第4話 (木)
・♢・
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。帰りはタクシー使ってね。連絡してね」
「わかってる」
しっかり寝ただけあって、今日の体調はすこぶる良い。母の機嫌も悪くはなく、今日の予定について確認してくる。
昨日の重かった足取りの道どりを、今日は軽やかに歩む。早く描きたい、というのが俺の背中を押している。晴れやかな青空だ。春の風がほのかに暖かい。日陰に入れば少し寒いけど、それはそれですっきりして心地よい。日向の暖かさも際立つ。
散歩の気分で学校まで歩き、職員室で鍵を受け取って、視界の外の校庭では体育の賑わいを聞きながら美術室へ。
4度目となれば構えもできる、アルの存在。やはり窓際に座っていた。
「おはようございます」
「おはよう」
クールに挨拶をしてくるメイドエルフ。どこの小説だと突っ込みたくなって、いろいろありそうだとも思った。
「昨日はバタついてごめん」
「お構いなく、マスター。体調は戻ったようで何よりです」
「うん。万全だよ」
「では、今日は行きますか?」
真顔で訪ねる、何度目かの質問。これに関してはしつこいまである。
「行かないよ」
「なぜですか?」
なぜ、と来たか。
「今日は行くところがあるからね」
「個展ですか?」
「いや、今日は……病院」
「健康状態に異常があるのですか?」
「そういうんじゃないよ。治療じゃないし」
キャンバスの準備の片手間、あまり打ち明けたことのない通院について話すことに言葉が詰まりそうになる。無意識に語感が強くなってしまったと気付いたのは、言い切ってからだった。
同級生は知らない。学校の先生も一部の人しか知らない。打ち明けるほどではないというのと、打ち明けてはいけないという理由。
明確なのは、それが俺の行動を制限している。
準備が整い、キャンバスの前に座る。あれだけ描きたかった絵だけれど、直前の話題のせいで気がそっぽを向いてしまっている。
アルはやはり後ろの椅子に座っているようで、気まずいようななんやら……。
鉛筆を握って、昨夜考えていた絵の完成イメージを思い浮かべる。そうすれば、足りない部分を補おうと手が勝手に動く。鉛筆の芯を流す動きに、口も舌も潤ってきた。
「俺さぁ、病気ではないけど、定期的に病院に行ってんの」
「……はい」
「もう何年もずっと。それ自体は慣れたし、今更っていう感覚。行かなくても死なないのになとは思うけど、習慣になってしまえば反抗心もなくなるみたいなんだよね」
「そうなんですね」
「そうなんだよ。……でも、まあ、病院に行かなきゃいけない……体質みたいなもののせいで、俺は体育は参加したことがない。学校行事もほとんど休んできたし、今も修学旅行に行けないし。家族旅行も……行った記憶がない」
止まった鉛筆を持ったまま、椅子に座ったまま向き直る。
「ごめんね、俺は遠くへは行けない。山荷葉を見に行けない」
優しく、子どもに言い聞かせるように投げた。人間だったなら、君はどんな表情をしただろうか。なぜ君が俺を連れ出そうとするのかわからない。ただ君が外に出たいからなのかもしれないけれど、それは俺には無理な話なんだ。
―― だからもう、俺に期待しないでくれ。
ゆっくりとキャンバスと向き合い、自分の世界に潜り込む。視界をキャンバスいっぱいにして。俺の前にはキャンバスしかないように意識して。昼ご飯を食べるのも忘れて。
気付けば15時。今日はもう終わる時間だ。
片付け始めるまでアルは黙ったまま。俺もあえてアルの方を見ないようにしていたので、どこに視線を向けているかもわからない。
片付けを終えて荷物を肩にかける。鍵を持って、扉に手をかけようとした。
「マスター」
呼ばれ慣れない呼び名。ここですっとぼけることはできない。
「……何?」
振り向いて、相変わらず綺麗な長い髪と瞳に目を奪われる。今後も見るたびに奪われるだろう。ロボットだから、アルの美貌は老いることはない。朽ちることはあるかもしれないが、それは何百年先のこと。
「先ほど、「行けない」と仰いましたが」
「うん」
「行けなことはないと思います」
「……うん?」
え、説得?
拍子抜け。あ然。わかってくれたと思ったが、もしかしたらずっと考えていたのか?
「マスターには足があります」
呆気に取られている俺を他所に、アルの口は稼働し続ける。
「足があって、手段を選べて、道程を選べて、計画を練ることができます。マスターが「行けない」と言った理由がわたくしには根拠に欠けるのですが、それは物理的な理由でないように受け取りました。でしたら、マスターの気持ち次第ではないかと」
「いや、物理的な理由っていうか――」
「どうして「行けない」んですか?」
圧。誤魔化しようのない圧を感じる。
話を聞いている間、ずっと掴まれて話してくれない瞳は、怒りを感じない。純粋で、素朴な疑問をぶつけてくる子どものような目だ。
「どう、して」
「どうして、ですか?」
「それは……」
―― もし、なにかがあったら。
「俺は、俺と家族を、殺してしまうかもしれない」
「……」
「昔ね、大怪我をした人がいたんだ」
―― あれ? 俺は今、何を喋ろうとしているんだろう。
そう思いながら、考えていることと口が出す声は嚙み合わないまま、つらつらと紡ぎだす。
「その人は手術中に大量出血をしてしまって、すぐに輸血しないといけなかった。けど、その人は希少な血液で、あらかじめ用意しておいた輸血では足りなかった。一般的な血液は輸血することはできない。輸血バンクに連絡しても届くまで時間がかかる。近所に輸血できる血液を持っている人がいれば……その人に連絡を取って、間に合うかどうか……っていうとき。たまたま。本当にたまたま。その人に輸血できる血液を持った人がその病院にいたんだよ」
「奇跡ですね」
「そう。本当に奇跡的。その人に輸血をお願いしたら、周りの反対を押し切って協力してくれたんだ」
「……いいお話だと思います」
「うん。ここまでは、ね」
話すのにいっぱいで、呼吸が浅くなっている。一度大きく吸って、吐けるだけ吐いた。目を閉じて、数秒。開けて、アルの瞳を見る。一瞬で背景にはオレンジが混ざっている。
「その輸血してくれた人は、数日後に事故にあったんだ」
「事故、ですか」
「交通事故。それなりの大怪我をしてたんだ。出血もあって。その人はそういう時のためにあらかじめ輸血して、自分に輸血が必要な時に備えてた。だけど、その時、そのストックがなかった」
「使ってしまったのですね」
「そう。なくはなかったけど、心許なかった。そんななかでも手術しなければ死んでしまう。病院の先生たちは文字通り死力を尽くして手術に挑んで、成功した」
「いいお話だと、思うのですが」
そう。ここまでは比較的綺麗な良い話。身を挺して人助けをして、自分の危機に瀕しても、奇跡を起こして生還する。誰も悲しまない。悲しんでも最後は持ち直すハッピーエンド。
でも、もちろん、全てがそんなうまくいくわけがない。
「その時、その人は持ち直した。けれど同時に芽生えたものがある」
「芽生えたもの?」
「『恐怖』。死ぬかもしれないという恐怖は、その人、そしてその周りの人にも根強く植え付けられた」
こういう時のためにストックしておいた血液は、見ず知らずの突然現れた他人のために善意で使ってしまった。いくら機械技術が進歩したといっても事故にあうと予見できるわけではない。
「助かったその人は順調に回復していった。助けた相手を恨むことはなかった。けれど。その人がそうでも、その周りの人はそうではなかった」
「それは愚かなことですね」
「そう思う? 大事にしていた人なら、そう思ってもしょうがないと俺は思うよ。助かったけど大事な人を失いかけたんだ。それが正しいかどうかは置いておいて、そういう気持ちを持ってしまうのは致し方ないと俺は思ってる」
「……なるほど。理性的ではいられないのですね」
「そういうことになるね。……その人たちは、その時のことを教訓としたんだ」
「どのような?」
「……さぁ、なんだろうね」
苦虫を感じながら、目線を逸らした。
どうしてこんな話をしたんだっけ。
ああ、そうだ。「行けない」理由だ。
「俺は安全に生きていかなきゃいけないんだよ。自分のため、そして周囲の人のために――」
「それは違います」
はっきりした物言いが、言葉を遮った。
驚きすぎて口は開いたまま。瞬きを忘れてアルを見れば、どことなく怒っているような、優しく微笑んでいるような複雑な顔をしていた。
「アル……?」
「その理由は言い訳です」
「言い訳……いや、理由だよ。危険を冒したくないんだ」
「外出することが危険なのならば、学校に来るべきではありません。個展に行くべきではありません」
「それは……そうだけど」
「生きる上で不慮の事態というのは起こりうるものです。なぜなら多数の生き物たちが場を共有していて、全てが機械の様に規則的に動くわけではないのですから。機械でもミスはしますよ。人間もミスをするでしょう。でもミスばかりを気にしていては生活できませんよね? 通学路で事故にあうかもしれない。学校で階段から足を滑らせて転落するかもしれない。心臓が突然止まるかもしれない。いつどこで何が起こるかなんてわかりません。――だから、行ける時に、行きたいときに行くんです」
「行きたい、とき」
「その時を逃してしまっては、二度とその時には出会えません」
『貴方の目に映るのは、昨日までの景色ではありません。その一瞬を見逃さないでください』
似ているようでそうでもないような言葉が頭の中に浮かんだ。
危険を冒してでも見たいものを見に行った『マミ』さん。そんな彼女に憧れていた。俺には見に行けないものを見せてくれて、勝手に恩を感じていた。
でも。
違うのか?
俺は。俺でも。行きたい場所に、行ける……? 行ってもいい……のか?
「でも……」
どうしても心の中の声が出せない。言ってしまったら、欲求を抑えきれなくなる。もう二度と繰り返したくないことが思い出される。申し訳なさ。恐怖感。
アルの背後の夕日が眩しい。同時に頭も重くて、項垂れてしまう。
ここで振り切って部屋を出てしまえばいいのに。それすらもできない理由はわかってる。ただ、怖いんだ。
「山荷葉は最寄駅から1時間ほど行ったところで咲いているそうです」
痺れを切らしたのか、淡々と情報を語りだす。
「学校から駅まで徒歩20分。電車で1時間移動し、そこからバスでさらに20分。山荷葉を見つけるための時間と復路で合計4時間です。部活動の時間があれば可能だと推測します」
―― ああ、行けちゃうな。
そんなことを思ってはいけない。けど、気付いてしまったら、どちらを取るか。迷っている時点で自分の中での気持ちが大きいことは明白。ただその言葉を言うことが重くて、辛くて、怖くて。
額と顔の横を何かが伝って足元に落ちた。涙? いや、汗だ。口の中が乾く。開いたり閉じたりする勝手な口のせいだ。目が痛い。瞬きを忘れてた。手の中が気持ち悪い。いつの間に握ってたんだろう。開いたら涼しいどころか寒い。汗が溜まっていた。
「ぁ」
俺にしか聞こえないであろう声が漏れた。けれど止まった。止まってしまった。もう学校を出ないと。病院に行かなきゃ。
―― 病院には行くのに、そう遠くない自分の行きたいところは行かないのか。
行って、何かがあったらどうするんだ。
病院や学校ならば、誰かしらがいて対応してくれる。
そもそも、まず第一に自分を助けられるのは、自分じゃないか。
―― 今病院に行けば、いざという時の備えができる。
……ああ、気付いてしまった。
気付いてしまったら、もう、水は流れる。
「……明日、一緒に来てくれる?」