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第5-2話

 目の前に広がる山。遠めに見ることはあるが、目と鼻の先に見るのは初めてだ。

 ああ、こんなに大きいのかと。小学生の様にはしゃぐことはできないけれど、心は小学生にも負けないぐらい、踊りだしそうなほどに舞い上がっている。


 ぽつぽつと白い雲がある、おおよそ青い空。ネットや写真では何度も見たはずの景色だけど、今初めて見たかのような感動だ。



「本当に、違うんだ」



『機械にも人の手でも再現できないそれが、そこにある』

『私が自ら行かなければいけない』

『踏みしめてきた苦労の果てにしか得られないものが、この世には存在する』

『努力に資格は必要ない』



 そんな言葉たちとともに飾られた写真。本当に、本当にその通りだ。写真だとしても、実際に見るのとでは大きく違う。感じ取れる情報量が段違いだ。その時その時で雰囲気も空気も変わる。同じものはない。



「自分で行かなきゃ、ダメなんだ」



 バスを降りて、そのまま立ち尽くす。垂らされた手は拳を握り、汗を握っている。上を向いた顎は空気を容易に肺まで通す。澄んだ空気は体を冷やす。耳に届く葉っぱの重なり、鳥の声、人の会話。すべて自然に発生している。これも、同じタイミングでは二度と聞けないものだ。



「マスター」

「ん?」

「こちらを」



 アルが背後から寄ってきて、何かを差し出してくる。受け取った掌からは綺麗な音が聞こえる。



「鈴……あ、熊避け」

「はい」

「もう暖かいもんね」

「わたくしから動物にしかわからない電磁波を放出しているので安全かと思いますが、念の為にお持ちください」

「わかった。ありがとう」



 登山の格好をしていない俺たちだが、目的地は初心者にも優しいようで、動きやすい軽装の人もちらほら見える。カメラをかけている人もいる。山の中を通るので野生の動物もおり、それこそ数少ない写真家たちは集まってくる。


 動物もそうだが、植物も豊富だ。そもそも標高が高くひんやりと澄んだ空気をしており、街中では見られない植物も多い。


 俺たち以外の来訪者たちも、きっと動植物が目当ての人たちだろう。申し訳ないが、動物たちは見られないかもしれない。



「行こう」



 スニーカーが土を踏む感覚。学校のコンクリートでも、砂利でもない。自然の、湿った土。庭とも違う、言いようのない差異。語彙力が足りないのがもどかしく、同時に「来てよかった」と思う。来ないとわからない感動があったんだから。



「なんか、可笑しくなる」

「どうしたのですか?」

「いや、そういえば、同級生たちは沖縄に行ってるのに、俺は北海道を満喫してて、なんだかなぁって」

「……そうですか」



 語彙力が足りないことで、アルには理解しがたかっただろう。


 みんなは北海道を出ることで楽しんでいる。できることなら俺も行きたかった。もちろん本音だ。強がってお土産を沢山買ってきて貰おうとしたが、それはそれで悲しくなったと思う。


 だけど、修学旅行に行けなかったからこそ、今はこうして、アルとちょっとした冒険を楽しんでいる。いや、全く『ちょっと』してない。大冒険だ。みんなはすでに経験しているかもしれないけれど、俺もみんなと同じように、知らない場所に出かけている。(小)旅行だ。

 スマホが気になったけど、意図的に見なかった。



 ―― 大丈夫、大丈夫。



 言い聞かせながら、目的地・磐溪市民の森の入口を前にした。マップがあり道、案内板、紅葉や見晴らしのいい場所、トイレなどわかりやすく書かれている。その中で、花の群生地は入り口から一番奥。一周するルートで折り返し地点だそうだ。



「ぐるっと回っていく感じなんだね」

「起伏が少なく歩きやすいとなっていますが、ご注意ください。お疲れになりましたらわたくしが」

「……何してくれる気?」

「抱き抱えます」

「結構です!」



 AIらしくない冗談はAI学習のおかげなのか。顔に集まった熱を覚ますように空気を切り、案内板を過ぎて散策路に入る。平日の昼間。人は少ないし、いてものんびりとした雰囲気で立ち止まって景色を見ている人もちらほらいる。途中でカメラやスマホを構えたり、双眼鏡でどこか遠くを見て指差していたり、今ではもうレトロな行動を物珍しく見る。


 メガネのレンズ横を回しているから、あれは双眼鏡を兼ね備えた奴だ。鳥に擬態したレンタルの小型ドローンで奥地を観察している人もいる。


 数少ない自然の楽しみ方は豊富で、内心、俺もやりたいと思った。



 ―― 次に来ることがあれば……。



 それは、ありえることを願った未来。けれど、明るく期待に満ち溢れたとは言い難い。期待などできない。今日が終われば、俺はそれこそ最期の希望として叶えられるかどうかだ。


 だからこそ、今を、今の情景をしっかりと目に焼き付けなければ。

 作られた山の中の道の端に寄って、立ち止まる。


 街中では見られない、視界を埋め尽くす緑。背が高く、差し込む光が遠い。チカチカと光は風と共に揺れて、プラネタリウムにいるみたいに思った。5月で日の光は暖かく高く感じていたのに、マイナスイオンのおかげなのか屋外の風はひんやりと冷たい。交通量の影響も少なくて済んだ空気が肺を満たす。人の話し声よりも多い、草の音色と鳥の声。鳥を探すのは一苦労だ。双眼鏡の必要性を身をもって感じている。



 ―― ああ、悔しいな。



 目いっぱい空気を吸った。これは俺の体の一部になって廻る。自分へのお土産……というのは少し気持ち悪いけれど、今この時にしか手に入らない貴重なものを、なんとか持ち帰りたいと思った。



「マスター」



 いつものごとく、後ろ(というかほぼ真横)で黙って待ってくれていたアルが、歩き出そうとした俺を呼び止めた。



「お写真、撮りましょうか?」

「写真……」



 スマホを見るのには抵抗があった。

 学校にバレているんじゃないか。親に連絡が行っているんじゃないか。時間が想像よりも進んでいるんじゃないか。そんな不安が頭をよぎって、見ないようにしていた。

 確かに写真に残せばこの時にしか手に入らないものを手に入れられる。



「……お願いできる?」

「はい」

「正面は恥ずかしいから、後姿を撮って」

「承知しました」



 聴覚で、数歩下がったのを確認する。

 視覚は緑の茂った空を映す。

 嗅覚は草の露と花の香り。

 触覚は風の走りを。

 味覚に触れるものはないけれど、微かに違う空気がある。


 全身で満喫して、肩を叩かれる。アルがスマホを差し出してきたが、その画面は暗かった。



「ありがとう」



 アルはぺこり、と軽く頭を下げた。俺も、アルも、写真の出来を確認せず、足を進めた。決して早歩きなどせず、通学路よりも重い足取りで。けれど足自体は軽く、駆けだしたくなる。視線が移ろう。頬に当たる日が眩しい。


 ……本来の目的であるそれは、見当たらない。



「そろそろ目的地だけど……」



 透明になる山荷葉。小さく、1週間しか咲かない、限られた花。

 アルと手分けして道中を探し、それに似た葉っぱを見つけた。しゃがんで、手を伸ばして葉を引き寄せる。傷つけないように、引きちぎらないように、伸びきってしまわないように。



「アル、これどう?」

「……確認しました。山荷葉です」

「これが……」



 足元に生えたそれは、緑一色だった。まだ花の蕾すらも付いておらず、花しか知らなければ見つけることはできなかっただろう。



「まだだったね」

「そうですね。ですが、確かにここにはありました」

「うん。ここに来れば、いつかは咲いているところが見られるね」



 口から滑ってしまった言葉が、胸の奥に落石を落とした。

 一世一代の勝負とも言えた、俺の現状。果たして次はあるのか。社会人になればあるいは、自由を得られるだろうか。それまでの数年、俺は無事でいられるだろうか。



「帰ろう」



 スマホのポケットは静かなままだった。半周ですれ違う人たちは、楽しそうに、けれど静かに話し、発見を教え合っている。対して俺たちはただただ歩いていた。目的は達成したはずなのに、どうしても、俺たちの上だけは曇天だった。


 バスに揺られ、電車が去った。

 見慣れた鉄筋、跳ね返してくるコンクリート、周囲に気を遣わない騒音。今までの環境との違いに酔って気持ちが悪い。

 だが、学校に帰らなければ。身支度もしなければ。先生にも会って、学校にいたという形を作らなければ。


 学校までの坂がいつもよりも高く見える。足が本当に重い。上がらなくて、何度か躓いた。転びそうになって、アルに支えられた。支えようとしてくれたが、耐えてきた。



「マスター」



 アルが呼んだ。わかっていたが、首すらも動かす余裕はなかった。学校の玄関に入って、ああ、着いた、と安心した。その瞬間に目の前が暗くなって、地震でも起きたように体は崩れ落ちた。


 耳に届いたのは、アルのいつも通りの声色に重なるサイレンだった。






  ・♢・






「転校させます!」



 鼓膜の衝撃は意識を引きずり戻した。

 重だるい意識と体。視界に映る白い壁とクリーム色の布。しばらく見つめ、天井とカーテンだと理解した。


 真横から飛び出てきた顔も、驚くこともできない程度に理解が遅れている。それが先生だとわかるまでも時間がかかった。



「水樹、目が覚めたか?」

「先生……病院?」

「ああ、そうだ。貧血と過労だそうだ」



 いつもより霞む視界の中、先生の表情は弱っているように見えた。

「ちょっと待ってろ」と言って、カーテンの裏へ回る。駆けて来る足音がすぐにカーテンを乱暴に開けた。



「バカ!!」



 母はそう言って俺を抱きしめる。覆い被さるから重く、息苦しい。抵抗できる力もなければ、ここまでさせた理由はわかっていて、申し訳なさから甘んじて受け入れるしかない。

 蛇のように締め付け、同時に猿のように髪を撫でる。耳元では鼻を啜る音がして、かかる体重が不規則に揺らぐ。



「ごめん、母さん」



 そう言うしかなかった。

 これを恐れていた。けれど、それを選んだのは自分だ。別を選んで、引き返したり、少しでも不安を減らすことはできた。しなかったのも自分だ。欲張ってしまったんだ。

 せっかく踏み出した足を。一人では動かせなかった、自分の世界。アルと二人でならと思ってしまった。自分の欲求を抑えられなかった。



「気分はどうかな」



 もう一人の、いや、もう一種類の先生だ。俺が運び込まれたのはかかりつけの病院だろう。ということは、この人は主治医である湯田先生。



「貧血だったから輸血したんですよ。今日は様子を見るために入院しましょう」

「そんな、大袈裟――」

「念のためです」



 被せるようにして有無を言わせない語気。湯田先生の見つめる先には、今でも俺を抱きしめている母がいる。そう言われてしまえば、そうするしかない。

 力の入らない体は後押しをしているようで、諦めもついた。

 重しとなっていた母も体を持ち上げ、俺を赤い目で見降ろす。人目も憚らずに泣いたせいだが、そうしたのは俺だ。今も昔も、俺は母さんの赤い目をよく見る。その目は苦手なんだ。



「明日また来るからね」



 楔にも思わせる言葉とともに、母は湯田先生に誘われるがまま病室を出て行った。

 残された学校側の先生、高橋先生はカーテンの陰で息を吐いた。普段見せる優し気な表情が覗いてきて、扉の方を指差す。



「先生たちは別室で少し話してくる。また明日来ることになるだろうが」

「あの」

「ん?」

「アルは?」



 高橋先生の顔が強張るのがわかった。素直な先生だから、困っている様子も隠せていない。顔は俺から背けられた。俺から見て奥の方にある手で頭を掻いて、力なく唸る。首をガックシと落として息を吐き切ってから、気まずそうな表情で口を開いた。



「警察だ」

「なん……え、なんで?」

「今回の件は、大事にはならなかったものの通報段階まではいってる。『誘拐事件』として立件されるところだったんだ」

「ゆうかい……」



 頭でわかっていても心が追い付いていかない。

 なんでそうなったんだ。

 だって。俺が。行きたくて。

 アルはついてきてくれただけで。

 相談しなかったのも。

 連絡しなかったのも俺で。

 アルは。

 アルは。

 ただ、ついてきてくれただけで。

 隣にいてくれただけで。

 ただ。

 ただ。

 アルだけが。

「行こう」って言ってくれた――



「水樹」

「っ」



 壊れた汽車のように止まらなくなった思考に、隕石が落ちてきたかのような衝撃を受けた。

 いつの間にか高橋先生が肩を掴んでいて揺すっていたようだ。背中と額が嫌に涼しいのは、噴き出てきた汗のせいだ。



「大丈夫だ。アルの電源は切られているが、明日には戻ってくる。壊されないよ。無事だ」

「無事……?」

「ああ、大丈夫だ。明日その姿を確認してくれ」

「……はい」

「よし。じゃあ先生は行くな。ゆっくり休めよ」



 ゆっくりとした足音の先で、静かに扉が閉められた。


 俺しかいないようなこの部屋では何も音がしない。暇潰しも気晴らしも、寝返りを打つしかない。目の前のことから逃げるように横を向いた。何も置かれていないテーブル。後ろからは、耳をすませば遠くから人の声がする。美術室のようだと少しだけ思った。



「……気持ち悪い……」









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