新たなる家
海峡を通過する船も商船ばかりではなかった。時には軍艦のこともある。
一八六一年五月六日にはイギリス軍艦が五隻下関に着岸したこともあった。その内のオランダの一艘は乗組員が全員上陸して何をするでなく徘徊する。ただの偵察のようであり、怪しい動きをするようにも見えない。また残る四艘のうち一艘は埴生浦から梶浦を通過して本山の刈屋浦に繋船、そこでは竜王山に登り図面を取り出し現場と照らし合わせている模様、一見取り立てて騒ぐほどのことはなさそうだが、敵に地形を知られるのはいざという時不利だ。噂では豊後あたりでは三・四十日にわたって何をするでなく滞留したということである。
そこでその辺りを管轄する元美に彼等の動向を見張るよう命令が下された。それらの遣り取りはすべて飛脚の運搬に委ねられる。書簡といえども身分上下の礼儀に多少なりとも失敬は許されない。決して無礼無きよう心掛け候文の文書をしたためれば、重要な文書交換にもかかわらず遠まわしでまわりくどい候文は時に誤解を招くこともあれば緊急にもかかわらず間延びして届く。重要な任務に就いたものの元美はそんな書簡のやり取りの時間の掛かり過ぎが引っ掛かっていた。元美が決断した後で逆の返答も届きかねない。そんな中で決断を任されたのだ。自主的に動いて理不尽な咎を受けることになっては元も子もない。だからといって彼等にうろうろ徘徊されるのも不用心で、第一無断でよその敷地に立ち入ること自体が違法である。しかしその辺の詳細な取り決めも明確ではない。場当たり的でいい加減である。こんな状況で先制攻撃をしかけても勝算は見込めない。こんな時はどうすればいいのか、常々元美はそれを考えていた。あちらの軍艦は自在に操れる蒸気動力、こちらは手漕ぎの風任せ、武器弾薬装備すべてにおいて劣っているのだから攻撃を仕掛けても叩きつぶされるだけだ。ただ野放しにも出来なくて見張っているのだが、手出しできない忸怩たる思いは否めない。そのうち彼等は苅屋浦辺り近海に船を着け乗員は上陸して徘徊を始めた。目的は依然定まらない。元美は今のところ看過しているが、必ずどうにかしなければならない時がやってくることは見当がついていた。その時はどうするか思案のしどころであった。
ついにその時はやって来た。
一八六三年五月十日元美は赤間が関(下関)海岸警備総奉行の任についていた。赤間が関は日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝、ペリー来航以来取り放題の宝島を目指すが如くそこを往来する外国船はめっきり増えていた。
朝廷に付いて攘夷を標榜する長州はそこを堂々通航して日本の金を持ち出す外国船が忌々しい。アメリカに続いて四ヶ国と取り交わした金銀交換比率は日本が発案し採用された失策で、それに気付いたのもずっと後になってからだった。必然物価は高騰し庶民の生活は困窮を極める。それらを苦々しく思う国民はどうにかして外国商船に一泡吹かせたい所存だ。元美だって思いは同じだが幕府が取り交わした国際法には従わねばならない。世襲で領主となった元美は上からの命令には絶対逆らえない。少しでも逆らえば父・大蔵の二の舞になりかねない。
その日海上は朝から大しけで荒れ狂う白波が岸壁を駆け上る勢いで打ち寄せていた。凪いでいれば小舟が群れを成して漁をしているというのに舟は一艘たりとも出てはいない。
その時城山の見張り台にいた兵士が商船発見、長府藩の警備に抜かりはない。商船が田ノ浦沖に投錨するのを見届けた。商船の発見は空砲をうち亀山、彦島、全小隊に知らされた。その間すべての隊員が配備についた。元美はすぐに小舟で使者を派遣。だがすぐといってもたかだか対岸だが辿り着くのは容易ではない。腕に自信ある漕ぎ手が舟を操るものの打ち寄せる大波を乗り越えて商船まで行くのは命がけである。この海峡の潮流は大潮で最大一〇ノット以上になることもあり、一ノットは一時間に一・八五二㎞進む速さで、現在ではここを通過する船は通過時四ノット以上の速力を維持しての通航を義務付けられている程の難所である。潮目の悪いこんな日は熟練者にとっても難渋する。波に何度もさらわれそうになりながら、どうにかやっと乗り切って二百トンのアメリカ商船まで漕ぎ着けた。使者と船頭の二人はペムブローグ号に引き上げられるようにして乗り移った。そして船長・クーパーを尋問。
すると商船には水先案内の長崎安蔵が乗船していて、五月六日に横浜を出発したが潮流悪く一たんここに避難するが、嵐が治まれば瀬戸内海を経て長崎に行き上海に向かうことを説明し幕府の許可する書状を差し出した。老中伊賀守より豊後守に宛てた上海への通行手形であった。幕府の許可を得ているなら文句は言えない。
元美はこの年の正月、後継者の宣次郎と共に江戸屋敷を訪ね開国推進の幕府の要人と挨拶を取り交わしたばかり、幕府への忠誠を再確認させられていた。まだその余韻醒めぬうちのこの事件である。江戸からの帰り立ち寄った朝廷からは、天盃を頂戴し刀・羽織を拝領、その上辞退はしたものの参議に推挙され長州への朝廷からの信任も厚い。長州は言わずと知れた長州サイド。しかし表だって幕府に楯突くことも出来ない。政権は実質幕府が握っているのだから。しかも元美は一八五三年浦賀沖に現われたペリー率いる米艦四隻の来航を直接見た者から話を聞いてその脅威を又聞きではあるが知っていた。全長八十メートルに及ぶ黒船四隻は聞いただけで唖然とするばかりだ。当時四十メートルと嘯いてはいるが和船はせいぜい全長二十五メートルそこそこの帆船で、沿岸を往来するのみの風任せが主流、長櫂で手漕ぎの人海戦術、蒸気動力とスクリューで自由自在に操れる軍艦など見たこともなかった。それを間近に見た者は圧巻、もうそれだけで敗北感に陥ったと聞いた。米艦来航を先に立ち寄った薩摩から連絡を受けて知っていた幕府でさえ狼狽する始末だから、初めて見た者が度肝を抜かれこれはこの世のものかと目を疑ったというのも無理はない。それをそっくりそのまま聞いていた。
その驚きのままに民衆が騒ぎ立てては収拾がつかなくなるので、弱腰の幕府は却ってその方を恐れた。突き付けられたアメリカからの国書の返答は来春に延ばしてどうにかその場を治めてペリーは一たん引き揚げたが、残していった書状には通商を受諾しなければ攻撃する、その時の降伏用に白旗二流を箱に入れて添えるという手の込んだ屈辱的メッセージであった。幕府は泡を喰ったものの、ちょうど運悪く将軍が急死してそれどころではなくなった。将軍の後継者選びなど国内問題で手一杯の幕府は何一つ対策を取らないうちに翌春となり、約束通りやって来たペリーとは言われるがままにクジラ漁の船の燃料、水、食料補給のための入港を約束させられる。続いて一八六〇年七月十日オランダ、十一日にロシア、十八日はイギリス、月変わって九月三日にはフランスと通商条約の締結を押し切られる。それからはオランダ商船が来たかと思うとまた別のオランダ船、引き続きイギリス船が現れて我が物顔で日本の海を往来し、燃料を調達するばかりか制止も聞かず上陸する。そんな傍若無人な振る舞いを苦々しく思っていた長州の急進派の連中は、攘夷決行に奮い立った。ここで攻撃して列強に思い知らせてやりたい。
標的は無防備だ。
しかし元美の頭をあらゆる考えが錯綜した。
あの黒船の脅威が真っ先脳裏をよぎった。
目の前に佇む無防備の商船、叩き潰せば腹は癒える。急進派と思いは一緒だ。だが同時にバックに控える計り知れない存在を考えずにはいられなかった。十ヶ月半前幕府に出していた外国船に対する対策の答がようやく長崎奉行に届けられていた。それには余儀なければ通航を許可せよとあったが、この件によらず日にちが掛かり過ぎる朝改暮変の幕府の生温い対応では、いざという時頼りにならない。しかも報復攻撃となるとここに居並ぶ連中だけでは太刀打ちできる相手ではない。取り敢えずここは幕府に従うという名目で商船を看過することにした。使者に今度は元美が停泊許可の書状を届けさせる。そして血気盛んな急進派の光明党にも使者をやり早まらないよう念を押した。
しかし攘夷決行を強く望む輩は命知らずの暴漢揃い、ペリー来航で海軍の必要性に目覚めた幕府が長崎に西洋学所を開設して海軍伝習を行ったが、そこで学んだ一人松島剛蔵も萩の恵美須ヶ鼻で一八六〇年に建造した洋式帆船庚申丸で駆けつけ、師範役まで務めた実績が実戦に持ち込みたい意気込みを抑え切れず、総奉行の言うことを聞く必要はないと声高らかに言明すると、意を同じくする光明党は光明党で血気盛りの若者揃い、京都から命を受けていると元美の命令を無視、逡巡するな、機を逃すな、勝って条約破棄にせよと叫べば士気は上がり、久坂玄瑞を筆頭に山県小輔、時山直八等は庚申丸に乗り移り夜襲をかけたのであった。
この時福原清介等の乗る癸亥丸も応援に駆け付け、商船ペムブローグ号に二・三百メートルまで近付き砲弾を放った。一発は外れたが三発は命中し、不意を突かれたペムブローグ号は慌てて錨を上げ逃走した。まさしく五月十一日未明、元美は寝耳に水であった。
長府清末の毛利元周は躊躇の末参戦、躊躇した分戦闘開始を知らせる号砲は遅れ、元美はそれで兵士を集め亀山砲台に駆け付けたが、既にペムブローグ号は砲弾の届かない距離まで離れており性能の未熟を思い知って諦めたのだった。結局ペムブローグ号は周防灘に逃げ延びた。そこで取り逃がした連中の悔しさの矛先は元美に向かい、
「厚狭の殿様、臆病ザムライ」と揶揄されることになった。
元美は”御慎み”という咎を受け謹慎する。公務は腹違いの弟、宣次郎が継いだ。
あの無頼者の高杉晋作でさえ久坂玄瑞に慎重論を説くほど無謀な攻撃だったにもかかわらず、この攻撃に加勢した長府藩の毛利元周は、頑なに攘夷を主張する朝廷から褒勅の沙汰があり、一方元美は勅諚に背いたということだろう、御慎みという咎を受けることとなった。しかし藩に所属する身としては藩命に従わねばならない。それ以上罪状が重くならないよう、親類衆は合議して穏便な措置が取られるよう腐心する。むやみに主張して藪蛇になるより多少の罪なら長いものに巻かれた方が罪は最少に抑えられる。親戚筋はそれを勧めた。真の解決にはならないが元美は謹慎を申し出た。身内としても罪は軽いに越したことはない。
勅子はすぐに兄・越後に助けを求めた。越後は、徳山藩広鎮の十男・元徳が藩主敬親の長府毛利家からの養女・銀姫の婿養子になったことで次期藩主の座を確実にし、その恩恵を受けて藩の当職家老について頭角を現わしていた。登城の帰りがけほろ酔い機嫌で四本松に寄ることもしばしばあった。そのよしみもあって徳山の頃から信頼し重宝して使っている芳蔵を使いにしてお咎めが穏便に済むよう口添えを頼む書簡を送った。勅子はこれを機に芳蔵に特別に田中という姓を与えた。芳蔵はなお一層忠義に励んだ。書簡のやり取りは秘密裏に行われた。幕府の命に従った今回の元美の判断は、見方を変えれば攘夷を標榜する朝廷に逆らう行為となってしまっただけに、元美を過度にかばい立てすれば巻き添えを喰いかねない。それだけに書簡といえども慎重に取り交わされた。朝廷への手前軽微に済ませることも出来ない、藩としても難しい判断を迫られているのだ。一門六家それにニ家を加えた八家で元美の処遇は合議された。
それにつけても藩はそれどころではなかった。ペンブローグ号は無傷だったとはいえ急進派による今回の攻撃は条約を無視し国際法に違反する。それに対する列強からの報復攻撃は間違いなくあるだろう。既に通航場所となる赤間が関の海峡には宣次郎が元美に代わって出動していたが、萩の菊ヶ浜でも戦闘に備えて老いも若きも男も女も子供に至るまで総出で土塁を築く作業に駆り出された。
だが一般庶民は赤間が関の砲弾攻撃を見たわけではなく、又聞きだけでは戦闘の逼迫感は伝わらない。列強が攻めて来るというのにまるでお祭り騒ぎで、中には何を勘違いしたかこの時とばかりめかし込んで来るものもあり、着て来る服装にまで細かく指図しなければならない始末である。例え持ち合わせているからと言って絹物は法度、華美なものは法度、酒を呑み夜遅くまで騒いではならないなど注意しなければならないほどだ。平和ボケした住民に危機感はなく、その上戦闘能力は皆無。それを解っていながら無謀な戦いをしかけたものである。こうなると元美とて何が何だか解らなくなった。皆ペリー来航の脅威は知っているはずなのに時間が経って恐怖は薄れていた。
元美は代わって総奉行の任に就いた宣次郎では心許無く、自身の身柄も審議中にありながら落ち着いてはいられない。現場を取り仕切れないだけになおさらだ。元美の指揮ではないものの前触れもなく攻撃しておいて異船よけのお祓いもないものだが、急遽宣次郎に後を継がせただけに気掛かりこの上ない。
外出禁止の謹慎の身では祈祷以外すべはなく城外の毛利家ゆかりの満願寺に人をやり、ただひたすら難から逃れるべく祈った。
しかし祈祷虚しく六月一日アメリカの蒸気船ワイオミングは現れた。
報せを受け急ぎ駆け付けた宣次郎の壬戌丸への乗船を待たずしてワイオミングからの攻撃は開始され、庚辛丸は被弾して沈没、壬戌丸は釜を大破され、宣次郎は命からがら火の山に逃げ延びた。
その後五日にはフランス海軍のセミラミスがやってきて前田の砲台を吹き飛ばし、上陸した兵士は茶屋に火を点けそこに点在する農家を数件燃やした。壬戌丸はボイラーの大破により四十人の乗組員が死亡したのを始め多数の負傷者が出た。圧倒的な外国の軍事力の前に長州勢は成す術もなかった。
(幕末の海軍)
頼みは神仏のみ、その神仏からも見離されたような戦況だが、元美はそれでも翌日は城内の椿八幡宮への祈祷に出向いた。だが七月二十九日八幡宮は遷座中、改めて晦日の復座を待って参詣することとした。
元美の身も慌ただしい。土着令が発布され領邑・厚狭への引っ越しも喫緊の課題であった。どうせ謹慎の身では目障りにならないよう人目を忍んでいる方が得策なのだ。ひたすら目立たないよう心掛け神仏にこれ以上障りなきよう祈願するしかなかった。災難は祈祷でしか払い除ける方法を知らないこの頃、引っ越しの安全も神仏に丁重に御祓いをしてもらうのが習わしであった。故にこれまでの持ちつ持たれつの関係を維持してきた東光寺、海潮寺、妙玖寺へ別れの挨拶かたがた方角避けの祈祷も頼んで回った。結局列強国との戦争では長州が白旗を上げ講和に持ち込んだ。どんな名将を持ってしても勝てる見込みのない無謀な戦争だった。期待した神仏の御加護も役には立たなかった。
厚狭への引っ越し荷物は追々潮目のいい日を見て舟で厚狭に運び込まれていた。家臣・小林作兵衛に預けてあった掛物や刀剣の覚書一覧を堀和田右衛門が保管しており、この際その照合を行うかたがた不要なものは萩の田村源六に売り払った。価値ある拝領物等は一たん厚狭へ送り込まれた。厚狭の居館はただでさえ狭いのに荷物で溢れた。萩の四本松での奉公人も暇を出された。何人かいた妾もそれぞれの処遇先へと出立していった。徳山から勅子に付き従った局の沢野も暇を出された。だが厚狭の妾の寿賀だけは手付かずであった。勅子にはそれが意外であった。当然寿賀にも暇を出されるとばかり思っていた。厚狭の居館は狭い。宣次郎ですら当面長屋住まいだ。それには勅子の使用人もいて寿賀の部屋まで宛がわれない。妾と起居を共になども考えられない。それを素知らぬ顔で受け流せるほど勅子の神経は図太くない。むしろ文学で培った感性は鋭い。だが元美公は勅子の感情など無視している。全く無頓着で二人ともどうにかやるだろうくらいしか考えていない。
公は比較的封建的社会の男性としては女性蔑視の観念がない。男勝りの勅子の能力も率直に認める。しかし公が学んだ帝王学に正室や妾を思いやる項目があるはずはなく、そんな勅子の心の中まで斟酌しろといっても土台無理である。だからといって勅子がそれを年上の公に説くのも高い障壁を感じた。
一五九〇年豊臣秀吉の定めた人沙汰法度という禁止令により、他家に奉公しても要求があれば元の奉公先に返さねばならない人返し法が江戸時代になっても活きていて、徳山の実家に手を回してその権利を主張すれば、寿賀を徳山に引き取らせることが出来るのだが、勅子はそんな姑息な手は使いたくなかった。しかもむりやり引き裂けば思慕の情は募るばかりと昔からそのように相場は決まっている。公が心からそう思うのならともかく、公の意向を捻じ曲げてまで我が意を通すのも勅子のプライドが許さなかった。好きという感情は理性では制御し難い領域だ。そこへきて寿賀の処遇が勅子を抑えて優先されたことは勅子にとってこれまで味わったことのない屈辱的なものだった。頭の中が抑えきれない怒りで一杯になった。これを散らすなどとても出来ない。まして狭い厚狭の居館で顔を突き合わせて生活することになれば抑えきれないものは更に増幅するだろう。この気持ちを周囲に気取られるのは恥辱だ。決して気取られてはならない。だが誰に悟られることなくやっていけるだろうか。結論の出ないまま行くしかないのだった。正室の勅子がすみやかに行くことですべては丸く収まるのだ。
何の憂いもない兄の越後の室の峰子は土着令が出ると、とっとと領邑の宇部に帰ってしまったというのに、屈託を持つ自分が情けなかった。
何時のことだったろう。自分には生みの母がいて、その人は城内の東側にある十一に仕切った長屋の四番目の部屋に住んでいると告げられたのは、青天の霹靂であった、あの日のことは今でも忘れられない。城で働く女中達の部屋だとばかり思っていた。城内で働く女性には違いなかったが、その母が嫁入り前に呟いた。正室は私の夢でした。勅姫様は私の夢を叶えられたのです。勅子は思わず母を見た。一瞬言葉を失った。自分は母の叶わなかった夢を叶えるのだと思った。と同時に母の歩んできた道に思いを馳せ同情を寄せた。それからはその言葉にどれだけ勇気付けられたことだろう。母の分まで幸せにならなくてはと何度も言い聞かせた。そして模範となる正室を目指し良い嫁に徹しようと心掛けた。その母はこの年亡くなった。母の夢であった正室にはなれたが、正室の座は決して母が思い描いた幸せの絵図通りではなかった。元美の父大蔵が本藩「御所帯立直」策の失敗により加判役を罷免されて隠居願いを出した一八一二年、公は二歳で家督を継いだが、そこで教育された領主としての心得に、正室という地位について説かれることあっても生身の女の扱いまで指南している項目はなかっただろうし、まして正室という揺るぎない地位に守られている勅子に寄せる情けなど起こりようはない。
寿賀の方は見捨てればどうなるかくらい誰の目にも明らかだ。しかもたった一人の実の子を儲けた仲で、その大切な跡取りを亡くした深い悲しみは親でなければ共有出来ない。その連れ合いを勅子の実母のように家臣に引き取らせるなどとても出来なかったのだろう。寿賀が寄り添いそれを公が受け止める。寿賀が泣き付いたのかも知れなかった。それに公が応えた。真に愛する男と女の構図を見た気がした。そんな二人の仲は裂けない。どんなに辛くても耐えるしかなかった。自分には武士の妻として代々家を守るという義務があるのだ。その意義を重んじ貫くことに徹することで問題を摩り替えた。その方針を変える積りはなかった。
この乱世に、夫は妻に誠実であれ等と論じている場合ではない。人として意義ある生き方をしてこそ意味はある。有意義に生きるとは、人のために役に立ってこそだ。これまでもそうしてきたしこれからもその方針に変わりはない。意義ある生き方に照準を合わせてきて何を今更である。しかしその一方で気持ちはざわざわとして落ち着かなかった。
部屋が狭くなろうと贅沢が出来なくなろうと少しも構わない。そんなことは微々たることだ。そんな逆境は闘志に変わる。しかし厚狭行きは別物だった。
裏向きの家臣団に促され、明日こそはと公に倣い満願寺、妙玖寺へ別れの挨拶をして八月三日ようやく重い腰を上げた。
いくら渋ったところで行くしかないのだ。
長州は地元は海外列強から次々攻撃されて大打撃を受けたというのに、京都でも大事件が勃発、重大な危機にさらされていた。長州を排除しようと企む勢力により長州勢は突如御所から締め出しを喰わされてしまったのだ。朝廷とは毛利元就が中国地方を制覇した時践祚費用にも事欠くほど式微していた正親町天皇を援助して以来、かの吉良上野介も名を連ねる高家という役職を通さなくても伝奏公家の勧修寺家を介し謁見が許されるほど信頼されていたというのに、その関係が八月十八日を持って破断、禁裏の門の警護を罷免されたうえ、出入り禁止を言い渡されたのである。貢いだ白かねの高は女房奉書(感謝状)四三五通が証明するほど朝廷には貢献しているというのにそれも白紙に戻されたのである。ちなみに高家を通せばきっちり五百両を要する。
それが幕府から遠く離れた遠隔地にあるため長い間目溢しされて朝廷とは篤い信頼関係を保ってきた。しかしこの破断の原因はこの時孝明天皇を取り巻く公武合体派の会津藩と薩摩藩の吹き込む偽りの情報による全くの誤解で、会津と薩摩の陰謀に他ならない。それにしても手のひらを返すような仕打ちに長州勢は面食らった。しかもそれまで長州に肩入れしてきた七人の公卿共々閉め出され、急遽行き場を失った七卿を連れ長州藩士は付き添う形でひとまず兵庫から三田尻への舟に乗り長州に向かって落ち延びることになったのである。先ずは帰って作戦を立て直し朝廷の怒りの原因は公武合体派による陰謀であることを直接天皇に伝えて誤解を解きたい長州は、側近の会津と薩摩の排除から手を付けるべく、強硬派の久坂玄瑞とそれに賛同する真木和泉は、僅かな兵を引き連れ上洛して天皇の信頼を取り戻すべく息巻いた。
だが敵も然る者、おめおめとそれを許しはしない。
未然に長州を阻止しようとする幕府側の公武合体派は新撰組を動かし長州勢の排除に躍起となる。会津薩摩の密偵が暗躍する亰都の街は嘘やでっち上げが横行して、長州やそれに加担する連中にとっては危険極まりない町と化していた。解決の糸口も掴めないまま双方どちらも譲らず小競り合いの応酬を繰り返し、相手を如何に壊滅させるかばかりを模索するも一向に片は付かずそれから二年が経過していた。
その頃勅子の兄・福原越後は藩の重鎮として一目置かれる立場にあり、五月十一日のペンブローグ船攻撃の際の元美の咎が穏便に済まされたのも、勿論越後の後ろ盾が効いていた。越後は弟の恩恵により現在の地位に就いたが、自身の実力にも定評があり温厚な性格は若者達からも支持されて良い関係を築いていた。勅子が厚狭に帰ってからも越後は勅子を気遣い、梶浦開作や本山沖の異船見張りの見分かたがた船木に立ち寄りねぎらっていくこともたびたびあった。厚狭に引っ越してかれこれ一年近くになろうというのに、新地での流儀になかなか馴れないとこぼす勅子を励ましては帰って行くのが常であった。
そしてまみえることが最後となった時も、いずれ七百の兵を引き連れ上洛すると聞いていたが、また会えると思い然程気にも止めなかった。越後に限って戦を起こすなど考えられなかったからだ。
元美や勅子だけではない。越後を知る者は誰しもそう信じていた。逸る久坂玄瑞等に戦を思い止まるよう説得するための上洛であることを、本人も明言しその言葉を誰も疑わなかった。だが上洛してみると長州勢の置かれた境遇は悲惨であった。これまで朝廷の支配的立場にあっただけにその落差に驚いた。はやる久坂を説得するなど悠長なことを言っていられる場合ではなかった。失地回復を目論む長州勢を阻止しようと企む京都守護職にその手先である新撰組は、勝ち残るためには手段を選ばぬ手法を用いそのためにはどんな残虐行為も躊躇いはしなかった。密偵を張り巡らし密議の場所に踏み込んでは長州の一味をひっ捕らえて拷問にかけることも度々であった。最初捕まるのは小者ばかりであったが、じょじょに包囲網は狭まり、とうとう長州を始めとする勤王の志士達を支える首領である小高俊太郎に捕獲は及んだ。新撰組の小高の拷問は熾烈を極めた。キリストの磔に匹敵する残虐さ、足の甲に五寸釘を打ち逆さづりにして足の裏の釘に蝋燭を立て蝋を垂らすというもの。
それでも小高は口を割らない。遂にしびれを切らした新撰組は池田屋を襲撃して志士等を捕え、嘘の証言をでっち上げ次々首をはねた。これを聞いては越後といえども見過ごすわけにはいかない。
聞くに堪えない幕府の所業は温厚な越後とて許せるものではなかった。玄瑞等を鎮撫するどころか越後自身が正義に燃えた。引き連れていった軍勢は元瑞の加勢へと転じた。そしてその時、家老・国司が敬親の発行した軍令状を元徳から受け取ったことを報告すると、戦意は一気に盛り上がった。
七月十九日好機到来、伝令が蛤御門の警護が手薄であることを知らせると急進派を先頭に一気に攻め込み戦いは一時優勢を誇った。だが戻って来た薩摩の加勢で幕府は息を吹き返し、長州勢はたちまち追いつめられて限界を悟った元瑞は自害、六千の兵の先頭に立ち戦った来島又兵衛も、首長を狙い撃ちするするよう指示された敵の作戦にはまり胸を狙撃され戦死。
気が付けば傷を負った越後自身が戦いの矢面に立たされ敗軍の将と成り果てていた。
そしてあくまで会津と薩摩の陰謀により朝廷に向けて矢を放ったという嫌疑を掛けられた長州は、朝廷の信用を失墜し四面楚歌に立たされる。朝廷を敵に回してしまった長州は藩の取り潰しから逃れる延命策として、これは藩主父子の知らないことで脱藩浪人の勝手な振る舞いということにした。
だが敬親父子も関わる証拠の国司に宛てた軍令状が発見されては、言い逃れのしようがない。
長州は窮地に立たされる。急いで何か手を打たねば罪状は藩主に及ぶ。
そこで罪は福原越後、益田右衛門介、国司信濃の三家老の首と引き換えに免れる策を執った。敗残の将となった越後に異議を唱える資格はない。
藩の保守派は藩が取り潰しにならないよう躍起となる一方でこれを機に急進派の息の根を止める一石二鳥の策に出た。長州は断崖絶壁の窮地に立たされ、三家老の処断は急を要した。一刻も早く首級を差し出し辻褄を合わせなければ藩主父子に罪は及ぶ。
三家老の昨日までの家老としての威厳も誇りも即時取り払われ、手のひらを返すようにその時を持って罪人扱いとなった。と同時に罪人に少しでも関わりを持ち今回の事件の関与を疑われれば連座して処罰される恐れが生じ、関連する者、昨日まで恩恵に預かろうと擦り寄った者も、口を閉ざし書状など証拠となるものはことごとく処分し難を逃れようと画策した。
勅子は勅子もそのうちの一人とならざるを得ないことが胸が張り裂けんばかりに苦しかった。
泣いても泣いても涙が止まらなかった。あの温厚な兄がどんな間違いを犯したというのだろう。まわりが勇んでもそれを諌め、その裏で必ず事態を好転させた。その兄が戦の首謀者とは俄かには信じ難い。遠く亰から離れている長州に居ては至って静謐で平和そのものである。だから戦争の勃発した七月十九日、元美公は川に漁に出掛けていたくらいだ。だが只ならぬ気配は勅子ばかりでなく誰もが察する所ではあった。外国勢に戦をしかけて報復されて、そんな殺戮が日常的にあり、ことが起こればやはりあったかと思い、何事もなく済めば取り越し苦労であったかと胸をなでおろし、そのようなことに馴れていた。だから今回も胸騒ぎを抑えられない船木目代が、長府からの帰り掛けの飛脚を呼び止め尋ねたところ、亰で戦争があり亰の街は火の海と化した、京都の長門屋敷に長府屋敷は焼失したと聞いて仰天したくらいだ。それも事件から五日後の二十四日になってからである。
そこでようやく事の重大さを知った。宣次郎は都落ちしていた七卿の内二人病死して五卿になっていたが、亰の実家へ帰郷が可能という情報を得て、十四日彼等を警護し五十人余りの家臣を引き連れ三田尻の港から舟に乗っていた。しかしその報せを受け取ったのは六月二十一日、一ヶ月前のことである。出立したのは戦の直前ということになる。知らずに旅立った彼等の安否も心配だ。だが宣次郎は上陸せずに三田尻に引き返してきた。しかしそれ以外の詳細は要領を得ず、ひたすら神社仏閣を参詣して事なきを祈願するしかない。
藩内が内戦を知って騒然としている二十一日、イギリスの軍艦が二十艘馬関襲撃に向け横浜を出帆したという報せが長崎から入った。長州はペンブローグ号攻撃の半年後に報復攻撃を受けて歯が立たなかったにもかかわらず、海峡封鎖を続行、凝りもせず赤間が関を通過する船に砲弾を浴びせていた。見過ごすこともあるが、自国で作った砲弾の試し打ちのつもりで砲撃していた。
しかし海外列強にしてみれば当たらないとも限らないし、第一ルール違反で失礼だ。四列強は懲らしめの報復措置に出た。学習のない自業自得と言えばそれまでだが弱り目に祟り目、長州は蜂の巣を突いたようにてんやわんやの大騒動となった。宣次郎も休む間もなく元美共々襲撃に備え出陣する。だがイギリスの兵器の威力は凄まじく砲撃台は大破され、陸に上がった乗組員が小銃で撃ちまくれば弾はブリキをも貫通して敵の兵器の圧倒的な威力に長州軍は成す術もないのだった。
元美と宣次郎はすぐさま惣社八幡・岡崎八幡に弾除けの祈祷を命じた。祈祷の御利益どころか祈祷の命も届かぬうちに戦の片は付いて講和に持ち込まれた。
この時、野山獄に繋がれていた高杉晋作が巧みな交渉術をかわれて急遽講和の会談を任され別人に成りすまして登場し、連合艦隊の要人達を前にとうとうと古事記を諳んじて煙に巻き、賠償金の支払いは幕府に押し付けるという快挙を成し遂げたことは人口に膾炙する話である。壊滅し大打撃を受けはしたもののとりあえずこの件はこれで落着した。
一方兵を引き連れ上洛している越後の方は依然不明のままである。
勅子は事の次第を尋ねる飛脚を越後の領邑である宇部に走らせた。そこであらましの事情が解った勅子は、次は徳山へ飛脚・松尾文左衛門を送った。その時既に益田右衛門介から親類始め家臣に宛てた、嫡子精次郎を補佐し後のことを託す書状の写しが届けられて、もう覆しようのない処断が下されていることを知ったのだった。越後・国司・益田の三家老は切腹が言い渡され、益田・国司の身柄は徳山預かりとなり、そこで処刑の運びとなることが決められていた。越後はさすがに実家での切腹は温情により避けられ場所を岩国に移されるということだった。一時的にも実家預かりと聞いた勅子は矢も楯もたまらず、一目会いたい旨を父に伝えた。
だが父は止めた。罪の連鎖を恐れ身内からこれ以上犠牲者を出したくないとのことであった。勅子はそれが辛かった。罪の連鎖から免れようとこれまでの関係をも口を拭って断ち切らせようとする世間の薄情が悲しかった。しかしこれを書状ではなく口頭で伝えねばならないことの重大さ、父の苦衷を察すれば涙を呑むしかないのだった。
勅子は洞玄寺を参詣した。恩返しが出来るとすれば今を置いて他にはないのに、救える手立てが何一つないのは辛く苦しく、この苦しい立場を分かち合えるのは先立った生母の魂だけのような気がしていた。今回の戦の正当性を上訴する三家老の陳情書は却下され、何のための戦いだったか真実が世間に公表されることなく闇に葬られ、自分の命が無駄に断たれることが当人にとって無念この上ないに違いない。勅子は本人が納得できない死であることが残念でならない。歯噛みしてもしきれない。戦の真実を語ることなく断罪されては死んでも死に切れない。それは長州民にとっても同じ思いである。無念を抱いて命を絶たれることがどれほど苦痛なことか兄が乗りうつったかのように苛まれた。
何かと頼りになる兄だった。元美公がペンブローグ船を攻撃せず攘夷に参画しなかったことは天皇に背く行為だとして罪に問われた折りも、元美公は幕命に従ったまでのことだったのだが、今はそれを正当化する時宜ではない、やがて公が正しく評価される時は来ると諭した。そして罪が軽微に済むよう動いた。兄はそういう人だった。今回父も、今は罪科が他に及ばぬよう息を潜めて時間を遣り過ごすしかないのだと勅子を諭した。犠牲となる元僩も血を分けた実の子なら、本藩次期後継者の元徳も実子、父とてどちらを選ぶことも出来ず胸の内は苦渋に満ちているに違いなかった。元徳の母親と勅子の母親は側室同士特に仲が良かった。当事者を取り巻く身内にとってもこの苦しみは生涯背負って生きていかねばならない十字架となった。
勅子には折に触れ思い出される兄の顔がある。それは兄が十二歳のことであった。
正室の子でない男子が、部屋住みから抜け出すことは成長過程における最初の出世であった。住み慣れた家を巣立つ朝、越後は緊張で表情は堅いが養子先が決まって内包し切れない安堵の喜びを噛み締め、笑うでなく怒るでなく何とも言い難い複雑な面持ちを残して去って行った。その後そのような困惑した表情は見たことがない。すっかり無表情を会得していた。
しかしいくら頼もしく頼れる兄となっても、勅子にはあの時のあどけない少年の精一杯背伸びした兄の顔が忘れられない。その兄が戦の首謀者となって責任を取り切腹とは、それを思う度ひやりと冷たい剣先が首筋をなでる感触がして他人事とは思えなかった。
そんな勅子を慮り、元美と宣次郎は藩の鎮撫隊として切腹を言い渡された越後奪還を目論む輩阻止のために出勤していたが、黙々と職務をこなし余計なことは一切言わなかった。今宵異船からの砲撃に備え出動したかと思うと、翌日は夜を徹して急進派による三家老奪取に備え、この頃の厚狭領主父子は戦に備える日々に余念がなかった。とりあえずこの時は急進派も久坂元瑞初め、真木和泉に松島剛蔵と先導するすべてを失い、急には続く者の足並みが揃わず奪還騒動は免れた。
勅子にはこのところ明るいニュースは何一つなかった。心を塞ぐことばかりで自分自身をどう立て直せばいいか自分で自分を持て余していた。得意な馬にでも乗って遠出をすれば気分は変わるかと馬にまたがり走らせても見た。人通りの多い萩に比べ人気のない厚狭はまるで島流しにでもあったような悲愴感が漂う。しかし慣れるしかないのだった。
心を鎮めるには神社仏閣への参詣が一番であった。馬を厚狭毛利家代々の菩提寺である洞玄寺に向けた。元美等の弾除けを祈願し越後の安らかな死を祈った。祈ることはいくらでもあった。越後の処断も最後の最後まで諦めなかった。或いは奇跡ということもある。それを願い修験道の寺である松獄山の正法寺まで足を延ばして参拝しお百度を踏んだ。
しかし祈祷虚しく切腹は執行されていた。十一月十五日、福原越後様十二日死去の報せを飛脚が届けたのであった。
悲しい報せであった。兄は何を思い死出の旅へと赴いたであろう。最後に去来した兄の胸中に思いを馳せずにはいられなかった。きっと戦の意義を釈明しておきたかったに違いない。嘆願は拒否され無念を抱いたまま逝ってしまったことが勅子には残念でならない。三家老の死で藩主父子の罪は相殺されたのだが儚い命であった。勅子は今ある命が夕べにもあるとは約束されない時世であることは解っていたが、身近な兄を失うことでそれが更に切実なものになった。
生きるということ、命とは何かについて改めて考えさせられた。明日をも知れない命と思えば、無駄には生きられない、今を精一杯生きてこそ生きる価値があるようで心引き締まるのだった。自分に今できること、それを成し遂げること、それは何なのだろう、しかしこれといって今は何もない。何もできない自分が疎ましい。忸怩たる思いに駆られた。兄が果たせなかった思いを繋ぎたいと思ってもそれすら出来ない現状が情けなかった。何もできない無力に悶々とするばかり、女であることが更にその壁を厚くした。女であろうと社会に対し言いたいことはある。女でも堂々活躍できる場が欲しかった。女だって日本のために役立ちたいし生きた証しを残したい。だが女は無知なるが賢しという封建思想の壁は揺るがし難い頑強なものとして立ちはだかっていた。