第4話 言葉は伝える為にあるのですが
「……大丈夫? 二人共」
「ッず、び……も、もちろんです、先程は淑女らしくないおみぐるしい姿をみせて、しまい、申し訳ありません……ッ」
頭を下げて淑女らしくお辞儀をするが足はふらふら、鼻水を啜る音は何とも恥ずかしい。無性に胸が熱くなって、頬が熱くなって身体中から汗が噴き出しているようで黙り込む。
「ねえ、本当にクーは大丈夫なの? 持病の症状が……」
イクシャは獰猛狡猾な悪女であった者の疾患を持ち合わせていた。喘息と、アレルギー。寒い所には長居が出来ず熱を出すことも多い。
「いえ、大丈夫です……体調も悪く、ありません……」
その瞬間から気まずい空気が流れる。
──「おかあ“さ”ま」
永い沈黙を破ったのは意外にもリュシアンだった。おかあたま、ママとも言わずにちゃんと発音出来た。まだ子供特有の訛り? やスピードの遅さは残るがイクシャはまた胸が熱くなってしまう。情けなくも羞恥心に覆われていても泣いてしまいそうになる。
鼻から耳を赤くさせたリュシアンが蒼い瞳でネニュファールを見つめ、ゆるりと天使の微笑を浮かべる。その表情はとても安らかで愛らしくて可愛らしくて、言葉に出来ないくらいに眩しいものだった。
「ねえ、久しぶりに、一緒にごはん食べよう?」
「し、シアン……ッ」
永らく逢っていなかったその間に少しずつ少しずつ積み重ねをして大きく成長しているリュシアンを目の当たりにしたネニュファールは目を見開いて固まり、息を呑む。
その様子に微笑んで踏み出し扉へと歩むリュシアンがその小さな手で掴み握っていたのは──イクシャの手だった。釣りあげられる魚のように一緒に歩き出すイクシャはネニュファールと同じように目を見開いて驚愕のあまりに言葉を出せずにいた。
「お母さま早く!」
「えぇ……えぇ……!」
姉弟の成長、お互いを支え合い助け合う小さな歩幅の歩みをしみじみと感じ見て柔らかに目を伏せて二度頷く。その後ろをネニュファールは絨毯から膝を離し駆けだす。
爽快と言う言葉が似合う表情であった。やっと、踏み出せた気がした、太陽のように温かい家にする為に行動出来たような気がした。
▲▽▲
夕食の時間は必ずと言っても過言ではない程に暗い。途轍もなく暗い。暗すぎる。まるで葬式のようで息が詰まり、何時も腹いっぱいに食事を出来たことがない。
ネニュファールもリュシアンも普段は明るく無邪気に率直に表情を露わにする。天使のような眩しさと神々しさを放って。
だけど。
──「ああ、そう言えば、イクシャ」
名前を呼ばれる。只でさえ凍り付いている真冬のような冷気を漂わせる空気によって出来たこの部屋全体を固まり包み込む大きく硬い氷に亀裂が入ったような気がした。
(あぁ……怖い)
「ネニュファールの部屋で暴れたとか」
何も感情の伺えないその無表情の鉄能面のベルナールからは溢れるばかりの怒気が感じられる。この場にいるネニュファールとリュシアンの表情が強張り緊張の糸が張る。
「暴れた、と言うか……」
「全く言い訳するのかお前らしくない。疲れているから休んでいると伝えられたのに、無理矢理に入ったと聞いたが」
「そ、それは……ッ。──違うわ」
その言葉を言ったのはイクシャではなくネニュファールであった。眉を顰めて皺を刻む姿は凛々しいが、顔は俯いて、そっとベルナールを睨み付ける。
「どういう事だ、最近は忙しく疲れて居たのだろう。そう侍女から聞いたが」
「た、確かに、そうでした。でも、……いいえ、私が悪かったの。寂しい思いをさせてしまい混乱していたのでしょう、クーは悪くない。シアンも勿論悪くないわ。怒らないで」
顔を上げたネニュファールに野獣の顔付きになっているベルナール。二人の間にだけに火花が散っているような。鋭く冷たい視線がお互いを突き刺す。ネニュファールの顔色が悪い気がする。疲れて体調が悪いのは本当だったのだろう。だけど口を出すなんて到底出来ぬことで、シアンに至っては黙り込み“我空気”を突き通している。蒼褪めた血色の悪い天使を、直視することはとても出来なかった。
「……とにかく面倒事を起こす事は無いように。ネニュファールに無理をさせず静かに過ごすように」
暗い深海のような翳りを持つ蒼い瞳が細められる。ネニュファールは傷付いたように、泣きそうなくらいに顔を歪め悔し気に上唇を噛んで項垂れた。
(面倒、か……)
子供の嘆きを、子供の母への恋しさを、子供の哀しさを、子供の怒りを、子供の悩みを、この人は何でも“面倒事”で片付けてしまうのか。
──「イクシャ、次はない」
父の顔を見ることが出来なかった。イクシャの身体は小刻みに震え、テーブルの下で己自身を己で抱き締めていた。心と手先だけは冷たく凍り付き、他は真夏のように暑い。寒暖差でどうにかなりそうだ。
「何時までも子供が通じると思うな、淑女として精進しなさい」
訓戒を下すベルナールにイクシャは母であるネニュファールのように唇を噛み締め、重々しく頷いた。本意ではなかったが致し方がないことだった。この家においてローベル家当主、カシャロット公であるベルナールに逆らえる人間など存在しない。
(今まで父らしい事なんてしてこなかったのに、今更父親らしく訓戒何て……)
暴君で冷徹、何を考えているか分からない能面で、家庭よりも仕事が大事な、人。リュシアンと同じで関わる機会はなく疎遠となっていた、だがイクシャが問題を起こす度に不機嫌な顔で父親のように訓戒や処分を下し、最後にはイクシャに「家族ではない」と言い放った男。
(あの時と同じね……今はまだ温かみのある家を破滅へと追い込むこの人は、)
変わると思っていた。ネニュファールとの交流が上手くいき、子供として誇りに思われるように努力して来たら何かこの人も変わるのではないかと思っていた。
──でも、変わらないのね?
ベルナールの寝室や書斎の扉の前で立ち尽くし微笑みを向けられるのを渇望していた己。でも開くことは一度もなかった。鬱陶し気にされたことがあの時から脳を焼き付いて離れない。
「話は終わりだ」
美味しい筈の夕食が味も無いように感じた。匂いもしなかった。