第13話 ネニュファール・ローベル
─────今度、イクシャの見合いを兼ねた誕生日パーティーをするつもりだ。女当主として妻として、母として出席願いたい。同意の言葉は?
押し付けある言葉に怯む自分。それが堪らなく嫌で自分が情けなく感じる。
あの頃はもっと近しくて親しくて抱き締め合って笑い合って手を繋ぎ合って色んな話をしあって楽しくて穏やかだった筈。この家を楽園と思っていて何時までも此処に住んでいたいと思って居た筈。監獄だなんて思ってなかった。
「……ぁ」
とても永い夢を見ていた気がした。
初めは幸せで、その後から絶望と失望、孤独を味わう暗闇と相対して誰かに囲まれ愛され求められる、穏やかで暖かな、それでも残酷な誰かを題材にした映画のようにとても自分事とは考えられない壮絶なものだった。
あの人と出会うまで、あの人に恋し愛し愛されると思うまで。あの人の子供を身籠るまでの幸せな楽園が壊れる瞬間、何も言えない操り人形の母親になるまで、あの人の子供が二人になる時、仲には亀裂が入ってしまっていると遅くなったけれど気付くまで。
─────最初から君の事、なんか、愛して、いない。
思いやる心とかそれ以上にショックだった。胸にある喪失感と孤独感に、身を縮こまって布団に包まる。政略結婚で、でも物語のように山あり谷ありで婚約破棄の言葉も出たりネニュファールの家が没落しそうになったり、大変な事が沢山ある婚約期間だった。それをベルナールと共に乗り越え、何時しか反対さえも跳ね返して恋愛婚と言われても可笑しくはない程、好き同士な筈だったのに。
「すべ、ては、……わたしの……ッ」
─────“思い込み”だった。
言いたくなかった。認めたくなかった。彼と過ごしたこの時が無駄だと意味が無かったものだと知らされたくはなかった。
口を噤んで、その言葉を呑み込む。言葉も発せない。途方もない程に大きくやり場のない怒りと悲しみ、切なさ、孤独心、絶望、失望、複雑に入り混じった疼く感情に胸が侵食される。
はじまってしまう。暴走して、何もかもを壊して、何もかもを見たくなくなる。
壊している間、脳裏に浮かぶのは彼の事だけだった。ネニュファールはベルナールに疑心や絶望と失望、恐怖や様々な負の感情を抱いているが、昔のベルナールには今も尚、心酔していた。
初対面の時、皇女でも一国の姫ないのに「ネニュファール姫」と呼んでくれる所に本物の王子様が現れたと夢見て憧れたあの日。エスコートをされて紳士に微笑んでくれたあの人。手を取って二人でダンスをしたあの夜のパーティー。
全てが昨日の事のように蘇るのに。大好きだった弦楽器のような、ネニュファールの鼓膜を優しく撫でるように耳に届く低音の声。艶めかで深いミステリアスな雰囲気を放つ夜のような黒髪の星々を閉じ込めた瞳をしている貴公子を恋しく想い続けた感情。
「でも……持っていても全部、無駄! 無駄、無駄無駄無駄無駄……むだッッ!! 意味が無いの……ッ」
その言葉と同時に部屋にあるものを全て薙ぎ落とし壊す。壊していく。要らない。こんなもの、こんなもの、要らない。
医者があの子達に告げた事は実は聞いていた。悪化したと言われたのに笑いが起こりそうだった。あんなに気を付けていたのに大切にしていたのに何もかも壊れるときは一瞬で、その不安などあの人への未練や恋心や愛情、失望絶望の感情がこの身体を蝕んでいるなら。
何も己に残る物はない。あの子達はきっとこんな母親を軽蔑するだろう。こんな母親嫌いだから。
─────ファル、やめとけあんな男ッ。お前を涙を流さすに決まっている、戻ってこい!
─────ネニュファール・イフラッシュ……お前はこの家の名を口にする事も名乗る事もこの家を訪れる事もこの家の規定に反した事により、もう一生禁ずる。もしこの誓いにも違反した場合、お前の首に刃が向かう事を常々憶えておきなさい。
─────私達だってお前の結婚を喜ばしく思い祝いたい。だがお前の選んだ人物は……、いやもういい。金輪際に顔を合わせないように私達は願おう。お前も願っておきなさい、無駄な血の争いをしたくないだろう?
昨日のように想い出せるのが家族の事だった。
反対の声を上げていた実兄の顔や声に、己のように心の病で頭の可笑しくなった母が引き留める力。父に、イフラッシュ家全員に追い出され口にする事も名乗る事も禁じられ帰る所も失った哀れな女。
「お兄さま………ッ」
(本当に、お兄さまの言う通りに涙を流したわ。最初から貴方達の決めた相手と仲睦まじく平穏に暮らす事を選ぶべきだった。過ちを犯した私を、どうか……嗤って頂戴)
優しかった実兄は、今どうしているだろうか。母は、今どういう風に生きているだろうか。父は、叔父さまは、叔母さまは。
イフラッシュ家は常々特別な名家でありその存在をわざと薄めて政治的争いを起こさないようにとする今は一部の人しか知らない旧家である。よって、政治的パワーバランスを考えられて婚約者を選ばれる。
もしそれを拒み出て行った者は何があっても家に戻る事など、家の内部に関する事を口にしてはいけないと禁じられる。その秘密を口にした場合、誓った時に預けている人房の髪が燃え、魔法が発動し、首に刃が向かい殺されると言うのが特級違反者の末路。
(口に出すって言うのが特級違反者になる条件だけれど、考えるって言うのも口に出すって言う行為の引き金となるから本当は駄目よね)
こんなにもあの家の事を考えて恋しく思ったことはあるか。追い出されたあの日、真っ先に嬉し笑顔を浮かべて馬車にも乗らず、ガス灯の下で待つ彼の胸に飛び込んだのは誰だろうか。
─────『ねえ、これでやっと自由になれるね二人で暮らせるね? ただいま、ルナ!』
『ああ、そうだな。やっとだ……お帰り、ファルっ』
抱き締められて抱き締めて。涙ぐんで笑って言い合っていたのは誰だろうか。雪道を頬を染めて手を繋いで歩いたのは誰だったか。愛称で呼び合っていたのに何時しか愛称で呼ぶ事も止めてよそよそしくなったのは何時か。
─────「おかぁ、さま……ッ」
その果てにイクシャと言う彼の黒髪とイフラッシュ家の血が入っている事を示す翠眼を受け継いだ愛らしく可愛らしい我が娘が生まれた。何も知らなかった何も気付きもしなかった彼女はもう立派な姉で大人びた視線を持っている事を最近知った母親らしからぬ女を呼ぶ声。
「クー……?」
「おかあ、おかあ、おかあさま……ッ!!」
淑女淑女、と言い聞かされてきた病弱な深窓の令嬢。婚約者とか社交界とか要らない事を考えさせられるだけの操り人形にされてしまう一歩手前の子。
(私の、大切な子……ッ)
親の態度や親の教育方法に振り回されて、他の子よりも大人びて成長してしまった、子供を満足にしていない少女が己の元にスカートの裾を捲し上げて走って来る。
小さな、身体が胸に飛び込んでくる。すっぽりと収まるその身体の腰に頭に手をやって。
仕草一つ一つがベルナールと重なる部分もあれば自分と同じ考えをしている事も窺えるその性格も、実兄を思い出させられる笑顔の仕方も表情の変わる所も。
「……おかあ、さま……ごめん、なさ、私が、いけなかった、の……ッ」
「どう……して?」
「おかあさまを、気遣えなかったから。おとうさまから、守れなかったから、ごめんなさ、い! この前は、責めちゃって、責めちゃって……ッ」
大きな翠眼から涙を流すその姿に胸を絞られる思いがする。頭から伝わる熱さに脳が考えて考える為に小さな脳が動いて居るのだと、そんな事しなくて良いのにと申し訳なく感じて母親失格だと自責の念に駆られて。
「そんな事、必要ないわ……クーは何も悪くないの、皆、本当は、悪くないの……ッ」
何処かで拗れたものが回り回って目の前に訪れているだけだと諭すも涙は枯れない。
本当に皆、悪くないのだろうか。少なくとも一人は悪いだろうと囁く声がした気がした。無視する。無視なければならない、そうしなければ、きっと己は己ではいられなくなると思うから。
「お父さま、の事、きらいに、なった?」
目を光らせて子供らしからぬ決死の表情に驚いて。答える言葉が見つからなかったのを隠すかのように、誤魔化すように微笑んでみる。
心の中では、言葉があるのに口には出ないのは何故か、それは、だって説明がつかないくらいに難しく複雑な事だから。言い訳がましくなってしまうのは、気持ちの整理がついていないから。頭がこんがらがって可笑しくなっているから───あの日の母のように。
─────勿論、彼の事は狂おしい程に世界一番に人生で一番に、好きだった。家を棄ててあらゆる事を禁じられ帰る場所も失って何もかもを薙ぎ払って出て来たくらいに。
今の彼は、受け入れがたいけれど。何か理由がある事は気付いている。それくらいに長く長く寄り添ってきたから。
「……いいえ」
この言葉が自らの本心か、娘を想い気遣った心からなのか。そんな判断する事なんて出来なかった。 自分の吐いた言葉が嘘だなんて、認めたくはなかった。