第12話 冬めいて、それぞれの考えは巡る
朝が来た事を知らせに来る鳥の鳴き声で起き上がるイクシャは片腕が目に入る。我知らず触れて擦っていた。
朝が来ても尚、あの引き留める、と言うされた事も無い行為に壊れものを扱うかのような掬う力が鮮明に蘇り涙が零れそうになる。
(よかった……確かに、絶対に、人生が、変わってる)
以前の結末にはならないと言う可能性に安心する。今までどうやったってこうやったって変わらなかったし変われなかったベルナール。ネニュファールは心の病が悪化し苦しんでいる。全てが悪い方向に往っていると思ったが、違っていると判った事だけで心は軽くなった。
少しずつイクシャの行いによって快方に向かってる。
─────「イクシャさま、おはようございます」
金紗の髪に紫色の瞳をした侍女が入って来る。朝から御機嫌取りのような虫唾が走る愛想笑いではなく、うんと母であるネニュファールのように穏やかな心撫でてくれる甘い笑顔を浮かべてくれるのはこの侍女だけであった。
「ロゼっ」
「あらあら今日はご機嫌が宜しいようですね。顔が綻んでいますよ」
頭から頬へと触れて温かい手で撫でてくれるロゼ。その手と昨日の手は違うのだと感じる。愛情だけをくれる手と、不安に思い心配し訝しんで同情と言う慈悲をくれる手。
前回の人生にもどんな事をしても怒らず、包み込んでくれた。それも束の間、何も罪の無いロゼも御者と一緒にイクシャよりも先に処刑され結婚もせず若くしてその生涯を終える事になってしまう。
その事を、申し訳なく思っていたイクシャはロゼがこの家の侍女になる理由となった憧れのネニュファール付きに戻っても良いのだと提案したが頑なに「傍を離れません、イクシャさまが私を必要としないで生活するなんて見られません寂しいです」と拒んだ。
母のような優しさと愛情と穏やかさを持ち合わせながらも少女のような純粋さ可憐さを持ち合わせるその性格がイクシャは、大好きである。
だからこそ無理を押し通す事なく自分の気持ちを優先させた。離れて欲しくないと。
「……ねえ、ロゼ。私、何を懸けてもロゼの事は、絶対に守るからね、必ず幸せにするからね」
口を微かに開けてどうしたのと言う声が聞こえて来そうな表情で、その後、すぐに恥ずかしそうに照れ臭そうに困り顔で笑って。
「ありがとうございます……でも、イクシャさまが幸せなら私は幸せなのですよ?」
ゆるりと何時もの微笑を浮かべて風のようにまた頭を撫でてくれる。さあ身支度をしましょう、と手を引いてくれるその手にその力が愛おしくて失いたくないと常々に想う。
洗顔に肌のケアを施されてから可愛らしい真っ白なフリルやレースがあって所々に刺繍の施されたふわふわと袖が広がった洋服に着替える。
「では今日は二つ結びにしましょうか。お花とリボンの髪飾りを付けたら、きっと可愛らしくお似合いになるでしょう」
「じゃあ、そうしてくれる?」
はい、と返事の後に続く鼻歌。それ交じりに乾燥した髪をケアし丁寧に梳かしてから本格的に二つ結びにしていく。その手取りを見つめ瞼を伏せてしまう。
この前まではネニュファールがしていた事をベルナールが負担になるとロゼに役目を回して今はロゼが。イクシャにとってロゼも母のように慕って大好きだが、ネニュファールと朝から逢えて話が出来るあの時間が恋しくなるのが毎日だった。
─────「ロゼ。お母さまは……」
子守歌のような心優しい鼻歌が止まる。瞼を開けば泣き出しそうな、複雑な表情を浮かべるロゼが鏡越しに見つめて来ている。彼女の顔に、悲しみ、切なさ、困惑、辛さなどの表情がいっぺんに水煙のように拡がって、一度に愛らしく美しい少女のような外貌が十歳も老けこんでしまったように見えて驚きを隠せなかったのは事実。
「今朝、奥さまの寝室を覗いて見たのですが……、今は薬でお眠りになっているようで、部屋の前に居た医者に訊くと快方には向かっていないと……すみません、ご期待に沿えない事を申しあげて」
「……いいえ、いいの。それが、“真実”なのだから、言い訳も何もしなくていいの」
その瞬間に瞼の裏には“真実”を“嘘”と決め付けて相談も無しに既に決まった事を無理矢理に押し付けてきた憎く恨めしい筈の人間の顔が思い浮かぶ。
今、あの人は何を想っているのか。今、あの人は何をしているのか。今、あの人はどんな顔でどんな風に生きているのか。
どうして、あんなにも冷酷無情に、無神経無関心に生きれるのだろうか。
「……お父さまは、」
「仕事をしに夜明け前には出て行きました」
「寝なかったの?」
「そのようです、『寝て居られない』と執事長に仰ったらしいです」
そう、と素っ気なく返したイクシャの顔を戸惑いがちに窺うロゼの視線が痛く感じる。
(寝て、居られない……昨日の自分が言い放った言葉が気にかかるの? 病弱で弟に母想いでも癇癪持ちで悪態もする面倒臭い実の娘が自分にも牙を剥いてくるのに余程心驚いたのか)
─────でも、どうでもいい事ね。
出来れば関わらなくて良いのなら関わらない、けれど温かな家にするのには必ずベルナールが必要になる。リュシアンが悲しむ顔は絶対に見たくない。
(何かしら、行動を起こさなければならないわね……)
「はい、出来ました」
考え込んでいるうちに結い終わったと耳の前で手がぱあと開かれる。そして黒髪が二つに分けられていて可愛らしく垂れて毛先だけカールされていて、自分自身で言うのもあれだけど可愛い。
「わ……可愛い……っ! ありがとう、ロゼ!」
「どういたしまして、……こちらこそ喜んでくれて嬉しいです!」
ぎゅっと抱き締め合えば笑い合う。ドレッサーの前の自分は可愛らしい服を身に纏い髪型をし、子供の愛らしさが滲み出す微笑を浮かべて。
(これでシアンに逢っても違和感ないわね。恐いとも思われない!)
確認してから二人して扉を開けて食卓に向かおうとすれば、待って居たのは本物の天使だった。「姉さま!」と胸に飛び込んでくる柔らかな身体を抱き留める。
「おはよう、シアン。今日は私よりも早いのね」
「おはようございます姉さま! きのうは大変おさわがせ、をして侍女や執事にも謝って回ろうと早起きしました。それと、姉さまの“ご友人”にもご迷惑を掛けたので、あいたいのですが……」
─────お前の弟のせいなんだからな!
─────最悪の日だよ!
暇じゃねえしと言っていた“ご友人”の顔はそんなに迷惑そうに思っているように感じなかった。それに暇な事は確かだと思う。わざわざ愛しのマイ天使であるリュシアンが謝る程の事ではない。幼いのだし、なかなか衝撃のある内容だったのだから他人に甘えても良いのだと思う。
「シアンがわざわざ会って謝るなんて大丈夫じゃないかしら? あいつ、結構暇だし一日経てば忘れてる筈よ」
「……あいつ?」
つい淑女らしい言葉が抜ける。アーノルドだけは幼い頃からずっとの付き合い。ほぼタメ口で話してきたようなものだし、何時も揶揄われて馬鹿にされて嫌味を言われて喧嘩となる奴の事になるとイクシャの丁寧さは抜ける。苛立ちも厭きれも含んで。慣れ親しんだ口調と安らいだ、自然に笑いを溢しながらに言う。
「あ、いや、今のは……ね、姉さまが言ったのではなく。ぇと……ッ、そ、そう、きっと空耳よ!」
慌てて誤魔化す。リュシアンが知り愛し笑いかけるのは淑女で自分を想い可愛がる才媛で賢女の姉である。そのイメージが壊れたら嫌われてしまうかもしれないと良からぬ不安が過ぎり聞くに堪えない誤魔化しようで。
─────「…………ずいぶん、仲が良いのですね?」
「へ」と間抜けな声が漏れる。
何もかもを凍り尽くす冷え切った声にぞくぞくと背筋を刺される感覚が走った。
ベルナールの冷酷さや威圧感を思い出させる顔でネニュファールの鋭い面を思わせる漂わせる雰囲気。
その顔も一瞬だけだった。すぐにまた天使のように微笑んで。
(ん? 今の、は……気の、せい……よ、ね?)
そう願う、そう祈る。あんなにも手塩に掛けて守って来たのにも。あの無邪気さや純粋さ、あどけなさ、可愛らしさ愛らしさがベルナールのように無くなってしまうなんて考えられなかった。手を掻っ攫って食卓へと引く力は優しい。
気のせいだったと安堵してイクシャも何時ものように笑う。
「……」
ロゼはその姉弟の背中を後ろから睨んでしまう。特に灰色系統の髪をふわふわと靡かせて姉の手を優しく引いて食卓へと歩き出す小さな少年。
彼は、前と違って、まだ幼い筈。まだ姉に懐き無邪気に笑い甘えたがりで寂しがり屋な天使のままの筈。
確かに、眼が光った。研ぎ澄まされた剣のように鋭くイクシャの事を貫いた。まるで背中から首へと不意打ちにも刃を当てる暗殺者のように裏切者のように。イクシャの幸せなる人生を阻む害となり得るかもしれない。イクシャが今、精一杯に尽くし愛し可愛がる実の弟は。
命も捨てる覚悟──────イクシャさまの幸せの為に。次こそ、笑ってもらう為に。