手に入れた。




