第2話 不安に心配、悲しみの芽は摘んでおきましょう
──「ね、ぇ………、姉、さ、ま!」
言い終えたリュシアンは花咲く笑顔になって、その笑顔にも何もかもが愛おしく胸に沁みて感極まった表情でイクシャはひれ伏してしまう。
先月に六歳の誕生日を迎えたリュシアンは子供特有の聞き取れにくい言い方を直す為に日々の家庭学習とフェンシングなどの跡継ぎ教育の稽古の前にイクシャと発音練習をしていた。
“さ”を“た”とよく言い間違えてしまうような、そう聞こえてしまうような発音だったのが速くとはいかないけど練習の成果が出て発音がちゃんとしている。
その感動に涙を流しそうになるイクシャに、褒めてよ褒めてよと得意気な顔で頭をイクシャに向けてぐいぐい下げる。上目遣いにせがむその表情に、胸を掴まれる気持ちになって幸せにイクシャは笑い、灰色系統のさらさらふんわりした髪を梳きながら柔らかい手つきで撫でて居る。
「シアンは偉いねー、ちゃんと発音できてる!!」
「うんっ! しあんはねー偉いんだよ!」
言葉にもたどたどしさは無くなって来た。成長を嬉しく思うも、愛しく思うも小さく無邪気奔放なリュシアンがいなくなってしまうのかとあの美男に変化すると思うと寂しさもあり自分がいらなくなる時が来るのだと言うことが思い知らされて何だか胸が詰まる。
「そ、そうだ、シアンがお母さまの前でも成長してるんだって言って驚かせようよ! フェンシングも上達して名手になるかもって先生に期待をかけられてる事だし、披露したら?」
「むり」と言ってリュシアンが突然顔を険しく歪める。大きな瞳が小刻みに、震えるように揺れる。その表情にイクシャは息を呑んで、おろおろと慌て戸惑ってしまうのだった。
(わ、私の天使が泣きそう……ッ! どどど、どうしよう、お母さまの話題を出したら、急に……)
「お、お母さまと何か、あったの……?」
声が裏返った。いけないいけないと心を落ち着かせようとする。あんなにもネニュファールにべったりだったリュシアンが、母を喜ばせる提案に拒絶を露わにした事なんて初めてで驚いた。
「だ、だっておかあ……たまは、ま、ママは、最近ぼくにも……姉さ……まにも、逢ってくれ、ないから……、きっと嫌いになっちゃったのかな、って。あうのが、すご、くこわいんだ……ッ!」
リュシアンはイクシャに抱き着き、顔を埋める。首を垂れて泣き出しそうに上下に大きく震えるその小さな背中にイクシャは再び息を呑み、心の臓が止まるような、刺されるような痛みを覚える。
「そ、そんなことないよ───っ! ただ、ちょっと忙しくて疲れてるだけだよっ! ……き、きっと、そうだか、ら」
その言葉は侍女達執事達使用人が必ず口にする言葉だった思わず口に出た。逢いたいと言えば「忙しいから」「疲れているから」と何かにつけて言い訳をして、逢わせてはくれないこと。あんなにも自由に出入りが出来て一緒に居れて抱っこしてもらって頭を撫でて居たのにも、自由には逢えなくなってしまった。
「ほんとうに……? 皆ママが忙しいとか疲れてるとか、いうけど、ほんとうに?」
訝し気に光る曇りもない蒼い瞳に目を背けたくなる。答えたくない答えられない。だけど口はすらすらと息を吸うように言葉を吐く。
「……う、うん! 今はちょっとね、つごうが悪いからに決まってるよ。シアンは何も悪い事はしてないよ安心して、お母さまは、ま、ママはっ! り、リュシアンの事も、私の事も好きだよ!」
そう取り繕うしか他ない。ネニュファールの状態何てリュシアンの六歳誕生日パーティー以来にずっと逢わずに過ごしているから──全くにどういう状態で、どういう心理でどういう事で都合が悪い何て分かる筈ない。憶測で話を進めて安心させようとしている己に腹が立った。
けれど、薄々感じていた。ネニュファールが家を出て行きベルナールと離婚するのはあと三年も無い。次のクリスマス前日でイクシャは八歳。だとすればもう二年弱だ。
喩え、幾らイクシャが淑女としての教育を頑張り両親の誇りになるように従順に美しく真面目に、素直に明るく育ったって、リュシアンと仲良く鋼の絆で結ばれていると使用人に微笑まれ、リュシアンが真面目で天使のような容貌で性格まで清らかで、跡継ぎ教育を熱心に取り組んでいても。
これは妻であるネニュファールと夫であるベルナールの仲の問題だ。子供は何も言えず何も行動が出来ない。全ては夫婦で相談し合い決定し合うのだから。
前回がそうだった。ひっそりと誰も連れず誰も知らないところへと荷物を纏めて消えたネニュファール。今まで以上に家に帰らず仕事に打ち込み冷徹な目でイクシャとリュシアン姉弟を睨んだベルナール。
ネニュファールの行方をこれでもかってぐらい粘着質に調べ辛抱強く待っていたのはイクシャであり、多分きっとリュシアンでもあったであろう。
探偵は翠眼の美女が田舎で自給自足の生活を送り店を開いていると耳にしたらしい。それを解った上でネニュファールの幸せを壊さない為に、逢いに行かないと決めたのはイクシャ。
だけど。
(今度は、次こそは、お母さまから、手を、離さない。シアンの幸せの一歩の為にもこの家の為にも、だから、早く逢いに行かなくちゃ……一対一で話さなきゃきっと私の声はお母さまの苦しみに悩みに届かない)
独りで居なくなって我武者羅に強硬手段を取って独りで幸せを取った人だから。あんなに儚げな印象を与えるのにも心身共に強き人だから。
──「あ、今日も二人で発音練習ですか? 仲が良いですね、ローベル姉弟は。リュシアン、昨日の宿題は終わらせてきたかい? それと、こんにちは、イクシャお嬢さま」
微笑んだ落ち着いた雰囲気のある、だけど探求心と好奇心を忘れない子供っぽさもあるあどけなさも兼ね備えた男性の登場に二人は華やいだ声を出す。
「こんにちはぁ! フロウラント先生! 宿題は……もちろん、姉さまと終わらせました!」
「ご機嫌よう、ベル先生。今日もシアンをよろしくお願いします」
フロウラント・トロワ・ベル、後に臣下の頂点となる宰相になる人で若いながらも重宝される学者であり皇室書庫、禁書庫の管理人を務める立派な男性である。
「イクシャお嬢さまと終わらせたのかー、普段は嫌な宿題も楽しく感じられただろう良かったな」
くしゃくしゃっとシアンの髪を撫でる。それに合わせて弾む声。美男が天使を撫でてほんわかした雰囲気が漂う。この雰囲気最高だと思う、此処って天国かなあっとぼんやりイクシャは思う。
フロウラントは優しく一つ一つ丁寧に授業をする。だからこそリュシアンも勉強を嫌いにならずに嬉し気に楽し気に受けることが出来るのだろう。
それはイクシャも同じだった。
イクシャは前回の人生ではそんなにも学ぶことに関心がなくこの人の授業もすっぽかすような、サボる事をしていて侍女長からも失礼でしょうと怒気溢れる剣幕で叱られていた。
まあ今では学ぶことが楽しいと思いちゃんと授業を受けている。淑女として生きると決めた以上そんな淑女あるまじき文武両道ではなく不良のような振る舞いなど死んでもしてはならない。午前中はリュシアンの跡継ぎ教育、午後からはイクシャの学ばなければならない淑女教育と日々、時間帯が入れ替わる。
何時も、淑やかに嫋やかに。聡明怜悧、才華有徳、完全無欠の、弟想いな少女────それが今のローベル家一人娘であるイクシャだった。
(苦労して幼い頃や何やらの記憶を掘り出して掘り出して今のイメージまで至った。これを崩すわけにはいかない)
「それでは、ベル先生も来たことだし邪魔にならないうちに出ていきますね。シアン、授業、頑張ってねっ!」
天使とは暫しのお別れ。寂しいがまた逢える。跡継ぎ教育をこれからする最愛の弟に声援を送って、小さく会釈をしその場を退出した。尻目には手をひらひらと振って少し寂しそうな表情をする天使の姿が見えた。胸が苦しくなるきゅ、と絞られるように。
─────気を取り直さなくちゃ、本題よ。お母さまに逢いに行かなくちゃ、リュシアンの泣き顔を見ない為に、温かい家とする為に。
あの時、握った腕を離しちゃ駄目だから。