第19話 不器用に、お父さん
「……お、お父さま……?」
何を言ったか。この人は笑って自分の事を馬鹿だなと言ったのだ。プライドが物凄く高く、頭が固いと思っていた父が。
目の前で起きた事への彼が何がきっかけとなったのか知りも知り得ないが変わろうとしている事への喜びよりも逆に恐怖を感じてしまう。もしかしたら今すぐに大雨が降って、足が滑り湖畔の中に落っこちるとか、そう言うハプニングが起きてしまうのではないかと鳥肌が立つ。
「──パパ」
「え?」
「ぱ、……パパで二人の時は良い、敬語も要らん」
あれやこれやと言いたい気持ちを押し込んでイクシャは俯いて、小さく、「ぱ、パパ」と呟いた。身体は強張り緊張から全身の毛穴が開いて汗が噴き出してくるように顔が熱くなった所で、ベルナールの呼吸音が聞こえ、手を掬い取られる。
手は、ネニュファールの線の細い繊細で儚く体温の低い手よりもずっと大きくてしっかりとしていて、包み込むような温かさがあった。感じた事の無い逞しさに頬が不思議と緩んでしまう。
進む歩みはパーティーの時よりもずっと遅くて、己の歩幅とスピードに“あの”ベルナールが気遣ってくれているのに気付くまでそう時間は要さなかった。
「おと……ッ! あ、ぇと、ぱ、パパは、どうして今日、私と……?」
何で少しの時間じゃなく一日過ごしたいだったのか。何で皆が目覚めて居ないこんなに早い時間なのか。ベルナールと言う前は遠ざけていた父の口から訊きたかった事が山ほどある。
「父が娘と一緒に居たい事に、理由が必要か」
何時になく真剣で真摯に伝えて来る真顔の父。
「今まで父親らしい事してこなかったのに!」とか「何が父よ! 裏切者!」なんて今後そんな優しい父としての言葉が聞く事が奇跡に近い事だがあったら、もしあったら言ってやりたかったのに。胸に熱気を帯びて疼くのは純粋な娘としての、八歳の娘として、見限られた娘としての気持ちだった。
(……娘と、見て、接してくれた……初めて、初めて)
嬉しい。優しい。温かい。大きい──泣きそう。
──お父さま、待って。今日、美味しい紅茶が届いて街で流行ってるお菓子も買ったんです……、あの、一緒に飲みませんか?
──お父さま、お父さま。今日はヴァイオリンの先生から、それとノーフォークテリア夫人から私のダンスが天使のようだって、一番の教え子だって褒め称えられました!
お父さま、待って。
お父さま、お父さま、……お父さま。
“お願いだからこっちを見て!! 一緒に居たいよ、パパ!!”
必死に足掻いて苦しい言い訳をして、ある事ない事を何時の日からか平気に言えるようになっていた。でも、一緒に居たいって言うのには理由なんて無かった。
イクシャが理由もなく寂しくて、何故か寒くて辛くて苦しくて悲しくて嫌で、怖くて暗くて胸にぽっかり穴が開いたようで。
帰って来ても家を仕事に出て行っても、寝ても覚めても仕事の事しか考えずに書斎部屋に籠るベルナールのその背中が、振り向いて欲しかったのだ。後姿を見ずに済むならどれだけいいのだろうと独りの部屋で願い祈った。
(どれだけ、冷酷で無情で、無関心で無神経でもそんなお父さまだけれど、思った事は変わらなかったのね。理由なんてなく、傍に居て欲しいのは、前の私も、今の私も変わらずに思ってる事)
「ううん、理由なんて親子に、必要無いよ……っ! ただ、不思議でパパの背中じゃなくて顔を見れるのが」
歩みを少しだけ速めて隣に立つ。これも初めての事だった、自らこんな心地良い雰囲気のままに父の隣で歩くのは。
地雷を踏んでしまったかもしれないと様子を窺えば、やりきれないような申し訳なさそうに冷や汗を垂らすベルナールの顔が見えて。
「ぁ、パパの事を責めてる訳じゃなくて……ッぃ、今が幸せだなって思ってるって事だからっ」
「……まなかった」
わ、と小さく声を上げたイクシャは既にベルナールの腕の中で、耳は塞がれていた。頭が現実に追い付くまで長い時間が必要になる。突然の出来事だしこれはこれで考えもよらなかった奇跡的展開だったから。
「さん、ざん……つけた今、……親面して」
途切れ途切れで何て言ったかは余り定かには聞こえなかった。イクシャは父親の鼓動の音の大きさと速さに驚いて息を呑んでしまう。こんなに、取り乱している姿なんて見た事が無かったから。
暫くして離れたベルナールは何事も無かったかのように用意された朝食をイクシャを席に座らせてから涼しい顔で食べ始め、料理の感想を聞いてくる。
気遣って様子を窺っているような態度に、イクシャは瞬きを繰り返してしまう。
人間らしさもなく、表情の起伏も乏しいこの人が、普通の人間に見えて仕方が無かったから。
娘との接し方に悩む父親に、一般の父に見えるから。
(……、……もっと早く、もっと早く素直になれば)
あんな人生を送る事も、今のように嫌な感情を抱かずに済んだのかな。
──助けて助けて。どうして、どうしてこうなったの!! 私は悪い事なんかしてない!!
過去の自分の言葉一つ一つ、悪魔と言われた姿が脳裏に過ぎる。“好き”に恋し愛し焦がれ“好き”によって破滅に追い込まれた哀れで愚かな悪女だった自分。
フェリシテと対峙して何時不利な状況に陥ったら、どう人が転ぶかなんて目に見えている。どんなに今、純真だの天使だの褒められ称えられていてもだ。
でも、家族だけは、家族だけは今度こそ、信じたい。
大切な事に気付かせてくれたのは弟であるリュシアンで、きっかけをくれたのはどんな事をこの戸惑いの姿の裏で考えて居ても父であるベルナールで、優しさと変わらぬ愛をくれたのは母であるネニュファールだから。
「クー……どうした、料理が不味いか」
初めて愛称で呼ばれている事に気付いた。能面でも少しだけ眉が困らせている。
「ううん、パパと……一緒に食べられて嬉しいし、美味しいよ!!」
そう愛らしい笑顔でイクシャは言った。




