第三章 誓いの剣 -5-
「ソ、ラ……?」
朱莉の呼びかけに、彼は応えない。
あれほど悪鬼羅刹のごとく暴れていたイクスクレイヴは、まるで電源を落としたように静かに佇んでいた。
眼前のバスタードは地面に沈んだまま動かず、しかしその耐久値はほんの数ドットだけ残されている。
そこまで追い込んで、ソラの活動が停止しているのだ。
「消えてはない……」
言い聞かせるように朱莉はそう呟いた。もしもソラの人格が完全にユウに乗っ取られたのなら、停止ではなくユウとして活動しているはずだ。
そう思っていても、そう理解していても、心臓は壊れたみたいに胸を打ち付けている。冷たい汗が背中を濡らして、凍えたみたいに指先が震えている。
思い出したくなんてないのに、もうとっくに忘れたはずなのに、幼い日、母親がこの世を去ったその日のことがフラッシュバックする。
ソラが消えるということは、彼女にとっては家族の死と同等だ。だから、どうしようもないくらい鮮明にその記憶と今が結びついてしまう。
視界が滲んで、世界の境界線が薄れていく。
「ソラ……っ」
絞り出すような声すら遠い。自分の心さえ押し潰されて消えてしまいそうだった。みしりと、そんな音が聞こえてくるようですらあった。
「落ち、着け……よ……」
ノイズ混じりの声がした。
ばっと顔を上げれば、タブレットの画面が不規則に点滅している。自壊しそうになる心が、そんな一言だけで救われる。
「ソラ!」
「悪い、一回落ちてた……。イクスクレイヴの操作プログラムもAI不在でエラーを吐いて止まったらし、い……」
ノイズは次第に薄れていく。だがそんな状態に陥るほど、ソラの演算領域が圧迫されていたという事実に変わりはない。
原因なんて決まってる。――ユウの人格が、もう限界近くまで表出しているのだ。
「まだ――……」
覚えているか、と、そう聞きそうになって、朱莉の喉が干上がった。
もし、彼がほとんどの記憶を失っていたら。その事実を彼の口から聞かされたら。果たして自分は平静を保っていられるだろうか。
無理に決まっている。今でも、恐怖なのか後悔なのかも分からない冷たい感情を前に、涙が溢れそうになっているのに。
「安心しろよ、朱莉」
息を整えるように一拍おいて、ソラは彼女の名前を呼んだ。――それが、彼女の不安を払拭する一番の呼びかけであると、彼は気付いていたのだろう。
「俺はまだ覚えてるよ。――言ったろ? ずっと傍にいるって」
その言葉に、今度こそ涙が溢れてしまう。言葉は出ないのに、その熱い滴だけは止まってはくれない。
「それより、早くバスタードを――……」
なんとかソラは意識を戦場に向けさせようとする。――そこで、朱莉はハッとした。
ソラの最後の攻撃からどれだけ時間が経ったかなんて、考えるまでもない。たとえどれほど耐久値が限界に近かろうと、ダウンから起き上がれば反撃があって然るべき。所詮はゲーム、耐久値がどれほど削られようと、部位破壊でも発生しない限りスペックの低下はないのだ。
なのに、クロスワン・バスタードは動かない。
『そこに……』
そんな声があった。
スピーカーの不調などではなく、ただ彼女の声はどうしようもないくらいに震えていた。
『そこに、ユウがいるの……?』
どくり、と、心臓が鳴った。
その一言で十分だ。――あの最後の謎の声の持ち主は、紛れもなくユウだったのだ。美海を庇うように無理矢理彼の人格が現れた反動で、ソラのAIが一度強制終了したのだろう。
ユウとソラの関係を知られれば、朱莉たちの勝利条件は潰える。彼女はASCで戦ったところで一切のメリットがない以上、ほんの数日逃げ回れば、ソラはユウに侵食されて終わりだ。あとはユウの意志で勝手に彼女の元へと帰るだろう。
――なのに。
『見つけた』
それは、決して綾城美海の声ではなかった。聞いたことのない、どこか平坦な女性の声。――それは、安物のAI特有の合成音声だ。
『やっと見つけたよ、亡霊』
眼前のバスタードが、狂ったように暴れ回る。無作為に、もはやイクスクレイヴすら狙わずに放つ銃撃の嵐は、歓喜の雄叫びのようだった。
それが美海の操作でないことなど一目瞭然だった。
『な、んで――……』
その状況に一番驚愕していたのは、間違いなく綾城美海だった。
だがそれは、バスタードが自身の操作を離れているからではなかった。
『なんで、ルナの声がするの……っ!?』
その叫びに、まるで電流が走るみたいに朱莉の脳内をその名前が駆け巡る。
彼女の交友関係のどこにもそんな名前は存在しない。
けれど、知っていた。
たった一度聞いただけ。だがそれでも、ソラを助ける手がかりになるかも知れないと、そのときの記憶はまるでレコーダーのように鮮明に、一ビットのデータも欠損させずに彼女の脳内に残っている。
ルナ、とは。
綾城美海が『ユウ』を作成する以前の、彼女のパートナーAIの名だ。
『なんで、って不思議なことを言うなぁ、美海は。――私はあなたのパートナーAIだよ? いつだって傍にいるに決まってる』
ぞっと、凍えるような声音だった。
『だって』
顔なんて見えやしないのに。そもそもそんなものはないはずなのに。
鈴葉朱莉には、あるいは、綾城美海にさえ、彼女がおぞましい笑みを浮かべていることが容易に想像が付いた。
『私がホストだからね』
音が鼓膜を滑る。
なにか決定的なことを言われているはずなのに、脳がそれを理解できない。声音と内容が乖離しすぎていて、まるで錯視みたいに情報が抜け落ちる。
『なにを、言って――……』
『私がこのASCのロワイヤルプログラムを作ったんだよ。全部、美海のためにね』
その楽しげな声色に、朱莉も美海も動けない。砕けたガラス細工みたいな、そんな不可逆的な破滅を感じさせられていた。触れただけでも傷付けられそうな、そんな鋭利さすらあった。
『美海はユウに囚われすぎてるよ。佑輔が死んで、ユウなんてAIを作って自分を慰めて。駄目だよ、そんなに死人に囚われたら。そんな風に過去に縛られるなんて可哀想。――だからね。私が助けてあげるの』
まるで正義を振りかざすかのように、彼女はそう宣言する。
『ユウを消そう。あんな亡霊はなかったことにしよう。佑輔を思い出してしまうどんなデータも消してあげよう。そうすれば、美海は前を向くしかないでしょう?』
『そんな――……』
『お礼はいいよ。私は、美海のために頑張るんだから』
それは、あまりにも歪んでいた。
まるでそれこそが正義であるかのように自らの思考回路すら偽って、ルナというAIは完全に暴走を始めている。
『なのに、おかしいな』
ザザ、と。その声にノイズが走る。
『どうして、美海はまだ囚われているの? 佑輔は死んだ。ユウも消えた。思い出も残ってない。だったらもう前を向けるはずなのに。私と一緒に前を向いてくれるはずなのに。――そう思っていたら、ユウがロワイヤルにバックアップを残したログが出てきたんだよ』
身体が動いてくれない。
『私はAIだけど、ソフトを開発できるほどの力量はない。せいぜい、既存のプログラムをつなぎ合わせるだけ。だから下手に改変されると手が出せないんだよ』
動いてはいけないとすら思う。
『きっとそのせいだよね。美海が過去に囚われ続けているのも。――私を忘れてしまうのも』
状況が有利なのは間違いなく朱莉たちだ。耐久値も優位に立っているし、武装に関して言っても射撃のバリスタしか残していないバスタードとメイン武装のアスカロンを持ったイクスクレイヴとでは勝負にもならないだろう。
けれど、戦えない。そんなことをしたら致命的に、決定的に、転がり落ちるように何かが壊れてしまう気がした。
『だからね。私が消してあげるの。その為に美海にもう一度ロワイヤルの権利をあげて、餌にした。案の定引っ掛かってくれてありがとう。――今度こそ、綺麗にその亡霊を消し飛ばしてあげるよ』
「……歪んでるよ、それは」
『理解できない』
朱莉の指摘を、そんな機械的な言葉一つで彼女は拒絶する。初めから、ロワイヤルを始めたその瞬間から、彼女はそんな言葉を処理する気などなかったのだ。
同時、まるで自爆するみたいにバスタードは霧散する。――ルナが撤退を選択したのだろう。
それでも勝利は勝利。これで朱莉が一度奪われたポイントも含めて、綾城美海の保有するポイント全てが朱莉たちに流れ込む。
――はず、なのに。
いつまで経っても、モニターは勝利を示す戦果画面に遷移しない。
まるで代わりだとでも言うように、白い繭の中に、真っ赤な警告音が鳴り響く。
『さぁ、始めようか。鈴葉朱莉。あなたに恨みはないけれど、美海を救うためだから。その亡霊のデータを、塵も残さず焼き尽くしてあげる』




