第3話 理解したいからこそ
「ねえ、お母さまにあいたいの、取りついでくれるかしら」
「すみませんが奥さまはお疲れでおやすみになっておりますので───」
この扉の前に立ったのは今日含めて何十回目。同じ言葉で何時もみたいに軽くあしらおうとしているみたいだけど今日のイクシャは違った。弟の不安や悩み、悲しみの言葉を聞いた今、弟の為にやり直しを誓ったくらいのイクシャは、今日は引き下がらない。
眉根を顰めた小さな少女は自分よりも大きな侍女達を見上げて睨む。そして大きく縦に口を開いて。
「あなた達はいっつもそう!」
声を二回目の人生を生きて初めて荒げた。周りにいた使用人達は驚きのあまりにか、石のように固まって動かなくなった。
凍り付く空気。棘のような視線にイクシャは、ぎゅ、と瞼を伏せて、立ちはだかる大きな壁のような扉に向かって恐る恐るだけど普通にノックする。お嬢さま、と侍女達に止められるが、イクシャは微動だにせず。
「い、イクシャです、話があるので入ってもよろしいでしょうか?」
その声に息を吸う音が聞こえる。平常を装って声音を出したつもりが怒りや哀しさ、不安が滲み出してしまったのか。その呼吸音が了承の合図だと思い、扉の取っ手を掴む。
「では、入りますね」
「クー……まっ、」
中のネニュファールの声と共に再度止める焦燥を含んだ声。それも何もかもあらゆる音を聞こえない振りして、中に踏み込む。淑女としてはしてはいけないことだけど此処で引いてしまっては駄目だと思うから早く誰よりも早く動いた。
止められ妨害されるのなら、その邪魔も何もかも潜り抜ければいい────全ては愛しのマイ天使、我が弟の為に。
扉を開けて中に入るとすぐに清潔感漂う金糸が使われ植物の刺繍のあしらわれている白い洋服を身に纏った麗しい女性が此方へと駆けだしていた。己を止めようとしていたのか何をしようとしていたのかは疑問になる。ネニュファールはイクシャの姿を見るや否や急ブレーキをかけ、立ち竦む。
目を丸くする弱々しい雰囲気を纏った女性はやはり、己の母親。凄く久し振りだ、普通の家庭ならばそんなことありはしないのに。本当に、久し振りの対面だった。
「クー、話って、こんな振る舞いをしてどうしたの……」
翠眼はおろおろと空虚を彷徨う。突然の訪問、そして淑女として鏡になるよう努めて来たイクシャの考えられないマナー破りの行動。まだ頭の混乱が収まらないようで苦し気に表情を歪める。
「単刀直入に訊きます。何故、お母さまは私やリュシアンと逢おうとせずにお部屋に籠っておられるのですか」
「ぁ、……っ」
言葉を失ったネニュファールは心外だと言うように被りを振りながら後退る。その様子に沸々と腹の中から煮え繰り出し喉まで込み上がって来る何ががある。
「私はともかくリュシアンには逢ってあげるべきです。この部屋に籠って意味があるのですか、何かお悩みなのですか何か私やリュシアンが原因でお辛いことがあるのですか」
「………そ、れは……っ」
(はっきり言って、相当怒りが溜まっていたらしい。今、リュシアンを不安に、悲しませる根源となっているこの人が、許せない)
──何にもしてない癖に。傷付いたような顔をして、会おうと、話そうと、行動しようともしてない癖に。
「私とリュシアンの方がお母さまよりも、ずっとずっと、辛くて苦しくて、不安になって沢山悩んで泣いて傷付いています!!」
「く、クー……い、いくしゃ……っ」
翠の綺麗な、世界を映し出すような瞳には薄い水の膜が張られ潤んでいる。眉間の間に深い皺が刻まれ、今にも泣きそうで苦しそうで辛そうで。その表情は今にも溶けてしまいそうなくらいに危うげをも含んでいた。
「わ、私だって、お母さまに聞いて欲しかったこと、お母さまに笑ってほしかったこ、と……お母さま、と一緒に居たくて、ずっと……ッ空き時間にはお外に行ってお花を摘んで会いに来ても、もんぜんばらいになって……苦しくて苦しくて傷付いて、」
こんなことを言いたい訳じゃなかった。別に今まで通りに微笑んで部屋を出てくれればいい。話を聞いてくれればいい、自由に出入り出来て頭を撫でてくれればいいだけ。
リュシアンを哀しませてほしくなかった。それだけなのに、感情が溢れて言葉がとめどないくらいに出てくる。
「しあ、シアンに限ってはきらわれちゃったのかなって思ってて、ふあんで、でもお姉ちゃんだから、しっかりしなくちゃって、じじょたちと、同じことしか言えなくて……ッ」
嗚咽交じりに怒声を上げ。使用人からネニュファールから言わせれば“あの”イクシャが酷い癇癪を起している。泣いている怒っていると驚愕だろう。
でもそんなことでもイクシャは身に覚えのないくらいに一つの気持ちが心を満たしていた。
──どうかお願い、嫌いにならないで、嫌わないで、何処かにいかないで、もう手を離さないで、おいていかないで、大好きなのに、大好きなのに。
イクシャのまだ、子供のままの心。母を失い父とは疎遠になり、家族が居ないと錯覚していたイクシャが泣いて喚いて暴れたけれど大事にしていた母を想う娘の気持ち。
「前、言いました。お母さまは私の隣にいるんですよね、お母さまはわ、私が、辛くなったり責められたりしたときは、おかあ、お母さまを、頼って、良いんですよね!?」
「ッ、ぅん……」
涙ながらに頷くネニュファールの表情にぎゅ、と胸を絞られる。
「おかあさ、ま……わ、わたしを、きらいにならないで……ッわたしと、しあんを、嫌いにならないで、おいていかないで……ッ!」
泣き過ぎでしゃくり上がる呼吸、水っぽい鼻息。淑女として、今まで努力を積んできたのだから鼻水は、何とか我慢しようと上唇を噛んで顔いっぱいに力を入れる。そんなことを無意識のうちにしていたイクシャに柔らかな包み込むような春の花の匂いに懐かしい、何時まで経っても忘れられない温もり。
腕の力に気付いたその時、何もかものストッパーが外れた。
「ごめんね、ごめんね………そんな、風におもわせて、ごめんね……ッ!」
「おかぁ、かあ……ッ、ああぁ!! おかあさまぁあぁあ……ッ!!」
──「おかぁ、た、ま……ま、ママッッ!!」
駆け寄って来る天使の声。気遣う余裕もない涙に呑み込まれていた。抱き締め合うイクシャとネニュファールの間にするりと入って、泣きじゃくる隣の弟。
力の限り互いを離さないと腕を回していた。
「クーにシアンねえ聞いて。あな、ッ貴方達はママの誇りであり宝物よ。ママの世界そのもので全て……」
くぐもった声。たどたどしくて、嗚咽交じり。ネニュファールの顔は自分達の背に向かっていてどんな表情で言っているかも分からなかった。けど、温かい血の通った言葉。
前回は不安で心配で、堪らなかったこの時の己。
今と違って前回のイクシャは正真正銘の幼子だった。だけど感情を家庭の雰囲気を嫌になるくらい感じ取って表に出す事が出来ずに閉じ込めて押し込めて黙っていたのが事実。
嫌われていた。大好きな母に、愛されていなかった。棄てられた。置いていかれた。
辛くて悲しくて……でも、嫌いになれなくて。行き場の無い想いが選んだ先が極端なまでの無関心。
不安で不安で、でもきっとイクシャはそれを打ち明ける事無く、母も娘の不安に気付けずに……離婚を選んでしまった。
理由は分からない、もしかしたらネニュファールも望んでいなかったかも知れない。それはほんの小さな可能性。でもイクシャにとっては絶望を暴走に変える決定的な出来事。
悪女、イクシャ・リセ・ローベルが破滅へと追い込んだ最初の出来事。
──「心から愛してる愛してるわ、だから泣かないで。寂しくて苦しい、辛い思いをさせてしまってごめんなさいママが悪かったわ」
髪を梳く優しい手を、柔らかな笑みを、甘やかす声を、聞いた。何処までも滑らかで、何処までも優しい言葉だった。聞いた事も無い打ち明けた事もない前回からの未練の塊。
どうして自分を置いていったのか。どうして棄てたのか。どうして
「ママはね、努力して無邪気に笑う貴方達を嫌いにならないわ……ママがいけないの。ママがね、いけなかったの何も悪くない何もしてないわ、むしろ我慢強いってくらいよもっと甘えてきていいの」
だから、笑ってと繰り返した、ネニュファールの微笑。この世の者じゃないくらいに奇麗で、きっと太陽よりも眩しくて温かいものだった筈。少なくともイクシャとリュシアンにはそう感じただろう。
「うぁ、………ぁあ……うぁあああ………!」
二つの幼い声が屋敷中を響き渡った。