第2-1話(火)
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次の日は雨だった。やや寒く感じる程度の思い切りのない雨の中、ローファーは水気を弾いて艶やかに進む。
もう授業中だろうか、学校には賑やかさはなく、けれど部屋ごとに光は灯っている。うちの学校は校庭に防雨効果のある送風装置があるのだが、今は使われていないようだ。
玄関で靴と靴下を脱ぎ、下駄箱の中に放り込み、備え付けの乾燥機能にスイッチを入れた。新しい靴下と上靴を履いてまずは食堂へ。自販機に自分の生徒手帳をかざして温かい飲み物を手に入れる。
両手を温めながら職員室で鍵をもらう。階段を静かに登って、ガチャンと開錠。
「おはようございます」
「おは、よう」
いるのはわかっていた。少し言葉に詰まったのは、アルが昨日と同じ場所にいたから。寸分違わず、と言えるほど見ていたわけではないが、扉を開けた瞬間に既視感があった。
「遅刻では」
「授業じゃないし、部活動は俺しか参加してないし、別にいいんだよ」
「そうでしたか」
現在時刻は9時25分。9時からの一限中に到着したかった俺としては理想的な時間だ。
荷物を定位置に置いて、キャンバスと鉛筆を用意する。絵を描く時の定位置、つまりは窓際であり、アルの正面に構える。さも当然とでも言うように微動だにしないアルを背中に、飲み物を脇に置いて鉛筆を持つ。
ただただ鉛筆の音が走る。初めは警戒していた声かけは拍子抜けするほどなく、いつしか集中して描き込んでいた。女性の輪郭、花の配置、表情などの雰囲気作成はおおよそ完成。
けれど、ここからが問題だ。詰まり気味だった息を吐いた。ここぞとばかりに、後ろで気配が動く。
「背景は描かないのですか?」
直面している問題を的確に指摘してくる。キャンバスの大枠が真っ白ならば当然気になる点なのかもしれない。
握りしめていた鉛筆を置いて、飲み物を開ける。すっかり冷えてしまっていて、せっかくの温もりが無駄になってしまったことを多少悲しむ。
「描けないんだよね」
一言そう言うも、アルからの返答はない。歯切れが悪く感じているのは俺だけか。
「苦手意識、っていうのでいいのかな。描いても納得いかない。落ち着かない」
「今まではどのように描いていたんですか?」
「あえて白紙、ってことにしたり。練習って意味では……この人の写真集をみて模写してたり」
カバンの中から取り出した、一冊の写真集。この時代ではなかなかない、実際に撮影された写真。
適当に開いて見せれば、アルは食い入るように見つめる。
「『マミ』さんっていう、世界で数人しかいない写真登山家なんだ」
昨今はAIだけでなく機械技術が目覚ましい進歩を遂げている。そのおかげで生活にゆとりができ、教育や医療など各分野も引っ張られるように進化し続けているのは、学生の身でありながら実感している。
けれど、廃れている分野があった。それが『芸術』だ。
AIによって絵画や小説、陶芸や園芸、写真や音楽などは直接の人の手を離れていってしまった。それは2000年代頃から問題視されていたものの、現在においては懸念されていたようになってしまったと社会科の授業で習った。
もちろん反発はあった。けれど、便利だったり、安全だったり、失敗がなかったり、見分けがつかなかったりすれば、反発は勢いを無くし、ほとんど消沈してしまったらしい。
そんな中でも活動している数少ない人が『マミ』だ。
「自ら山に登って、その景色を写真に収めてるんだ。今や家から一歩も出ずに地図アプリやドローンで撮れるものだけど、その行動力がすごいなって思う」
「わたくしもそうですが、今や生活には機械技術があってこそになっています。機械に頼ればいいものを、ご自分の、生身の手足でというのは、それだけの理由があるのでしょうか」
「そこまではわからないけれど、やり続けているには何かあるんだろうね」
『マミ』さんはまだ若い女性。活動を始めたのもこの数年らしい。
手持ち無沙汰に本屋を見ていた時に、たまたまこの写真集が目に入った。文字だらけの表紙の本の中、一つだけ、文字が一切なかった。その時の俺には写真かAIかなんて見分けがつかなかったけれど、その表紙には一際目が惹かれたんだ。
ただ山の山頂が連なって、雲を突き破った先で陽の光が差し込んでいる表紙。こんなにも壮大な景色を見下げるなんて、撮影者はどれだけ高いところまで登ったんだろうかと惹かれた。そして、世界にはこんなにも、言葉に表せないほどの場所があるのかと、閉じこもりがちな俺は衝撃を受けた。ドローンでもアプリでも見たことはあったのに、空気感というのか、言ってしまえば印刷技術なのかもしれない。微かな可能性で、それが現物の魔力だったとしたら、見事に魅入られてしまった。いつの間にか購入して、肌身離さず持ち歩いている。
「この人が見てきた景色を見て、描いてる。もちろん『これじゃない』感しかしなくて、よくないってわかってても中途半端に終わっちゃうんだけど。好きなものを描くのは好き。けど、思い通りにならなくて、嫌いになりそうで、少し怖い」
だからいつまでも背景が描けない。自然のものは描けても、やっぱり『どこか違う』とは感じている。けど、これでいいんだ。どうせ、これ以上先なんてないのだし。
アルは写真集を見続ける。俺への質問なんてなかったかのように。
そして同時に、俺の描いている絵にも関心が薄れたのか、俺が描き始めても写真集を捲る音がしていた。
雨の音と時計の音、鉛筆を擦る音と、時々捲る音。混ざって、混ざって、音楽になって。割り込んできた腹の虫の音で、俺は飲み物を買いに行く決断をした。朝に買った飲み物は冷えてしまったから。
「あー……被った……」
ちょうど昼休みに入ってしまったようで、中高あわせた他学年の生徒が購買部付近に溢れかえっている。といっても、俺の学年である中学二年生たちはいないので少ない方だ。
大人しく自販機の列の四番目に並ぶ。
「ねぇ見てー。今日寒いから爪だけでも温かくしようと思ってオレンジベースネイルにしたのー」
「え、待ってめっちゃかわいいじゃん。でも朝は水色フレンチじゃなかった?」
「ふっふっふ、よくぞ聞いてくました」
「?」
「私ついに先週末! 指先のサイボーグ化デビューしました!」
「え、まじで!? ついにやったの!?」
「やったよー! バイトと両親の説得頑張ったー! めっちゃいいよこれ。指先の冷えとはおさらばだし、荒れにくいし、体育とか気にしないでいいし、なにより秒でネイルのデザイン変えられるし!」
「全然気付かなかった。コスパ良ーーー」
「まじおすすめ」
「私はまだいいかなー。勇気出ないし」
「それはそう」
前の女子生徒の指先を覗き見ると、確かに本物と区別がつかない。
最近流行りのサイボーグ化。機械技術の進歩によってロボットが増えてきたと同時に、医療技術も伸びている。それは人工臓器や義肢装具といったものが特に顕著で、安価で安全に生身の人間へ導入されている。
目の前の女生徒のように、若い人でも頑張れば手が届く。社会人はもっと近く、透析患者も減ったという。白内障や緑内障で悩む人も減って、義肢の機能次第では車の運転事故も減って、|Quality of life《生活の質》の向上につながっているという研究結果があるとニュースで見た。
技術の進歩はすごいものだ、と他人事、賞賛。
順番になったので、温かいお茶を購入。両手を温めながら、生徒とすれ違っても目を合わせないように美術室へこっそり帰宅。
「おかえりなさい」
無機質な声と瞳に迎え入れられる。俺の不在中に写真集は見終えたようで、アルの膝の上、かつ両手の下に鎮座している。
「よかったでしょ」
「はい。とても」
本当にそう思っているのか、いないのか。AIの学習機能に半信半疑になるが、好きなものを認めてもらえて嬉しくて、顔に出さないように気をつけながら上機嫌になった。
お弁当を黙々と食べて、お茶を飲んで昼寝して、満足したら再び描く。背景のことに触れたから少し頑張ろうかとあたりをつけてみた。けど、やっぱりしっくりこなくて、そんなものを残しておくのが気が引けて、結局のところは消してしまった。
「苦手なことは変わりないしね」
呟いた言葉は、誰にも拾われずに雨音に掻き消えた。
不完全燃焼だが、このままいてもきっと何も成さないだろう。そう直感し、俺は片付けを始めた。
「終わるのですか?」
真後ろに座っていたあるが、やはり感情にこもっていない声で尋ねてくる。
「うん。今日はもう、やめとこうかなって」
「どのような理由で?」
「……これと言ってはないかな。気分。あ、今日は行きたいところがあるんだ」
「行きたいところ」
うん、と返しながら、キャンバスなり椅子なり消しカスなりをあるべきところへ放り込む。窓の外を見れば、まだ雨が降っているようだが傘はいらなそうだ。傘という荷物ができてしまったことは面倒だが、歩くことを考えたら幾分マシだろう。
荷物を肩にかけ、扉に向かう。なんの気無しに振り向くと、真後ろにいた。アルが。
絵を描いている時よりも近いのは、二人とも立っているからだろう。
「え、な、なに?」
「行かれるのですよね?」
「え?」
「……山荷葉では、ないのですか?」
首を傾げながら、おおよそ160cmほどの身長の耳長族が見つめてくる。長い髪がさらりと流れ、色素の薄い瞳に俺のシルエットが写っている。まるでカメラのレンズのような奥行きのある瞳に囚われそうになる。
「ち、ちがう」
「では、どちらに?」
「『マミ』さんの個展だよ。近くでやってるんだ」
「そうでしたか」
「てか、アルは学校を出ちゃダメでしょ。備品なんだから」
酷な言い様かもしれないが、事実だ。アルはどうしてこんなにも、どこかへ行きたがるのか。俺に山荷葉を見せたがるのか。AIの学習機能はよくわからない。
気にかけたものの、アルの表情は変わらなかった。残念そうでも、怒ってそうでもない。ただ、何も言わずに立ち竦んでいた。
「……じゃあね。また明日」
返事はなかった。昨日のように目線を切って、扉を開けて、閉めた。
職員室で先生に報告して、すっかり乾いたローファーを履いて足早に学校の敷地外へ。
傘を忘れたことに気づいたのは、個展会場を目の前にしてからだ。