第17話 夕陽を背に君を想う気持ち
(有り得ない……有り得ないッ。なに、かの間違え……に決まってるわ)
「あれ、固まっちゃった。返事は?」
力なくへらへら哂うクロヴィスと、自分の手の甲を何度も凝視する。
手の甲に刻まれた柔らかい感触、思い出したくも無いイクシャの脳内に幾度となく嫌という程、その瞬間が鮮明に蘇る。ぱ、と絡めとられていた手を振り払って胸の前に添えて、感触を忘れるくらいの強さで撫でるが逆に其処から熱が移って顔まで到達する。
牛か馬を宥める使いのように両手を前にどうどう、と何回も空気を押すようにしながら後退りをしてクロヴィスとの距離を離す。
風に当たりに休息に来ているのにもこれじゃあ意味が無いではないかと暑さを感じながら深呼吸をして速まる胸の音を静まらそうとするがこれも意味が無かった。
イクシャの真っ赤な顔を見て、クロヴィスは頬の染まったままに可愛らしく爽やかに笑いを漏らす。その姿を目にして、更に赤くなる様に堪えきれなくしてクロヴィスは笑顔になる。
「……へん、じなんか……ノーに決まってるで、しょ! 何で、私が、どうしてッ! 貴方みたいな変な人と! 婚約なんて望んでないって言ってるじゃない!」
「それは建前。本当の事言って」
どういう事と怪訝に眉を真っ赤なままに顰めるイクシャにクロヴィスは近付いて。
「だって、君ってば顔真っ赤だもん」
揶揄うような、子供のような語尾でも色気を含んだ声。負けじと睨みを利かせるイクシャは唇を噛み締める。
「ま、っかって……ッ」
(一体誰のせいよ……急に、口付けて来る貴方のせいじゃない)
唇を我知らずに尖らせたイクシャは火照った頬に弾かれるように手を添えた。揶揄いを受けるのは嫌な筈なのに、心は冷え切る事なく熱を帯びながら早鐘を打つ。煩いと思っても止まる事もなくむしろやけに大きくなっていく。
「あれ、君もしかして僕のせいって言うの?」
「ッるさい!」
心を読んだように図星を指してくるクロヴィスの表情は良い玩具を見つけたと言わんばかり。
「ふざけてるでしょ? 普段もこんな態度な訳?」
急に静かになって沈黙が始まる。イクシャは恐る恐る相手の顔を窺う。と、クロヴィスはもう夜になりそうな空を見ていた。
「そんなに僕の事知りたいの?」
「ば、馬鹿言わないで、ただ疑問に思っただけに決まってるじゃない。その……貴方の振る舞いが、……余りにもふざけが過ぎているから」
「ふざけが過ぎちゃうのは揶揄いがいのある君が相手だからじゃない?」
イクシャは黙り込んで考える。それは馬鹿にされているのか褒められているのか。外に出て居ないで世間知らずなで染みついたイメージと本当は違う事を馬鹿にされているのか。
「ほら、太陽が沈んで月が出て来たよ。もうそろそろ子供の時間は終わりになるんだから残りの時間くらい、自由に楽しんだらどう?」
空を見れば言われた通りに真っ暗になっていた。まるで絵画に描かれた空のように幻想的で、何時もは寂しそうに見えるのに今日は月が笑っているように見えた。それは星々が周りで輝き始めて来たからか。真っ暗闇の中、独りじゃないから。
夜に変わった空からイクシャ、テラスの出入り口へと目線を動かして。
「……イクシャ・リセ・ローベル嬢、それでは失礼致します。私の言葉をお忘れなきように、それと、また逢う日を楽しみにしていますよ」
突然として紳士的な行動になるから狼狽してしまう。戸惑いがちに瞳を動かすイクシャにクロヴィスは悪戯が成功した子供が笑いを堪えるような表情になるも、言葉を続ける。
呆然とするイクシャの手を絡めて取る。クロヴィスの少しサイズの大きな手にのった己の手。優しく包み込むような体温が伝わってくる。
「───天使さま、どうかこれからの訪れる幸せが沢山な事を願っております」
咎める暇もなく、クロヴィスは色白の柔らやかな手に口付けをする。イクシャの思考が再開されるのはその直後だった。一礼し、微笑んでクロヴィスは先にテラスを出る。
再び紅潮するイクシャはとてもじゃないけれど今は歩けないくらいに心の臓の音が大きい理由もあって、同時に出ないで時間が経つのを待った。
△ ▼ △
─────「お姉さま……ッ! 今までテラスに居たんですか? 風もつめたくなったのにも、ほら、手がつめたくなっています」
「お嬢さま、いい加減にして下さい。こんな時間に、外に出て居て風邪でも引いたらどうするんです?」
二人のしかめっ面に頬の熱を冷ます為に居たイクシャは苦笑をする。「落ち着いて」と言っても二人の形相は険しくなるだけで悪影響だと気が付き、俯いて反省する素振りを見せる。
その様子を見て、ロゼとリュシアンは顔を見合わせて、何時も通りの優しい顔に戻る。
「……温かいお茶を用意します。すぐに召し上がりになって下さいませ。此処じゃ冷えた水か果実水に酒か、しかありませんから、早く寝室に行きましょう」
「ええ」
「え! その前にお風呂も入って身体を温めて下さいッ、唇は真っ青ですよッ!」
一生懸命に心配してくれる人の存在に身体は冷たいのに心が温かくなって微笑を浮かべてしまう。
豪華絢爛としたパーティーを楽しみ続ける父とその同僚や重臣。其処に居なければならないのにも参加者の子供の見送りを口実に自室に戻った母の溝の深さを目の当たりにし、イクシャは俯く。そんな様子にリュシアンは眼を細めて唇を噛んでいた。
背中を押されながら脱衣所へと歩き出す。
─────それは建前。本当の事言って。
クロヴィスの言葉が蘇る。氷砂糖の声が鼓膜を優しく撫でたような気がした。
(建前何て……私は安心して平穏に此処で暮らしたい。婚約者も要らない。それは、建前じゃない)
誰かを想う事が、怖い何てそんな事、無い……いや、それは心の奥底に必死に懸命に隠して隠して来た事だった。
前回の人生でイクシャが窮地に立たされた発端は誰かを想い誰かに恋し愛したから。だからその“好き”と言う感情が堪らなく怖いのだ。それを、クロヴィスがその事が見抜いていたなら、それを見て言われたら。
「……そんな事、無い筈」
「何がですか?」
ロゼがきょとんとして微笑み返してくる。何でもないと被りを振って心を落ち着かせた。温かい紅茶色の湯に足を着ける。ロゼの手が髪を洗いもこもこ泡立てていく気持ち良さによって心まで現れていくようで目を伏せた。イクシャは、取り敢えず考える事をやめた。