第6-3話
「アル……!」
せっかく座った椅子が再び音を立てて倒れる。テーブルに乗り出して声を出したが、アルはこちらを見ない。代わりに白衣の男が俺を見た。黒髪黒目、日本人の顔立ちをした彼は、俺を値踏みするようにじっくりと見てくる。手に持った何かを操作して、アルは彼の後ろについた。
「すまないが、今は半自動なんだ。私の持つリモコンの通りにしか動かない」
「あ……そう、なん、ですか」
だからか、と納得。同時に感じる寂しさ、悔しさ、失望。
クラスの中で一人だけと思っていた優越感は、慈悲で与えられた虚構だったのだと叩きつけられた。
力なく座っても、アルは寄ってこないし、気にもかけない。何を期待しても、これがAIでヒューマノイドなんだ。そう思い出して、座面が滑りそうになった。
「開発責任者の天野だ。さて、何の話だったのかな?」
後から来たその男がさらりと名乗り、この場を仕切り出す。近くの人たち同士で顔を見合わせ、元の進行役だった湯田先生が声を上げる。
「水樹くんの体調には問題ないと言うところまでお話ししました。そして次は、ことの経緯をお話ししたいと思います」
湯田先生は高橋先生に目配せして、静かに座る。白衣の男は唯一開いていた一辺、上座に当たる机の真ん中を陣取った。当然、アルはその後ろに位置している。
交代に立ち上がった高橋先生はいつもの気さくな様子は微塵もない。強張り、緊張しているのが手に取るようにわかる。スーツで引き締められた体と首がどうにも似合わない。
「まっ、まずは水樹くんのお母様に謝罪させてください。申し訳ございませんでした!」
勢いよく、机と水平になるまでの謝罪。それを母さんは、何のリアクションもなく見つめていた。
それについて誰が何を言うでもなく、静かな時が数秒流れた。高橋先生は息を飲んだまま状態を上げ、細く息を吐いた。
「時系列に沿って説明させていただきます。拙い部分もあるかと存じますが、ご了承ください」
胸ポケットから取り出された、いくつかに折られた紙。それを広げ、読み上げていく。
「まず、当校は『|生活援助型ヒューマノイド《LAH》』の研究の協力校として選出されました。その目的は、『思春期の学生たちとの交流から、より人間、および心を理解・学習するため』というものです。私は学校からその研究の窓口に選出され、同時に『LAH』の対象者を選出する役割を持っていました。そこで私が適任と考えたのが、水樹くんだったのです」
「なぜ、彼と定めたのでしょうか」
警察の一人が肩までの小さい挙手とともに質問を飛ばす。
高橋先生は驚きもせずに言葉を続ける。
「『LAH』が当校に運ばれてくる日付が、丁度、水樹くんの学年が修学旅行に行く日取りでした。水樹くんは唯一、修学旅行に不参加。人柄は真面目で誠実。けれど人に言えない悩みも抱えているのは彼を見ていればわかります。学生ならではの行事を体験できない彼に特別な体験を、という想いと、この子に寄り添ってあげられる存在が必要と考え、勝手ながら彼が『マスター』となるよう……すみません、仕組みました」
「仕組んだ、とは?」
「彼に『LAH』の運搬を手伝ってもらった際、すでに起動し、スリープ状態にしておきました。接触した最初の人間が『マスター』となるように」
じゃあ、あの時、「電源入ってたか」って言ったけど、結局は計画的だったということなのか。
先生の気遣いに胸が熱くなる。気を遣わせて申し訳ないとばかり思っていたが、それすらも先生の心配の種になっていたのだろうか。体質と家庭環境のせいで、触らぬ神となってしまった俺に、高橋先生は唯一と言っていいほど親身に、分け隔てなく接してくれていた。
『マスター』は云わばクラスの係だ。けれど研究の協力という条件があるから、もしかしたら報告の義務があったのかもしれない。高橋先生は綱渡りをしてまで、俺に与えたかったんだ。貴重な体験と、『アル』という存在を。
「水樹くんの同級生は今週ずっと修学旅行で不在です。その間、彼はずっと学校で部活動に励んでいました。ずっと部活に励むということ関しては『アル』の存在は関係なかったと思います。月曜から木曜まで、私が見ていた限りでは特別な関わりはないように思いました。金曜日に外出してしまうまでは」
そこで、高橋先生は俺を見る。その視線は、優しかった。どこか安心しているような、決して責めるものではない。巣立ちを見届ける親鳥のような、どこか哀しげにも映る、けれどこれからの幸せを願うもの。憂いから解放されたような、そんな視線。
釣られるようにして、警察の人たちも俺を見た。そして求められているのも察する。
「別に……アルとは話をしていただけです」
「どんなお話ですか? 無断で学校から出て行ってしまった理由をお聞かせください」
丁寧に、それゆえの圧と言葉で、詳細を喋らざるを得ない。
相手が相手だけに冷や汗が垂れた。
「アルから話しかけられることが多かったです。「何を描いているのか」「何を考えているのか」って。俺が描いているものについては必ず聞いてきて……あとは、毎回「行くか」って」
「どこにですか?」
「……俺が、山荷葉って花を見てみたいって話をしたことがあるんです。そしたら毎回、俺がしたくするたびに「行きますか」って」
「へぇ」
反応したのは天野さんだった。にやり、と。得物でも見つけた蛇のような目線が背筋をなぞり上げる。
「け、けど、アルに強要されることはありませんでした。俺が……俺が、行きたいと強く思ったんです」
「どうしてそう思ったのか、ご自身の考えはありますか?」
「……たぶん」
息と言葉が詰まる。
きっと、俺が行動に移したのはこれがきっかけだ。それはアルを不利にさせるものではないと信じたい。けれど、俺の考えが、他と違う可能性ある。そう思ったら、言葉は胃の方に溶けていく。
部屋が沈黙に包まれる。俺に視線が集まっている。より、重く、行動を許さない。
「Re:aru、全自動モードへ切り替え。データの引継ぎを開始」
空気を読まない声が、沈黙を乱暴に破った。
聞き慣れた了承を示す音の後、静かに、俺に真っ直ぐに投げられた声が鼓膜を揺らす。
「――マスター」
「……アル」
人工の瞳が俺にピントを合わせたのがわかった。天野さんの後ろから、静かに、一歩ずつ歩み寄ってくる。全自動だから誰にも止められない。強いて言えば俺が止められるだろうが、むしろ、俺も席を立って、アルに駆け寄った。
「やめなさい!」
そんな俺の腕をひいて止めたのは、やはり母だった。
「あなた、その『LAH』のせいで、どんな目にあったかわかっているの!?」
鬼気迫る表情をしている。と、冷静に判断できる程度には冷静だった。
そう言われることはわかっていたから。そう思わせるだろうとも思っていたから。
引き留められている俺の近くにまで寄ってきたアルは、母に構わず俺を見ている。その存在感だけで、俺の心と口は、さっきまでとは違ってひどく軽くなる。
無表情のアルを見ていると、滑らかな口が自然と音を奏で始めた。
「母さん」
「な、なに?」
「俺さ、ずっと、反抗したかった」
振り向いた母の顔は、俺ではないものを見ている様に驚いていた。
「今までずっと、心配してくれてありがとう」
「え、な、なんなの……?」
「心配かけてるのは知ってた。心配をかけさせてるのは俺のせいで、母さんは母さんとして、俺に無事に育ってほしかったってわかってる」
「……」
「けど、ね。俺はいろんなところに行きたいとずっと思ってたんだよ。生まれ育ったこの北海道も。父さんのいる東京にも。同級生が楽しんでいる沖縄にも。見たことのない世界へ、俺は行きたかったんだ」
「で、でも。もしあなたに何かあったら」
「うん。わかってる。でもそれは……その心配は、俺だけに限ったことじゃないよね」
「……え?」
「どこでなにがあるかなんて誰にもわからない。母さんだって買い物に行った先で事故にあうかもしれない。不吉な例えをしてごめん。でも、そういうものでしょう? 何かあるかもしれないって思いながら何もしないのは、もったいないじゃないか」