第5-1話(金)
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翌日。いつも通りに振る舞いながら家を出て、いつも通りのはずの通学路を歩いて学校に向かっている。薄い曇り空は今日の予定を示唆しているようにも思う。明るいか、暗いのか。晴れるのか……雨なのか。
いつもより心臓が早く強い気がするのは気のせいではない。足取りは……軽い。速足だから心臓も比例しているだけではない。自覚している。楽しみなんだ。行きたいところに行けるのが。
静かな玄関口で、靴箱にローファーを入れそこなう。手が震えていたせいだ。ゆっくり、確実に入れる。扉も静かに閉めて、段差ではしっかりと足を持ち上げる。変な歩き方になりながら職員室へ向かう。
「失礼します」
「おはよう水樹。そろそろ来ると思ったよ。ほれ、鍵」
「ありがとうございます。あの、先生」
「ん?」
「今日は外で作業しようと思って。鍵はどうしたらいいですか?」
「あー返却してくれ。貴重品だからな」
「……わかりました。失礼します」
固い体でお辞儀して、職員室を出た。美術室までの階段を上ったら息が上がった。美術室の鍵を開ければ、いつも通りのアルがいつも通りにそこにいる。
「おはようございます」
「おはよ」
扉を開けた瞬間に風が通り抜けた。いつも通りじゃないことに、美術室の窓が開いていた。そこはアルの真横で、風を受けた彼女の髪が横へ流れる。
「……っ」
息を飲んだ。だからこそ口には出なかった。
―― やっぱり、綺麗だな。
お世辞にもいい天気ではない。
けど、くすんだ色だからこそ、彼女の人工的で非現実的な澄んだ色が際立っている。
―― 残したい。留めたい。何度でも見たい。眺めていたい。
「マスター」
「っ、はい」
「大丈夫ですか?」
「だい、じょうぶ。ちょっとぼーっとしただけ」
頭も心も、視界もアルに占領されていた。
火照った全身を誤魔化すように、俺は持ってきた荷物を漁る。
「これに着替えてくれる?」
引っ張り出したのは、俺の私物のジャージ。
アルはメイド服。学外でのLAHはまだ少なく物珍しい。いかに人間に寄せて作られたとはいえ、ムラのない黄緑色の髪やメイド服では注目を浴びてしまう。人目を避けたほうがスムーズに事が進む。昨日の今日で素朴で一般的な服を準備するには俺の服を使うしかなかった。
俺が美術室で学校のジャージに着替えて、アルは備品室で着替える。「終わりました」と声が聞こえ、自分の服に身を包んだ彼女が待ち構えていた。
身長170と少し程度の俺より10cmは低いから、やはりというかぶかぶかだ。丁寧にファスナーを一番上まで上げているのは優等生っぽく規律を守る雰囲気がある。
「耳を巻き込みながら髪を一つにまとめて、帽子かぶれる?」
言われればその通りにしてくれる。綺麗なロングの黄緑色の髪はポニーテールになった。色程度なら「まあそういう人もいるよね」程度に思ってくれるだろうことを期待する。キャップを被って顔や瞳を隠してもらい、できることはこれぐらいだろうか。
マスクまでしてしまうと不審者っぽさがあるので却下。
「よし。準備は万端」
微かに指先を震えさせながら、ようやく出発の準備が整った。荷物は軽量。身分証を含む財布とスマホ。山荷葉の群生地を考えて虫除けスプレーも。
……胸に手を当てなくてもわかる。ドキドキしている。本当に行ってしまっていいのだろうか。いや、いいかダメかでいったらダメなんだろうが、俺はきっと、どうしても行きたいんだ。行きたいから、道を照らしてくれたアルと準備している。巻き込んでしまって申し訳ない。でも一人で行くのは……怖いから。何かあった時、アルがいてくれれば、何とかなるんじゃないかと思ってしまったから。
「ルートを確認しよう」
「はい。山荷葉は真駒内駅か旭川駅、千歳駅に出る必要があります。どの駅に出てもバスに乗ることになり、一番近いのは真駒内駅からになります。目的地は盤渓山となります」
「山か……」
「ハイキングコースがあるため、山登りに不慣れな方でも比較的安心かと思われます。その道沿いで探すことになります」
脳裏に映る、素性の知らない人の姿。白い背景の中で、綺麗であり、逞しくもあり、清々しく猛々しいと感じたあの人。状況は違うにしろ、あの人が歩んだ道程と近いものに挑戦できる。ドキドキとワクワク。血が沸騰しそうなほどに高揚する。喉が渇いた。飲み物を買っていこう。
「真駒内に行こう」
「承知しました」
荷物のわりに大きいカバンを肩にかけ、美術室を出て、鍵をかける。アルと二人、コソコソと廊下を進む。職員室で何食わぬ顔で鍵を返却し、下駄箱でスニーカーを履いた。まだ授業中である学校は比較的静かで、後ろめたさが少しばかりこみ上げる。
後ろを振り向こうとすると、真横にいたアルと目が合った。すぐに反らしてしまったけど、お互いに何を言うでもなく、ただただ焦りそうになる足を進めることに注力した。
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北海道、とある駅。5月の昼間の駅はそうそう人はおらず、どことなく安心感が漂う。
アルの黒いキャップにジャージという、ここ数日間見ていた姿とは真逆の服装で、時々見失いそうになってしまう。変装としては正解だろう。
電車の切符を二枚買う。電子での支払いでないのはいつぶりだろうか。一枚をアルに渡して、構内へ入る。電車が来るまでは時間があったので、電子マネーで飲み物を買った。
「アルは飲む?」
聞けば静かに首を振った。だよね、という言葉は飲み込んで、冷えた水を体の中に流し込む。
動き出してしまえば次第と心音は落ち着いてきた。身体の火照りも幾分和らいで、頭に登った血は少しずつ筋肉や臓器に振り分けられている。
構内のベンチは俺とアルだけ。ぽつりぽつりといる電車待ちの人たちは、みんな俺たちに目をくれることはない。構えすぎたかもしれないと思うほどだ。
ふとアルを見ると、意外にも辺りをきょろきょろと見まわしていた。
「どうしたの?」
「学校から見る景色との違いが新鮮です」
ロボットでも「新鮮」という言葉が出るのだと驚いた。そう言えば、アルはいつも窓際にいる。成り行きではなく、もしかしたら好き好んでその場にいたのだろうか。
「いつも窓際にいるのは、景色を見ていたの?」
「はい。空の移り変わりが素敵で魅入ってしまいます」
「そっか。あんまり気にしてなかったなぁ」
あの席を選んだのは、俺の方こそ成り行きだった。
明るすぎず、暗すぎず。扉から遠いほうが急な来客に驚かない。端っこだと広すぎて落ち着かない。外の景色を見ると出かけたくなってしまう。興味を押し殺すのは、もうしたくない。
「マスターが学校に来る様子も見えます」
「え、見えるの?」
「はい。ギリギリですが」
「そうなんだ。知らなかった」
「正門から出たと思いきや、入ってきていましたね」
どきり、とした。
別に悪いことをしたわけじゃない。あの日のことを見られていたというより、あの日のことを思い出して、少し辛くなる。
「親が迎えに来たんだよ」
「お優しいですね」
「……うん。優しい。優しすぎて苦しいよ」
「苦しい?」
「っ、あ、電車来たよ」
ポロリと出てしまった何か。隠すようにして立ち上がって、汽笛を鳴らす電車に乗り込んだ。
何も言わずについてきてくれるアルと二人掛けの席に並んで座る。真駒内駅まで一本。
「学校以外で電車に乗るの……いつぶりだろう」
箱入り息子のような発言。本当に数年ぶり。学校に行くのも数駅。長距離移動は車だし。さっきのアルのことは棚に上げ、自分も電車内や外を忙しなく眺めていた。
田舎の景色がゆっくり移り変わっていく。平たい屋根の家がどんどん増えてきて、たまに高い建物があって。次第に栄えていく町並みを見て行けば、再び気持ちが高揚してきた。
電車の中の賑わいはほどほどに、目的地までのトラブルはなかった。呆気ないと思ってしまう。地元よりも栄えた真駒内駅に降り立つと、改札の多さやターミナルの広さに呆気にとられた。
「ひろ……」
同じ北海道でもやはり雰囲気は大きく違う。きっとなにも特別なことはない。けれどやっぱり、実際の目で見て、空気の違いを感じるのは刺激的だ。
「マスター」
静かな声だが、肩が震える。それだけ心が離れかけていた。アルはいつもの如く冷静な顔で、こちらですと道案内をしてくれる。こっそり飛び跳ねていた心臓を押さえながら、ぴょこぴょこと跳ねる髪を追う。
次に乗るのはバス。電車よりも本数がないが、幸いあと10分程度で発車するものがあった。一つだけ開いていた二人席に座る。
「バスの匂い苦手……」
「休まれますか?」
「うん」
「到着したらお声掛けします」
せっかく窓際に座ったが、バスの景色は楽しめそうにない。残っていた水を飲んで、眼を閉じた。まだ発進する時間ではないものの、対策は早くても良いだろう。
目を閉じた。暗い世界で浮かぶのは、これから見に行く山荷葉ではなく、腕を上げている女性の姿。寝る寸前まで俺は誰かのことを考えている。自分のこと、親のこと、絵のことは全くと言っていいほど浮かばなかった。
彼女は今、どうしているだろうか。治療に専念して頑張っているのだろうか。彼女が出来なくなった裏で、俺は一世一代と言っていいほどのチャレンジをしている。緊張と鼓動がずっと体を支配している。
……意外と心地良いものですね。
・♢・
「マスター」
「んんっ!?」
肩が揺れて、鼓膜が震える。至近距離にあったアルの顔で一瞬にして目を覚ました。
「次で降ります」
「あ、ああ、うん、わかった」
ドキドキした……。
バス内の空気で深呼吸しながら、減速していくのを感じとる。アナウンスされてアルが立ち上がり、続いて俺も椅子を立つ。俺たち以外にも降りる人たちが先導してお金を払っていき、最後に俺が降りた。
ああ、ここが……ここも、北海道内の景色なのか。
「全然違うや」
すごいな。
初めて、見たことのない景色の中にいる。