第一章 白き翼 -3-
そんな日の晩のことだった。
当人の唐突な無茶ぶりに答えて新たにインストールしたメニュー、牛すね肉の煮込みである『オッソ・ブーコ』なるものを平らげた朱莉は満足げな表情のまま、いつも通りの時間に入浴へと向かった。
その間、いくらAIでも男性キャラクターを与えられたパートナーAIのソラに朱莉との接触は出来ず、必然的に暇を持て余す形になる。
普段であればスリープに入るか、あるいはデータの整理などの時間に費やされる。
だが、今回はそうではなかった。
「何だろうな、何か引っかかってるんだけど」
下手に疑似ニューロンで思考を確立してしまったが故に、明確に自分の記憶が想起されない。こんなところまで人間らしくなくていいのに、と半ば愚痴りながら、ソラはその違和感の根源を探っていく。
今日あった出来事で普段と著しく違う点があるとすれば、あの『依頼』の件に尽きるだろう。実際、なんだかんだ言っても帰り際まで夏樹の表情は曇っていて、流石に気のせいだろうが彼女の赤い髪もしなびて見えるほど、随分と引きずっているようだった。
では、それのどこに違和感があったのか。
「結論に納得がいかない、ってパターンは経験則だけど」
今までもこんな風に、AIながらも考え事をすることはあった。そしてその解決策は、今度はAIらしく母数は少ないが統計に基づいてくる。
今回の結論は、ただのイタズラに過ぎないというもの。依頼で言われている噂や都市伝説など信憑性が欠片もない。
では、視点をまるっきり変えてみよう。
あの都市伝説が単なるイタズラなどでは決してなく。
夏樹も聞いたという噂は、全てが真実だとして。
その可能性は、完全に否定されていただろうか?
「――――ッ!!」
気付いたソラは一瞬で自己のデータベースを精査。該当データの発見と共に、朱莉のいる場所へとアクセスする。
「朱莉!」
そんな合成音声が、嫌に反響しながら響く。
「……あ」
そこで、ソラはどこにアクセスしたかを思い出す。
朱莉は現在入浴中。つまりは、浴室だ。残念ながらアクセスしたのは湯沸かし端末でありカメラはないが、まず間違いなく一糸まとわぬ姿で彼女が湯に打たれていたことだろう。
あの白磁のように透き通る肌の上を滴る雫や、綺麗に輝く黄金の髪が鎖骨の上に張り付く姿まで、優秀な演算装置を持ったソラの中で再現できてしまう。
おどろおどろしく反響する水音の中で、朱莉の声が塗り潰すように響く。
「入浴中にアクセスしてくるなって言ったでしょ、馬鹿なのソラ!?」
バキン、と。
朱莉は容赦なく拳を湯沸かし端末へと振り下ろし、物理的にソラを退場させるのだった。
*
「……申し訳ございませんでした」
そんな訳で。
湯上がりで長い金髪をまだ湿らせたままの朱莉に対し、ソラはタブレットに土下座の画像を表示させ、とりあえず誠心誠意の謝罪から始めることとなった。
とは言え、浴室内にあるUITなど湯沸かし端末か浴室乾燥機程度で、カメラを搭載した端末はない。慌てて声をかけただけで、別段のぞきを働いたわけではないが――……
「……カメラがなければのぞきじゃないとか思ってるなら間違いだから」
「怖い、ご主人様が怖い……」
AIの思考を読み切る演算能力の高さも、そのドスの利いた声も。
「ソラの演算能力があったら音声からだけでも映像を合成できかねないし……」
「流石に出来ないし、そもそもしないし……」
第一AIのソラがどうして人間の女性に欲情する前提の話なのだろうか。そんなメカニズムは搭載されていないのだが。
と、そんなことを口に出せばまた機嫌を損なうのは目に見えている。乙女心は複雑というのは、もう出会ってから散々言い聞かされたことだ。
「疑似ニューロンのAIも考え物だよね。指示された内容を一瞬でも忘れちゃうなんて。バグじゃなくて機能的な問題って言うんだからなおさら」
「心底反省しているので、俺以外のAIまでまとめて非難するのはやめてあげて……」
「まぁ、そろそろ手打ちにしようかな。軽作業用のロボットアームは置いておくから、湯沸かし端末の修理はソラがやること。明日の朝食はわたしの好きな物フルコースで。――それで? そもそもどうしてそんなに慌てて浴室へアクセスしてきたの?」
「そう、その本題に入りたかった」
待ってましたと言わんばかりに土下座画像は削除し、ソラはあるプログラムのテキストデータを表示する。
「昼間の話を覚えてるか?」
「あの依頼にもあった都市伝説の話? あれはデマっていう結論だったじゃない」
「そうだな。――ところで、その手前のお前と夏樹の発言は覚えているか?」
「覚えてないから再生。もったいぶらないで」
まだ少し不機嫌らしい朱莉に促されて、ソラは昼間の音声を流す。――ドライブレコーダーみたいなもので、ソラは音声データを完全自動で三日分保存している。
『とにかく、夏樹ちゃんの気にしすぎだと思うよ。いくら何でも負けただけでUITのセキュリティを突破するゲームなんて、わたしじゃない限り作れっこないよ』
『はっ!? まさか朱莉センパイが全ての犯人!?』
指示されたとおりに音声を流すが、朱莉は首をかしげている。
「これがどうかしたの? まさかソラまでわたしを犯人扱いしちゃうの?」
「犯人扱いというか、加害者の一人というか……」
そう言いながら、ソラは表示させっぱなしのプログラムを見るようにと点滅で強調させる。
「これ、何のプログラムだっけ?」
「お前が五年前に作ったアプリケーション。完全なお遊びで『ゲーム感覚でハッキング先のセキュリティ突破できたら楽だし楽しいよね』という発言の下に作られた、セキュリティのスイッチとゲームでの勝敗を連動させるプログラムだ」
「……発想が馬鹿の極みみたいなんだけど」
「分かってると思うけど過去の自分だからな?」
何の意図もなく「面白そう」なんて理由だけでそれを作ってしまったのだから、天才ハッカーには違いないが、間違いなく馬鹿である。――当時はまだ小学生であったから、ただただ突飛な発想を具現化する方が多かっただけなのだろうし、むしろそれを作れてしまう技術を当時既に有していた方に驚愕するべきなのかも知れない。
だが、ある程度は理にかなった作りにもなっている。
セキュリティの要であるファイアウォールは、外部からの攻撃に耐えるように作られているが、内部からの攻撃には脆弱だ。そもそも役目が違う、と言ってもいい。
故に、ゲームとして『システムの内部に使用者の許可を得て』入り込み、敗北と連動して『内部から』ファイアウォールを削除することで、その防火壁に異常を感知させずに破壊することはできる。――問題は、そのゲームをユーザーの手でハッキング先にインストール、あるいはUITと連携させるところにあり、催眠術などでもない限り実用性など皆無なのだが。
「とにかくお前は本当に『負けたらセキュリティが突破される』っていうプログラムを組んでたんだ。そんで、セキュリティがいくら更新されてもUITになってからは根っこの形は変わらないから、このプログラムなら軽く改良すれば現行でも対処可能だろう」
UITとして様々な端末同士が連携を取るようになった結果、無数にあったアプリケーションの規格や構成がどんどんと統合されるようになった。それはつまり、完全にソフトウェアを刷新するようなアップデートもしづらくなったことを意味する。五年前と現在とで動かなくなってしまったソフトは、少なくともソラの周辺には存在していない。
「……え? 本気?」
「実際動くだろ。いつもお前が適当に作った便利そうなアプリケーションを無料公開しているサイトに、少しの間間違えてアップロードされた形跡も確認した。……言いたくないけど、ダウンロードも数回されてる」
「……全然思い出せない……」
「ちなみに、復旧ソフトでも復旧できない完全データ消去アプリは、申請必須の一回限りのライセンス、って犯罪防止策は付けてあるものの、現在進行形で公開中だ。――ライセンスを外して組み合わせて使われたら、夏樹の噂だった『負けた場合』の症状は完全に再現できる」
もちろんこれは、ただの推論だ。北極と南極の景色を全く同一の写真だと言うくらい、ただそう見えるだけという話かも知れない。
「勝ったときに関しては、噂の時点から情報は曖昧だから判別はできない。けど多くのUITをセキュリティが壊れた状態で待機させられるんだ。演算装置のスペックだけ見れば確かに『何だってできる』状態ではあるだろうよ」
待機させられる数にもよるが、それら全てを並列に繋ぐことができればあとは数を稼ぐだけで、理論上は世界一のスーパーコンピュータにだって仕立て上げられる。完全完璧な形で地球の大気の流れをシミュレートすることだって、不可能ではなくなるだろう。――その演算能力を持ってハックすることを『クラウン』と擬似的に呼称するのであれば、あるいは。
「……ゲームと連動させるプログラムの方、ダウンロードした相手を辿れる?」
「直接犯人だったらそれはラッキーだけど、どうせ根や幹から伸びる枝葉の先みたいに無数に広がっていくだけだと思うぞ。そいつが再頒布したかもしれなし、あるいは中古として端末を売ったかも知れないし、手っ取り早くハッキングされたのかも知れない」
そこを起点に辿っていくのは、正直現実的ではない。それよりは最悪の場合を想定して動いた方がまだ楽だろう。
「……可能性自体は確かにあるね」
「個人的にはその方がしっくりくる気がしてる」
誰かのデータを消去するのに、わざわざゲームと連動させる意味など普通はない。そんな噂を信じる方が馬鹿げているだろう。しかし、順序が逆だとすれば、話は変わってしまうのだ。
ゲームと連動したセキュリティハックアプリケーションを先に見つけたからこそ、それを利用することにした。だからゲームに負けたらデータが消える、などという回りくどく、しかし恐ろしい現象を引き起こしてしまうのだと。
「なんとか止められないかな」
「警察とか大人に相談するのがセオリーだけど、流石に動くとは思えない。なにせ物証は何もないし、内容なんて都市伝説みたいなもんだ。仮に信じて貰っても下手にやればお前の信用に関わる。朱莉が損害を被るのならそんな案を採用するのを俺は認められない」
「じゃあどうしたらいいかな」
「……手っ取り早いのは、俺たちの手で解決することだ」
実際にどれくらい被害が出ているのかは分からない。だが夏樹の口から噂として聞いてしまった以上、全くのゼロであるとは楽観できない。
迅速に、そして自身の信用を守った上での解決を狙うのなら、朱莉とソラで動くほかない。
「……具体的に」
「俺たちでその噂のゲーム――アサルトセイヴ・クラウンズをプレイしてみよう」
「理由は?」
「本当にクラウンを作る気なら、ユーザーにその権利を譲るとは思えない。つまり黒幕がそれを利用してるって見るべきだろう。だとしたら、制作者の俺たちが飛び込めば焦るはずだ」
まずは何より、情報収集が必須だ。そんなプログラムを組み提供しているホストの意図を知る必要もあるし、ただデータを追うだけでは首謀者が見つからない可能性の方が高い。であれば、何かしらの方法で向こうが接触してくるのを待つべきだ。
現時点では、そもそも情報が圧倒的に不足している。それ以外の手立てがないことなど、朱莉であれば理解しているはずだ。
しかし、彼女は首を縦には振らなかった。
「……朱莉?」
「ソラの推論が全て真実だとしよう」
ぽつり、と。
零すように朱莉は言った。
「それはつまり、あれをプレイして負けたら、本当にデータが消えてしまうということ。――解決のためでも、ソラが消えるかもしれないんだよ」
だから、朱莉には頷けない。
彼女にとって家族と呼べる人間は、もうソラただ一人だけだから。
ただのAIと主人ではない。そんな無機質な関係では決してない。言語化できないほどの複雑な感情の果てに、ソラと朱莉の今の関係が築かれている。だからこそ、それはもしかしたら、ただの友人知人などよりもよっぽど大切なものになってしまっている。
それを失う意味は、本人であるソラにはきっと想像も出来ない。ただ、彼女が負うであろう痛みを思えば、ソラはそれ以上詳しく語る気にはなれなかった。
「……最終決定権は朱莉にある。そもそも、俺はお前を説得することも原理上不可能だしな」
いわゆるロボット三原則は、この時代のAIにも運用されている。
一つ、人間・社会に害を為すことの全面的禁止。
一つ、上記に違反しない限りのユーザーの命令を遵守。
一つ、上記に違反しない限りの自己保全の優先。
これがある以上、ソラの方からこの危険なデスゲームに飛び込むような真似は出来ないし、そうなるように朱莉の言動を誘導することもまた。それらは三つめの項目に違反してしまう。
だから、全ての決定権は朱莉にある。彼女がやれと命じさえすれば、それだけでソラの拘束は解かれるし、拒否すれば彼は大人しく引き下がるほかない。
「……少し、考えさせて」
朱莉は顔を伏せたままそう言った。
「もちろんだ」
「うん。――今日は、ソラが髪乾かしてね」
「……任せな、我がご主人様」
朱莉の甘えを受け入れて、彼女が握るヘアドライヤーの電源を入れる。
優しく撫でるように、暖かい風でソラは彼女の美しい金糸のような髪に触れるのだった。