第11話 乙女の涙は枯れないものよ
──「あッ、アーノルド……ッ」
星彩を後ろにしたアーノルドは気怠く、だけど待って居たような佇まいで。
「い、一体……どうやって、ベル先生と、帰った筈じゃ……ってまた家から来たの?」
「何で俺が時間を掛けてまた此処に来なくちゃいけねえんだよ。俺だって暇じゃねえし……つかこんな時間に家に帰る事になったのお前の弟のせいなんだからな!」
どんな風に俺の事認識してんだよと言わんばかりに露骨な表情に吹き出しそうになった。
(悪いけど……すっごく暇に見えたけどね!)
「お前の弟がぎゃんぎゃん泣き喚いて帰ろうとする俺を引き留めて寝るまで服を離さないしこの家の侍女は羽交い絞めにしてくるし酷い目遭って今帰るところだっつーの! 俺だって好きで夜中歩く訳じゃねえし」
すぐにその光景が浮かび上がる。甘えたがりで寂しがり屋のリュシアンにとっては近くにいた姉と同い年で顔馴染の人間はアーノルドくらいしかいないから凄く安心して離れて欲しくないと喚いたろう。白目になって慌てて何とか逃れようとするも羽交い絞めにされて諦めたように肩を落としてベッドに腰掛ける姿は滑稽で。
その表情を見れば笑いを堪えるのにも精一杯になってしまう。
「全く最悪の日だよ!」
どうしてくれんだと近付いてくるアーノルドの顔。その星々に照らされる銀髪が予想以上に奇麗で、金色の瞳は満月のようで、面白いと率直に思った気持ちはすぐに打ち砕かれてしまう。
奇麗、しか言葉は出てこなくて。イクシャは気持ちの整理が出来ない事から急に笑顔を引っ込めて。それを境に何も話せない空気が続いてしまう。
黙り込んで静かに呑む声が微かに聞こえた。
「……んで、なんで泣いてんだよ」
アーノルドの満月のような黄色の瞳が怒ったように睨んでくる。
「……別に、泣いてないよ。塵が、目に入っちゃっただけだよ」
手で我武者羅に眼を擦って顔を隠すイクシャを見つめ、アーノルドは溜息を吐いた。
「嘘。そんなさ、見え透いた嘘、この俺に吐くなよ」
目が真剣だった。己の隠し込んでいる心の奥底を覗き込むような、心配するような色んなニュアンスを含んだ表情。逃れられないかも、全てを話してしまいそうと心配になり、もしそれが出来ればどんなに楽になるんだろうとこの重荷をアーノルドに肩代わりして欲しくなる弱い気持ちがイクシャの心に疼く。
──「お前は、何時も隠し事ばっかだな。そんなに俺の事が信じられないのか」
そんな訳ではない。でも否定も出来ない。だけど此処は否定しないとこの飾りもしない楽な夢のような関係は終わってしまいそうで弱く頭を振ってみる。
「じゃあッ!」
「……知ったら、後悔するよ。解ってしまったら、気付いてしまったら、アーノルドが苦しむと思うから。重荷を、私が話さなければ関わりも、背負いもしなかった重荷を肩代わりして貰うなんて、出来ないよ」
怪訝な顔から傷付いたような顔を浮かべる唯一と呼べる友人。ずるい、と思う。イクシャは後悔の念に駆られてより一層、話したくなってしまうからこの重荷を背負わしたくなってしまうから。
「それじゃあ、私、もう寝なきゃ……もー何時までもシアンに付き合ってあげてお人好しだなあ。夜も遅いし、早く帰って寝なくちゃだめだよ?」
無理に笑顔を作って、心配させないように疑われないように“普通”を意識して振る舞うからか、何を言えばいいのかわからなくて、リュシアンに接するお姉さんの自分を持ってきてしまう。
逃げるように、気付けば行動していた自分。また握り締めていた拳。開けば痛々しい程に掌の肉に刻まれた半円の跡。それを、もう一回強く握り締める。後悔を噛み砕くように知らない振りをする為に。
──「なあ……行くなよ」
すれ違いざまに腕をするりと取られる。振り返りたくないのに、振り返らせられる。アーノルドの表情は見えず、その歳を重ねる為に逞しくなってきた背中が見える。
「お前の苦しみや辛さや闇ぐらい、背負える。お前が潰れるくらいなら俺が、背負う。背負ってやる、勝手にでも」
教えろよ、と初めて振り返ったアーノルドの口が動く。真っ直ぐで真摯な視線に耐え切れず俯く。何時からアーノルドはこんなにも大人になった? 何時からアーノルドは自分の隠していた事に気付くようになった?
いずれも解らないけれど、飛び込んでしまいそうになって。
(何時もなら、もっと簡単なのに)
何時もなら、もっと簡単に諦められた。
何時もなら、もっと早く答えを出せた。
何時もなら──もっと、はっきりと強く言えた筈なのに、どうして。
どうして?
「要らないって……、やめて、って言ったでしょ。私は変わらない、変われないの。決めた事は覆せないの」
乾いた笑みが漏れる。心臓はばくばく鳴って耳障りだった。
「──イクシャ」
これ以上、此処に居ると甘えてしまいそうになってしまう。唇を噛み締めて、イクシャは飛び切りの笑顔で振り返り。
「ッそ、それじゃあ! また、明日」
と言う。そそくさと逃げるようにその場を離れて脱力する。
その痺れるような体温が遺る腕を擦った。震え上がった声は何時になく情けないものだった。
逃げてしまった。恐かった。知られるのが。
やはり、自分は弱虫だとも言われた通り泣き虫だとも思う。
月は白々しく輝いていた。その景色は涙により歪み滲んでいて、よく見えない分からないものだった。