第16話 クロヴィス・デュルフェという少年
手に冷や汗が滲む。子供とは思えない程、耳触りが良い声だ。氷砂糖のように程良く冷たくて、何より甘さがあるように、色気を含んだこの声。
イクシャは脱ぎ捨てて胡坐を描いていた足を直して、慌ててヒールを履く。
無理矢理、淑やかな微笑みで取り繕っても時は既に遅いというもの。嘆息して、その少年をイクシャは睨んだ。
「何、じろじろ見て来て不愉快」
背の少し高い、端正な顔をした黒茶の髪の美少年だった。紫水晶のような瞳は此方を真っ直ぐに見つめてきている。本心は誰にも見せないと言う何もを寄せ付けないようなミステリアスな雰囲気があった。
「……んだ、近くで見たら普通じゃないか」
呟かれた声にイクシャは疲れから愛想の仮面も忘れ、不愉快と言う事を全面の怪訝な表情をして言う。
「……だ、誰よ」
「神さま天使さまイクシャさまって皆崇拝してるけど本当はパーティー嫌いで背伸びしてる。全然天使さまじゃないね」
数歩近付いて顔を寄せる。
「眉間に皺寄ってるし敵意剥き出しなのが判るけど皆の知る完全無欠の才媛イクシャよりは素直な表情で可愛い」
イクシャの眉間に人差し指を押し当てると少年は微かに口元を緩めた。
端正な顔が綻ぶと顔面の威力も高まる訳で目の前に居る太陽の化身のような眩さにイクシャは抗うが如く、立ち上がって怒鳴った。
「ちょッ、ちょっとッ! ま、まままっ全く無礼ね。何て人なの……! 私に近寄らないで、触れないでよ!」
「コロコロ表情が変わるんだ、へえ……なんか君って変だなあ」
出会って数秒しか経たなく名乗りもしない失礼極まりない人に天使じゃないとか眉間に皺が寄ってるだとか勝手に品定めのような事をされ変呼ばわりをされるイクシャは眉を顰める。沸々と燃え上がるような怒りが何処からか湧いてくる感覚があるが取り敢えず無視を決め込む。
「……怒ってるの?」
「ええ、勿論。最初から私が苛々して怒ってるのは解るのに空気は読めない方なのかしら、私からしても貴方はとても変な人」
嫌味を言ったつもりなのにそんなに不機嫌そうにはしない。何処まで言ったって言葉の意味が通じない感じがあってとやかく言って心中を説明する方が無駄だと諦めが掛かって来てイクシャは嘆息した。
(アーノルドと何だか同じにおいがするわ………)
どうして自分の周りには話の通じないような人ばかり集まって来るのだろうと頭が痛くなる思いが胸に生じる。
「僕が変な訳じゃない。君の事は何だか解るんだよ」
「嘘吐きね、私が一番に今望んでるのは貴方が何処の誰かって事を明かされる事よ」
下手に子息と話してたら婚約者にでもされるかもしれないし、言い掛かりを付けられた時に説明がつくようにしとかなくてはいけないのだ。
「────デュルフェ、クロヴィス・デュルフェだよ」
デュルフェ。前回の人生の何処かでその名を耳にした事がある。何をした人物かも接点も無かったし、あまり覚えていないが、結構有名な人だった筈。誰だったけって考えるけど時間も勿体無いし相槌は適当にしとく。
思考が憚れたのは、ほんの数秒後。
「あのさ……このパーティーの開催理由ってさ、君の婚約者を決めるのもあるんでしょ」
「……何処まで知ってるの」
空気はまたもや凍り付いた。それも己自身の声の冷たさによって。クロヴィスの顔色はそれでも変わっていない事からやはり空気は読めないのだろうと頭の隅で思いながら少し警戒をしながら口を開いた。
「そう、ね……婚約者を決めるパーティーよ」
此処で初めてリュシアンにもアーノルドにも言えなかった言えずに居た事が言えた気がした。
「ねえ、僕が婚約者になろうか?」
信じられないような言葉。一度、口を噤んで、だけど塞がらなくて口はまた開く。イクシャはその端正な少年の顔を凝視して、眉根を寄せて呆気に取られる。
─────「本気なの? 面倒事を押し付けられるかもしれないのに……そんな、将来を決める事なのに買い物に行くようなよくも軽々しいテンションで言えるわね。信じられない」
ふい、と顔をそっぽにやるイクシャに少しむ、とした真剣な顔でクロヴィスは近付いた。
「軽々しくも無いよ。だって君の事、真剣に今日まで考えてたし、君が考える婚約者候補が居ないのなら、僕がなりたいって言うつもりだったし……今、話してみて君の事、とても好きだよ」
頭痛が増す。本人はそう言うが本当に軽々しい。婚約。プロポーズ。好きだよ。あっけらかんとした表情のまま彼は頭を抱え始めるイクシャを見つめ微笑んだ。
考えもしなかった単語の数々に現実を突きつけられる。まさか、まさか本当に婚約者になりたいと言う人が目の前に名乗り出るなんて。
「はー……お遊びじゃないのよ? 会ったばかりで好きとかそう言うのを言える貴方の神経はぶっちゃけどうかしてるわ」
睨んで大きく溜息を吐くイクシャに、クロヴィスは拗ねたように口を尖らせて言った。
「僕じゃ駄目なの? 良い家庭、築けると思うけどな……じゃあ、君が安心してこれからの人生預けられるような会ったばかりだけどちゃんとした気持ちを示す為に礼を取ってもう一回申し込んでみる?」
瞳を閉じて嘆息ばかりを繰り返していたイクシャが「え?」と眼を向けるとクロヴィスは恭しく傅き、その紫水晶の瞳で狼狽するイクシャを見つめ、射抜いた。
「は……っ?」それだけで口の中で文句も、疑問も声に出す前に溶けてなくなった。
「イクシャ・リセ・ローベル嬢、僕と婚約して頂けませんか。貴女と生涯を共に歩き苦楽を分かち合い、支え合い温かな家庭を築きたいのです────好きです」
この状況をどうすればいいと言うのだろうか。身がよろける。景色は夕焼け。テラスで二人だけの婚約。
夕陽を背にして、少し上目遣いでイクシャを見やって耳を赤く染めるクロヴィスにイクシャの心臓はどくんどくんと大きく且つ速く鉛のように重く鼓動していく。
(………本当に、この人どういう考えをしてるの……? 夢、じゃないわ、よね……)
唖然とするイクシャに手の甲に口付けをするクロヴィスは、笑ったような気がした。端正な顔が何だか嬉しそうに赤らんで見えた。