12
───逃げなきゃ。
暗い道を私は走る。
ここはどこだろう。
真っ暗で周りの風景は全くわからない。
ただ、走る道の先がぼうっと薄明かるく照らさられているように見えて、急き立てられるようにその道を走った。
後ろからは私を追う気配。
話し声は聞こえない。
ひとり?
それとも人ではない何か?
───わからないけれど、逃げなければ。
理由の分からない焦燥に追い立てられて走るうちに、どんどん息が上がっていき、足がもつれそうになる。
力が入らなくなってきた足に喝を入れ、更に地面を蹴ろうとしたその時に、ぞわり、と何かが私の足に触れた。
思わず立ち止まると、足には何かが這う気配。
黒い蔦のような、でも形を持たない汚泥のような何かが、私の足元で蠢いていた。
それはまるで私を捉えるかのように、足首に巻き付き膨れる泥に飲み込もうとする。
「いや!」
振り払うように足を払って走り出そうとしても、泥は私の腰にまで巻き付き更に膨らんでいく。
動けずにもがく私の背後に、追ってきた気配が近づいて来るのが分かる。
何かは分からないけれど、捕まったらいけないと、心が粟立つような不安とともに激しい警鐘を鳴らしている。
───嫌だ!逃げたい。逃げるのよ…!
そう思って身を捩って泥を払おうとしたその時に、ふいに体が軽くなった気がした───
◇◇◇
びくり、と体の震えで目を開けた。
靄がかかったような視界がだんだんとはっきりとしてくる。
眼前に広がるのは、薄暗いけれど見慣れた白い天井。
エドたちに与えられた村の一室だ。
「…夢…」
心臓はまだドクドクと嫌な音を立てているが、見慣れた風景にだんだんと落ち着いてくる。
おそるおそる足首に触れたが、絡み付くものなど何もなく、ただするりと指を滑った。
ぐっしょりと汗をかいた体が気持ち悪くて、そっと体を起こして隣のベッドを見れば、トーコがすうすうと寝息をたてている。
窓の外はまだ夜明け前の静けさを湛えているけど、じきに日が昇るのだろう、うっすらと白み始めていた。
手元にあったタオルで汗で湿った額や体を拭い、ほっと息をつく。
しばらく休むと汗も引いて落ち着いたけれど、もう目は冴えてしまって眠れる気がしない。
これはもう起き出してしまった方が良さそうだと、トーコを起こさないように私はそっとベッドを降りた。
◇◇◇
ざば、と音を立てて井戸水が汲み上げられる音が辺りに響く。
まだ日が昇りきる前の井戸は、人気もなく朝靄が漂うだけだ。
私は持ってきた手桶に水を移し、こぼさないようにそっと抱えて立ち上がった。
本来なら部屋で身支度を整えるべきだろうけれど、まだ眠っているトーコを水音で起こしてしまうのも躊躇われる。
人が起き出す前の早朝なら見咎められることもないだろう、と私は部屋に用意している水を使うのを止めて、井戸に水を汲みにきた。
ちょっとお行儀が悪いけれど、井戸端にあるベンチに手桶を置いて手早く顔を洗う。
早朝の冷たい水が、悪夢に火照った顔に気持ちいい。
顔に跳ねた冷たい水をタオルで拭い、さっぱりする。
手桶に残った水を排水路に流して立ち上がったその時に、建物の影から人影が現れた。
ざわ、と心が波立つように動く。
この感覚は、ここ最近で随分慣れてしまった。
人影が朝靄を払うように近づいて来るのを待ち構えるように、私は動けずに立ち止まったまま見つめていた。
やがて朝靄が遮れない程に近づいた彼は、濃い茶色、ダークブロンドの髪に髪の毛とお揃いの深い茶色の瞳をした青年だった。
年齢は私より2、3年上だろうか、まだ陽の光が届かないためか深い茶色の髪と瞳は彼を落ち着いた年長者に見せる。
「おはようございます」
「おはようございます。早いですね」
彼の瞳が戸惑いに揺れる。
夜も明けきらない所に人がいるとは思わなかったのだろう。
「あ、井戸を使うならどうぞ」
「ありがとうございます。あの、」
井戸の側に棒立ちになっていたことに思い至り、そっと場所を譲ると、彼は気まずそうに話を継ごうとする。
「…あなたは、結界師、ですよね」
「はい。ルゥと申します」
「僕は、ルカ」
「あなたも、」
周りに人気は無いけれど、思わず声を落として勇者ですよね、と続けようとしたけれど、それを被せるようにルカが言葉を継いだ。
「ごめんなさい。僕は協力できない」
「え?」
「この国で、その…、勇者として、名乗る気はないんです」
申し訳なさそうに、でも真っ直ぐと私を見てルカは言いきった。
「…それで良いと思うわ」
私の呟くような返事に、ルカは目を見開いた。
私が騎士団と共にいることで、王国に協力する結界師だと判断したのだろう。
そして勇者の協力を願うだろうとも。
そう見られて当然だ。
───端から見れば私はエドの協力者なのだから。
「私も、いずれはここを出るつもりです。いつになるかは、まだ分からないけれど…。できれば、そう遠くないうちに」
今朝の夢はただの夢じゃない。
夢で感じた逃げたいという気持ちは、私自身確かに感じていたのだから。




