第3話 (水)
・♢・
「おはようございます」
「……おはよ」
深夜まで問題集を解いて、普段よりも遅い時間に寝た。寝不足感がすごいが、いつもと同じ時間に起きて、学校へ来た。家にいるのは息が詰まるから。
アルに見守られつつ、キャンバスの用意。飲み物で指先を温めながら、背景の抜けた絵をここからどうするかを考える。寝不足は思考力を奪って集中させてくれない。何度も温かいお茶を体の中に流し込んで、キャンバスを睨みつける。
途端、視界が狭まった。
「……なに?」
機械の手が、俺の両眼を覆う。真っ暗で寝そうになってしまう。
「お疲れのようですので、少し休まれては、と」
「部活中に?」
「遅刻が許されるなら、中抜けも許されるかと」
「……俺しかいないしね」
座ったまま眠ってしまいそうな脱力感。アルの片手が俺の肩を推して、体は抵抗もなく倒れこむ。
椅子よりも広く、けれどテーブルでも床でもない面積に接して、俺は完全に寝る体制になってしまった。
「椅子を敷き詰めて、備品室にあった布類をひいてます。使用前に洗浄してありますので、安心してお休みください」
どちらかというと低めの声とともにかけられる布で、意識は蓋をされた。
・♢・
起きたのは昼過ぎだった。美術室の外の騒々しい物音を目覚ましに、格段にすっきりした意識を手に入れた。
ベッドほどではないが体に優しくしてくれた寝床に感謝し、そして見つけたアル。目線は俺を捕らえており、たぶん、俺というか俺の顔色を見ている。
「ありがとう。すっかりよくなったよ」
「そのようですね」
「毛布片付けるよ」
「わたくしがやりますので、マスターは食事のご用意を」
「これくらいできるよ」
「人間は、食べなければ生きていけません。食べなければ治るものも治りません」
『人間は』という強調に、何も言えなくなる。不愛想な優しさととらえ、毛布はアルに任せて昼ご飯の準備をすることにした。
手を洗い、カバンから弁当を出し、礼儀を忘れずに食べ始める。定位置に着いたアルは監視しているかのように俺を見つめてきてなんとなく食べづらい。
「ア、アルは食べないの?」
わかりきったことを聞いてしまった。
「食べません」
「だよね……」
「食物は食べませんが、エネルギーの補給という意味では毎日行っています」
「え、いつ?」
「日光と、必用時にはマスターが帰宅された後に液体燃料を頂いています」
「誰から?」
「高橋教諭からです」
顧問の先生。俺とアルを引き合わせた人。俺が美術室の鍵を渡した後、そんなやり取りをしていたのか。
焼売を齧る。今日はいつもよりゆっくり食べている。
「燃料ってどんなヤツなの?」
そんなことを聞いてどうする。と思ってそうだと思わせるのは、アルの表情もしくは俺の思い込み。ロボットへの踏み込まないでほしいラインって、考えたことがなかった。考えておけばよかった。
眉をピクリとも動かさず、奥行きと奥ゆかしさを兼ね備えた瞳が見つめてくる。くすぐったくて、逸らしたくなる。けどそらしたら失礼かなとか、見つめていたいなとか、もどかしい。せめて焼売の残りを放り込んで噛むことでリラックス。
すると、アルはロングスカートを捲りあげた。
「なっ」
「こちらです」
膝上まで露わになった白みのある足。スラリと長く、当然ながら余計なものはほとんど付いていない、健康的な下肢だった。関節部分に境目はなく、一枚の繋がった皮膚に見える。ハイソックスだったのは意外だった。
『こちら』と見せつけられているのは、太腿の外側にあるパック。外見が銀色のため中身は見えない。
「液体なんだ?」
「はい。この400mLで3週間ほど保ちます」
車のようにタンクの中に入れる訳ではなく、点滴のように静かに入れていくらしい。
スカートをおろし、目は「食べろ」と言ってくる。頭の中に残った白くスラリとした何かをかき消すように、お弁当をゆっくり食べた。
話しながらだったからか、昼休みは残り少ない。体調は回復したのでこの後は少し描けるだろうか。
「どうしようかな」
描きたくても描けないかもしれない。インプット不足。練習不足。苦手意識。気持ちと実力の不釣り合い。
ぐったりと頭を垂らし、すっかり晴れた脳で考える。真っ白な背景しか浮かばない。
「うーん……」
キャンバスをもう一度見る。朝と変わらない絵を前に、両腕を組んだ。体勢と状況を変えたところでという証明。
「あ、いや、そうか」
前提を変えよう。
植物があるから、森の中や山の中と考えていた。けど、俺が描くのはファンタジー。なら別に、常識や固定概念にとらわれなくてもいいか。
個展で見た、白光した空。図鑑で見た、朝露に濡れた山荷葉。色変わりを見つめる女性。
絵の雰囲気が脳内で鮮明になる。これが描きたいと指が動き出す。光の加減や影の指し方、遠近感を濃淡で表す作業。全体を薄らと色付けていく。浮かび上がってくる事に、「これだ」とどこかで誰かが同調する。
元々の絵も修正し、逆光気味に。居場所は雲の上か、山頂か。しゃがみこませずに立ったまま、手の器から生えるようにするか。
考えれば考える程、堰き止められていた水が溢れ出すように案が湧いてくる。食後までの悩みは何だったのかというぐらいだ。
鉛筆と消しゴムが消費されていく。何の声も音も届かない集中。気付いたのは、触れられた時だった。
「マスター」
「っ、なに?」
「お時間は大丈夫ですか?」
肩を叩かれ、反射的に早口に返事をする。見上げれば立ち上がったアルがいて、俺を見下ろしている。時間を問われ、室内の時計を見る。
「17時!?」
いつもより1時間も遅くなってしまっている。確かに夕焼けは色濃く、紺色が大半を占めてきている。一番星が現実逃避を促してくるほどに輝かしい。
急ぎつつ乱雑に片づけて、荷物を締めるのも後回しに美術室を駆けだした。
「ごめん、また明日!」
挨拶もそこそこに扉を閉めた。何か言いたげな表情をしていたが、それを確認する時間は今の俺にはない。
職員室に駆け足で入って、雑談を遮ってローファーを踏みつぶしながら玄関を出た。いつもはしないけれど、スマホの画面を見ながら早歩きで帰路を歩む。
「やっちまった……」
スタート画面を埋め尽くす着信履歴とメッセージの通知。内容はすべて俺に向けられる『心配』。憂鬱だが、これを放置するとより面倒なことになりかねない。
早足を止め、息を整える。何度か躊躇いながら、通話ボタンを押す。
「も」
「大丈夫!? 無事!?」
1コール鳴っただろうかという早業で応答した、母親。切迫した雰囲気を前面に出す声色に、罪悪感と不思議な重さを感じざるを得ない。安否を問うてくる母を安心させるための言い訳が流れるように頭に浮かぶ。
「大丈夫。ちょっと集中しすぎちゃって、今学校を出たところだよ」
「本当に? 何かあったわけじゃないのね? 怪我や気持ち悪いとかない?」
「何もないよ」
「もう暗くなるし迎えに行こうか? 転んだりしたら……」
「気をつけて帰るから、本当に大丈夫」
「でももしなにかあったら」
「そんな――」
「事故はこちらがいくら注意しても起こるものだし、うん、今から行くわ」
「いや……うん、わかった。じゃあ学校の前で待ってる」
「敷地内にいてね」
穏やかな声は無常に切られ、俺はため息を吐いた。親の有難い愛情を別の意味で受け取ってしまうのは捻くれている証だろうか。駆け足で歩んだ道を重い足取りで引き返す。振り向いて、あんまり進んでいなかったなと自虐の笑みが湧いた。
「学校を出てから今まで2分。家まで15分。迎えに来るまで7分。家まで7分」
……なんだ。ほとんど変わらないじゃないか。
正門で部活終わりの学生がちらほらと下校を始めている。敷地内で待っててと言われたけれど、この年で母親が迎えに来るというのはどうしても耐え難い羞恥心がある。なので待ち合わせる時は裏門で、とあらかじめ言ってある。
正門で生徒とすれ違いながら、一人流れからはぐれる。横に広い校舎なので裏門までも他生の距離を歩く。いつまでも足取りは重いが、進まないわけにもいかない。開かれている裏門が視界に入って、はぁと息が漏れる。
敷地外に出ないように門の柱に寄りかかる。ふと上を見上げて、窓枠を見て、あれはどこの教室だろうかと考える。美術室からの景色は何度も見ているけど、そういえば下の方は見てないかもしれない。果てしない空の境を見つめているだけな気がする。
「お待たせ」
状況によっては甘い台詞だろう、けれど母からの声かけに視線がずれる。怒ってはない。穏やかそうに見える。
「帰ろう」
「うん」
母の中では俺は何歳なのだろうか。中学生なのに迎えに来てもらって、安全のために自分の時間を犠牲にして。自分の近くにいないと不安だから、中学は家から通える範囲で、かつ中学校でも安全に過ごしてほしいからと、設備が整った私立を選択して。学力に心配があったら家庭教師で。友達と遊びに行くにも、決めた場所しか行けないし、遠出なんて発狂しかけていた。
会話のない帰路だが、それはきっと望まれた状況。食事の時と同じ、不注意が起こるなんて許されないから。頭をぶつけたことを言ったら、母は殴り込みに行ってしまうかもしれない。
「おかえり。お風呂はいっちゃいなさい」
「ただいま。ありがとう」
いつものルーティーンは日常を取り戻す。取り戻してしまう。
汚れを洗い流し、栄養を摂り、睡眠をとる。今日は勉強はしない。寝不足だったし、明日は大事な予定がある。早めに休んで明日に備えないといけない。
「絵、はやく完成させたいな」
微睡む意識の中で、『こうしたい』と湧いてきたイメージを頭に定着させる。そうしていれば、夢の世界はもうすぐそこ。