1 チーリとじいじ・村の掟
宵闇
大きな鳥居が、こちらを物言わず見つめている、ような気がする。ここまで来てもまだ誰かに追いかけられているような、じっと観察されているような、気持ち悪い感覚が抜けない。
それらは全て気のせいだと言い聞かせる。この子と最後の別れになるのだ。出来るだけ明るく声を掛けてあげたい。
春の冷たい雨が、じりじりと自分と我が子の体力を奪っていく。
なんとか用意できたのは、薄汚れた紙のような布切れ一枚だ。ここの村人に発見されたとしても、果たして、運良く生き残ることができるのか。不安でしょうがない。
月明かりが、籠の中の我が子を照らす。
赤白い肌に少し黒い耳。眠っていても分かる大きな目。それが開かれている時には、好奇心旺盛な瞳が輝いている。
この子は今、夢の中にいる。幸せで暖かな夢を見てくれていることを願う。
「どうか優しい人に見つけてもらって、元気に育ってね。父も母も、あなたのことを愛しています。あなたをこんな形でしか守ることが出来ない私たちを許してね。自分の手で運命を掴み、自分の足で歩んでいけますように」
籠の中、物言わず眠っている赤子の額に口付けして、最後の挨拶を済ませる。
自分に残された時間は少ない。出来るだけここから離れなくては。
自分の左手があったはずの部分を睨む。左手につけられていた鹿の焼印。そのせいで、自分達の運命は大きく狂ってしまった。
1 チーリとじいじ・村の掟
「そっちそっち…あー逃げちゃったよ」
暖かい陽だまりの中、さらさらと流れる小川の側で草原から風が吹き抜け、新緑の匂い溢れる風が、優しく頬を撫でる。
「じいじがもっと静かに追いかけてたら、今頃みんなの晩御飯くらいの量は採れてたかもしれないのに」
じいじと呼ばれた初老の男は、白髪まじりの坊主頭を撫でながら苦笑した。
「チーリや、ウサギを追いかけて捕まえるには、じいじはちっとばっかし歳を取りすぎておるかもしれんな。どれ、一つ手本を見せてくれんか」
そう言われると少年は「やれやれ」といった風に顔をしかめながら、草むらに身を隠した。そして、ウサギたちに気付かれないよう、背後から足音を殺して近づいていく。じいじはその様子を微笑みながら見ていた。
よくあのように動けるものだ。将来は良い猟師になれるかもしれん。
チーリを草原に連れていくとウサギを捕まえ、川に連れていくと小魚をたくさん捕まえる。村の大人たちも、彼の器用さにはよく驚かされていた。
二人は血の繋がった家族ではない。八年前の春の霧雨煙る肌寒い日だった。一人の猟師が森に仕掛けた罠の様子を見に行こうと鳥居の下を通った時に、籠に入れられた赤ん坊を発見したのだった。手編みであろう籠の中で、薄いぼろ布だけ身につけひどく衰弱していた。
本来、この村では捨て子や拾い子は厳しく禁止されていた。しかし、発見した猟師は、冷たい雨の中ひどく衰弱している様子の赤ん坊を見捨てることができなかった。悩んだ末に、村長である自分のもとに連れてきたのだった。
すぐに村の医者を呼び、手当てをした。懸命な措置の後、青白かった顔に段々と赤みが差し、立ち会った者皆で喜んだ。
赤ん坊は大きな声で泣き声を上げ、そして、泣きつかれたのか眠った。その時に大きな安堵のため息が漏れた事で、体に力が入っていたことを実感した。
そしてそれと同時に村の掟が思い起こされた。
『捨て子も拾い子も災いの忌み子であり、固く禁ずる』
これは、この村の成り立ちから伝わってきた唯一の掟であった。何があってもこれを破ることは許されない。しかし、目の前にいる赤子の無垢な寝顔を見ていると、この子を死なせるという選択を自分に行うことは不可能だと感じた。
妻も子も既にこの世から去っている。
この子はそんな自分の元に産まれてきてくれたのだ。拾い子でなく、つまり、掟には反していないと自分に言い聞かせ、自分の子どもとして育てることにした。
当初は、村人たちからの反対もあった。しかし、長年の間に形骸化した掟である。数年も経つと、気に掛ける村人もいなくなり、本当の村人のように接してくれるようになった。
赤子には「チーリ」と名付けた。これは妻の名に因んだ者であり、彼女のように優しく育って欲しいとの思いからである。
「じいじ、ねぇ、じいじってば。ほら、ウサギだよ」
チーリが大きな目で顔を覗き込んでくる。
「本当はね、もう一羽いたんだけど、僕、くしゃみしちゃって。だけど、とりあえずこれで、晩御飯のお肉には足りそうだね。ナハちゃんのところもヤカくんのところも、みんなたくさん食べるからね」
じいじは笑顔で頷くと、チーリの頭に手を乗せ髪をくしゃっと撫でた。
「みんな、とても気に入ってくれるだろうね。今夜は腕によりをかけてご馳走にしようか。たくさん食べてもらおう」
この子がいつまでも、優しく健やかに育ってくれますように。そして、願わくば成人を迎えるまで、この子と一緒に過ごすことができますように。
そう願いながら、帰路についた。